昨年の秋日本に行った時、松本と安曇野を訪問しましたが、
今回は、松本城訪問の様子を見てやって下さいね。
今回は、松本城訪問の様子を見てやって下さいね。
信州長野生まれで育った私は、確か小学6年生の春に
松本から諏訪への修学旅行で1度訪問していますが、
それ以降はいつも素通りで、町の様子も知らずのままで、
今回漸くに安曇野も含め訪問できたと言う訳でした。
松本から諏訪への修学旅行で1度訪問していますが、
それ以降はいつも素通りで、町の様子も知らずのままで、
今回漸くに安曇野も含め訪問できたと言う訳でした。
写真は、お城、天守への内堀を渡っての二の門。

復元された門との事ですが、立派で控え壁には鉄砲用挟間も
見られ、外人観光客の姿もかなり多く。
案内図をどうぞ。
上の二の門は、中ほど下に見える「現在地」から上、
6の数字にあり、

2.本丸御殿跡、3.二の丸御殿跡も実際には建物が無いので、
6.の二の門の後は11.黒門を通ると、広い庭園になります。
6.の右、外堀を渡っての位置に、10.太鼓門、門の上に
楼上があり、鐘と太鼓で情報を伝えていたと言い、
ここは見ませんでしたが、復元された大きな立派な門で、
多分こちらが家臣の登城門だったのでしょうね。
楼上があり、鐘と太鼓で情報を伝えていたと言い、
ここは見ませんでしたが、復元された大きな立派な門で、
多分こちらが家臣の登城門だったのでしょうね。
11.の黒門、こちらも復元された物と言いますが、
本丸御殿に通じる重要な門で、

柱にも初代城主であった石川氏の笹竜胆の紋。

門の内側に、この城の歴代藩主の名と紋所が。

元々は16世紀の初め、当時深志城と呼ばれた城が築かれたのが
始まりのようで、城主は戦国の世の中で色々変遷があり、
最初に名の見える石川数正が入城したのは1590年、徳川家の
関東移封後で、彼が天主を築き、城郭、町の整備も行ったとの事。
こうして代々城主が変わりながらも引き続き、
明治2年までという城の歴史です。
明治2年までという城の歴史です。
松本城のサイトはこちらに。
http://www.matsumoto-castle.jp/splash
http://www.matsumoto-castle.jp/splash
黒門から入ってくると、広い庭園の向こうに大天守が聳えます。

そうなんですよね、この松本城は平城!
もともとの築城年を考えると、ちょっと不思議な位なのですが、
天守のある城としては唯一の平城なんだそう。
そして、えっへん、私が威張っても始まりませんが、ははは、
そう、この松本城は日本に5つある国宝の城の1つ!なんですねぇ。
(4つかと思っていましたが、松江城が昨年指定を受け)
他の3つは犬山城、彦根城、そして姫路城ですね。
犬山は明治村に寄った記憶がありますが、まだ城は知らずで、
重文指定の他の7つの天守も美しく、チャンスがあれば!です。
そう、この松本城は日本に5つある国宝の城の1つ!なんですねぇ。
(4つかと思っていましたが、松江城が昨年指定を受け)
他の3つは犬山城、彦根城、そして姫路城ですね。
犬山は明治村に寄った記憶がありますが、まだ城は知らずで、
重文指定の他の7つの天守も美しく、チャンスがあれば!です。
サイトで見つけた、名と高さ入りの写真をどうぞ。

という事で、乾小天守と大天守を繋ぐ渡り櫓の下にある、
大手口から入ります。
これは大天守の石垣の迫り出し具合。 角の上には石落としも
見える実戦構造の城で、黒の色は漆塗りなんだそう!

石垣前に武者姿のこの方がおられ、皆さんとの記念撮影に
応じられていたのですけど、shinkaiがお願いしますと言い、
1人撮影とわかって、あっ、あれっ、とちょっと照れたりして、ははは。

むむ、お持ちの三階菱の紋所は、2代目城主小笠原氏の
物でござるな、おぬし。
物でござるな、おぬし。
ささ、大天守へいざ、いざ、お進みめされ!

ちゃんと靴を脱いで、ビニール袋に入れて持って上がって下さいよ、
そこの外人さん。 英語でなんていうの? ははは。
そこの外人さん。 英語でなんていうの? ははは。
松本城天守の構造。

上がる前にしっかり読んで、というのをいつもパシャッと撮って、
ブログ書きの前に読んでなるほど、というshinkaiで、
戦国時代終わりの築城にしても、やはりそれなりの実戦体制を
取っての築城だったのが、鉄砲攻撃に備えての厚い壁とかで分りますね。
取っての築城だったのが、鉄砲攻撃に備えての厚い壁とかで分りますね。
大天守の壁の中には、木の枝とか縄を挟み塗りこめてあり、
厚さが20~30cmもあるそうで、これだと火縄の玉も通しません。
厚さが20~30cmもあるそうで、これだと火縄の玉も通しません。
明治時代にこの大天守が傾き、大改修が行われた様子で、
この説明の2の、天守台の石垣の中に16本の栂材の丸太柱を
埋め込み、千トンの重さを支える、というのが、丸太柱の老朽で
支えきれなくなった、という事情もある様子。
この説明の2の、天守台の石垣の中に16本の栂材の丸太柱を
埋め込み、千トンの重さを支える、というのが、丸太柱の老朽で
支えきれなくなった、という事情もある様子。
昭和に行われた解体大修理の際に発掘された柱は、
殆どが腐食され形を留めていなかったとの事。
400年もの歴史を持つ城ですものね!
殆どが腐食され形を留めていなかったとの事。
400年もの歴史を持つ城ですものね!
大天守の北にある乾小天守ですが、「北」にある小天守が
「乾」・北西を指す、と呼ばれるのは、
「北」が意味する言葉の不吉さを嫌ったからなのだそうで、
大天守と違って、こちらには丸太の柱も使われているそう。
すり減り、磨き上げられた、床と柱の美しさに目が行きます!

階段の踏み板も、支えもツルツルすべすべ。



中はやはり薄暗く、窓の外の快晴の空、緑が嬉しく、


ね、この柱の見事さ! 木目の美しさ!
床が黒いのは、これもかっては漆塗りだったんだろうか?

大天守側への渡り櫓部にあった、大きく曲がった梁の太い柱。

こんな自然のままの柱は強度に強いのだそうで、
傍らの管理の小父さんが、この柱は何の材木だと思いますか、と出題。
でも、この城の名に因んだ名前です、とヒントもね、ははは。
というので覚えると、忘れませんよね。
でもね、凄みのある木目でした!

昭和の大修理(昭和25~30年)で取り替えられた展示品もあり、
これは鬼面鬼瓦。
余り怖くなく、笑っている可愛い顔にさえ見えますね、ははは。

大天守の1階の大広間、鉋や手斧で仕上げられた柱が
整然と薄暗い中に並びます。
整然と薄暗い中に並びます。


この広間の周囲は約45cm低い武者走りが取り囲みますが、
土台は2重になっているそう。
大天守の上を守っていたシャチ。 口を開けているのが雄で、
閉じているのが雌、というのですが、これは雌かな?

かなり興味をそそられた火縄銃の各種の展示があり、
長いのと、馬上筒と呼ばれる短い物。


説明図によると、大筒と呼ばれる口径30mmの物が、大阪夏の陣では
昼夜を分かたず打ち込まれ、和議を早めたという事で、
これ位のものだと射程500mほどの命中率はなかなかのものだった。

馬上筒は加藤清正が武器として取り入れたのが初めで、馬上で使い易いよう
50cm程の長さの火縄銃で、近距離用。勿論連続発射は出来ず。
右上に見える抱え大筒とは、口径25~40mm程までの火縄大筒で、
これを抱えて撃つ日本独特のものなのだそう。
狭い坂道でも抱えて運べ、山城攻めとか、戦国後期に威力を発揮と。
これを抱えて撃つ日本独特のものなのだそう。
狭い坂道でも抱えて運べ、山城攻めとか、戦国後期に威力を発揮と。
こちらは鉛の玉。 勿論手つくり。

で、考えた事もなかったですが、これは戦国期の武士の妻や娘の
仕事だったそうで!

夫の火縄銃に合った玉作りに精を出すかっての女達の姿を思うと、
いじらしくもあり、少々おかしくもあり!
火縄つくりも大切だったようで、良い火縄だと命中度が違い、
木綿の火縄だと火持ちも良く、灰も真っ白で軽く、
引き金を引いて玉の出るタイミングもとても良いと!
ですが、木綿はかって北の国では栽培できず大変に高価だったので、
刺し子や菱刺しの起源もこの理由からでしたし、
古くには繊維の長い竹や麻を混ぜて火縄を作ったとも。
刺し子や菱刺しの起源もこの理由からでしたし、
古くには繊維の長い竹や麻を混ぜて火縄を作ったとも。
甲冑ですが、後ろに「当世具足」と見えるように、
戦国時代に当時の鉄砲戦に相応しい形を考えだした物で、

かっての煌びやかな革の小片を繋いだものではなく、
鉄を使った大量生産で、鉄砲戦に対応した強い物、玉を
反らせるために曲線や傾斜を多用し、機能性を重視が特徴と。
背中に玉込め用の棒・カルカを背負い、腰には玉入れを下げ、
肩から口薬・点火薬入れの水筒みたいなのを提げ、
これで火縄を持つと約20kgの重量だったと!
肩から口薬・点火薬入れの水筒みたいなのを提げ、
これで火縄を持つと約20kgの重量だったと!
ふっと気づいたのですが、玉込め用の棒がカルカとは!
イタリア語でカーリカ・caricaは職務、積荷、充填、仕込みなど
を指し、戦闘での「弾込め、撃つ用意!」は動詞caricareから、
carica・カリカなんですね!!
イタリア語でカーリカ・caricaは職務、積荷、充填、仕込みなど
を指し、戦闘での「弾込め、撃つ用意!」は動詞caricareから、
carica・カリカなんですね!!
仏壇にお供えする水を「閼伽・あか」と言うそうですが、
これはacqua・アックワから来ているのかも、と聞いた事があり、
これはacqua・アックワから来ているのかも、と聞いた事があり、
遠い土地からの由来の言葉だったかも、と思い至りました。
これは4階にあった大広間の一廓、御簾で囲った御座所。
有事の際の御座所として使われた様子。

窓の形は、大屋根の下に作られる千鳥派風・東西と、
南北にある唐派風とがあり、こちらは唐派風で、

こちらが千鳥派風の窓。

大天守の中には1階から6階まで階段が7箇所あるそうで、
どの階段もかなり急な階段で、とりわけ4階から5階への階段が
傾斜が61度もあり、おまけに蹴上げが約40cm!
掴まりながら上がるのですが、足元は勿論見る余裕がなく、
ヨイショ!と足で探りながら上がる感じで、
ヨイショ!と足で探りながら上がる感じで、
今奥に見える階段の上の部分がそれ!

昔の人は体も小さく、脚も短かったでしょうに、はは、
大変だったでしょうねぇ~、ひひ。
こうして上がった最上階、屋根の下に見えた注連縄。
納得しますです!

見えた、国宝指定書、昭和二十七年三月二十九日。

窓から見る松本の街。

乾の小天守の屋根。

内堀の西側と埋橋(うずめ橋)。
4年前の地震で埋門の石垣がずれ、現在こちらからの入城が
停止されているとの事。

そして黒門方面。

階段を降り、最後はこの月見櫓。

大天守に続いての辰巳附櫓、そして月見櫓ですが、
徳川3代将軍家光が長野善光寺参拝の途中に松本に寄る、
というので建てられたそう。
徳川3代将軍家光が長野善光寺参拝の途中に松本に寄る、
というので建てられたそう。
外側には赤い欄干を巡らした月見櫓らしい風雅さなのですが、
結局善光寺参拝は中止になったそうで・・。
結局善光寺参拝は中止になったそうで・・。
大天守の最上階に上がった辺りで、カメラ電池の消耗に気づき、
最低限の写しにしていたのですが、
遂に最後の1枚!となった、内堀越しの大天守の眺め。

という、長年の夢でもあった松本城再訪でしたぁ。
最後はサイトから1枚拝借、美しい雪化粧の松本城をどうぞ!

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