・ n.2 信州安曇野 ・ 碌山美術館 

東穂高出身の日本近代彫刻の父ともいえる荻原碌山
(本名は守衛)の素晴らしい美術館を安曇野に訪ねました。

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先回ご案内のわさび田から西に行った所で、
長閑でこじんまりとした一廓、木々に囲まれてありました。

荻原碌山が安曇野出身であった事も知らずでしたが、
中で出会った様々な人物名、高村光太郎、相馬黒光などと
どんな関係だったのかを知る為にもあれこれ読み、
明治末期の日本の芸術家達の様子をも想像しながら、
碌山美術館の本当に細部まで拘った美しい館を
懐かしく想い出しています。
      
殆ど何も知らないまま見学し、その資料展示などからも
博物館と思ったのでしたが、
「碌山美術館」となっている事を知りましたので、ここに訂正を。
上は、道に面してある「碌山美術館」の入り口。



植え込みがあり、右手に切符売り場で、シニアで、と言いましたら、
ここにはそれはありませんと。あれま!

そしてそこから振り返ると左手奥に、この教会を模した建物。
こじんまりと、そして格調高く!

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建物の入り口に絡んだ蔦が、ちょうど紅葉を始めた所で、
とても良い雰囲気。

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敷地内には幾つかの展示館があるのですが、
この一番の主たる展示館の様子を右側から撮った写真を
サイトで見つけたので、拝借し。

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こんもりとした木々に囲まれ、静謐な空間。



入り口に向う右手に、この「労働者」の像。
       
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これは第3回文展に出品したものの落選したそうで、
像が戻ってくるなり、碌山は左腕と両脚を取り除けたと。



入り口上部。 塔の上にあるのは鳩の像。

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扉にあった碑。

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碌山美術館    1958
この館は29万9千100余人の力で生まれたりき。

美術館は、地元の人々の寄金により出来上がったのだそうで、
この碑も単なる碑ではなく、周囲を楓の葉かな、が囲み、
留め金部分も、ほら、薔薇の花みたいでしょう?
この他にも、扉のノッカーが、キツツキだったと。
  
主となっている「碌山館」の設計は、今井兼次と言う方がされ、     
他の2棟の設計は基俊太郎と言う方が。
彼のお父さんは彫刻家で、碌山の友人だったご縁の様で、
そんな事もあってか、まさに心のこもった配慮の設計が感じられ、
それが大変に居心地の良い、暖かな美術館となっている様子。
       


入り口を入った所のロビー部とでも言うのか、
左側に彫りを施した厚板の台があり、

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右側には、暖炉と薪置き台。 

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館内は写真禁止でしたので、碌山美術館のサイトから拝借の
写真で様子をご覧くださいね。

入り口部分から奥に。 上部に見えるのが碌山の写真で、
手前はフランスに留学中の作品と言われる「抗夫」、
奥の左から2番目、腕を組んでいるのが「文覚」

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奥から入り口部分を、右列真ん中にお尻が見えるのが
「絶望・デスペア」

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真ん中左に見えるのが「女」。 碌山の絶作となった作品。

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両手を後ろで組み、ひざまずいて立ち、何かを求めるように
上を向き喘いでいる女の姿。 
      
この作品は碌山の死後、文部省に買い上げられ、
日本の近代彫刻としてはじめて重要文化財に指定されたものと。



この作品の粘土での試作と、碌山が一緒の写真。
    
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荻原碌山
1879年・明治12年12月1日-1910年・明治43年4月22日
画家を志し1901年にニューヨークに渡り学び、
1904年にパリでロダンの「考える人」を見て深く感動し、
彫刻家になる事を決意。
1906年からパリのアカデミアで彫刻を学び、1908年に帰国。
1908年に文展に「文覚」入選。
1910年「女」を制作。 4月22日に急逝。
       
僅か30年の生涯、画家を志しニューヨークに渡ってから10年、
彫刻を学び帰国して後2年! の本当に短い生涯でした。


上の「女」の像は、実際のモデルがいますが、
新宿中村屋の創業者相馬愛蔵と妻の黒光(こっこう)夫妻の
黒光が碌山と恋仲であり、モデルだったと言う説が通っています。

その相馬黒光(本名は良で、その才気を少し黒く隠せという
ニックネームから来ているそう)で、少女の頃の様子と、

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これは碌山の一周忌に、彼を偲んでアトリエに集まった人々の
写真で、安曇野の旧家出身の相馬愛蔵、碌山の長兄の本十も、
他にも著名人の名が見えます。

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碌山はまだ安曇野にいる頃に、土地の旧家の相馬家に
嫁いできた黒光と知りあったそうで、
帰国して新宿にアトリエを構えてからは、中村家に通い、
家族の一員のようにして付き合い、
留守がちの夫に代わり事業を切り回していた黒光に、
弟のように甘えたりもしていたそう。

夫の愛蔵の浮気に悩む黒光を慰め励まし、それでも離婚しない
黒光への愛情と渇望に苦しむ中から生まれたのが、
「女」の像と言います。
       
が、手前真ん中に見える中村彝、に実は驚いたshinkai。



まん丸の赤いほっぺの少女像、同じ顔の裸婦像も
相馬夫妻の娘の俊子だったと知ったのも驚きでしたが、
 
中村彝のこの「ワシリー・エロシェンコ像」の画家が、
ずっと昔、絵を始めた頃に衝撃を持って見つめたこの絵の画家が、

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いわゆる中村屋に集まる文化人のサロン「中村屋サロン」の
常連の1人だったと言うのにも驚き!



こちらは劇団関係にも援助をしていたと言う相馬夫婦の、
そちらの集まりの際の写真。

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中村屋サロンの幅広い交流を通し、確かに芸術家達が育っていった、
と言うのも間違いないようで。

中村屋の3Fに美術館が開館し、サロンを通して交流した
芸術家達の作品が見れる様子です。
新宿中村屋サロン美術館
https://www.nakamuraya.co.jp/museum/


ちょっと話が前後しますが、
碌山が、黒光を慕い愛し、切望したのは確かだろうと思うのですが、
よく書かれている様に、黒光が夫の浮気に苦しむ姿云々により、
と言う単純な人物構図だけではなかった事も、今回読んで知りました。

確かに夫の愛蔵の浮気に黒光が苦しんだ事もあったようですが、
愛蔵は大変度量の大きな人物で、逆に黒光の男関係には
一言もいわず、黒光はサロンに集まる男達を、才気と美貌で
ペットにする部分もあった様で、
実際、碌山の親友の高村光太郎などは、彼女を大変に嫌っていたと。

確かに彼女の才気、事業での頑張り、成功には敬意を表しますが、
女同士として友人になりたい人かというと、ちょっと違うかも。
       
私が読んだ「相馬黒光という女」は見つけられませんしたが、
こちら「相馬愛蔵 相馬黒光」にはかなり詳しく、周囲の人物像についても。       
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/information/pdf/jitsugyouka/012souma.pdf
    


館の南側と、見える塔。

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そして西の裏扉。 この佇まいがとても気に入りました。

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この脇に高村光太郎の詩を刻んだ碑があり、

荻原守衛

単純な荻原守衛の世界観がそこにあつた、
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。
単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。

――原始、
――還元、
――岩石への郷愁、
――燃える火の素朴性、

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラック。
ひとりぽつちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。

粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動きが出来んよ、追ひつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
 荻原守衛は血の塊を一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。

昭和十一年 高村光太郎 作


他にも2棟、碌山と交流のあった人物の作品の展示館が
ありましたが、省略させて頂き、


これは入り口に近い場所にあったグズベリー館、ショップ。
       
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入り口にかかる暖簾に「Love is Art」とあるのを見て、
きゃ、と敬遠したのですが、すみません、こういう言葉は苦手で。

ですが、今回あれこれ読んでいて、これは碌山の言葉
  LOVE IS ART, STRUGGLE IS BEAUTY.
  愛は芸術なり 相剋は美なり  
から来ているのだと知りました。 言葉の独り歩きは、怖い!!



ショップの前にあったこんなテーブル。

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こちらは倉庫だったか、校倉造りを模し、
細部の和洋折衷装飾が大変に凝っていて、

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なんとなしに帰国した碌山の気持ちを考え、
彫刻を学び生まれた自国に戻ったものの、
当時の日本には西洋彫刻を受け入れる態勢もなく、
時にはどんなにニューヨークやパリを懐かしんだろう、
そんな気持ちが現れているようで、ちょっと切なくなりました。

当時の日本の芸術家達の気持ちは、皆こんなだったでしょうね。
 
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
        萩原朔太郎
       
う~ん、少し湿っぽくなったかな。



最後は、サイトで見つけた雪景色の美術館をどうぞ!

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信州は松本近くまでお出かけになったら、
是非一足延ばし、碌山美術館にお出かけ下さいね!

碌山美術館
住所:長野県安曇野市穂高5095-1
TEL:0263-82-2094

開館日:5月~10月  無休
休館日:11月~4月月曜日と祝祭日の翌日。  
    12月21日~12月31日。
開館時間:3月~10月 9:00 ~ 5:10
     11月~2月 9:00 ~ 4:10 (入館は30分前まで)
入館料:大人700円、高校生300円、小・中学生150円、
    団体料金あり
アクセス:電車利用=JR大糸線穂高駅下車徒歩約7分、
車利用=安曇野ICから約15分 駐車場あり

公式サイト  http://www.rokuzan.jp/


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