・ サンタ・ソフィーア聖堂博物館 ・ イスタンブル

イスタンブル観光で見落とせないものはたくさんありますが、
中でも私にはこのサンタ・ソフィーア聖堂がその1つでした。

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歴史の長さ、変遷の多様さ、その素晴らしい美と大きさ、
それらすべてが、少々読んでも飲み込めず、
実際の訪問時も、ガイドさんの話も聞かずに見とれ続け、
写真撮りに熱中、という様子でした。

でブログでご案内をと決め、写真を整理しつつ改めて読み、
漸くに少し何を見て来たのかが分かり、
今回はいつもよりまた写真が少し多くなりましたが、
年末のお忙しい時、お茶でも入れてご一服、ごゆっくりどうぞ!!

上は、正面から南向きの威容。
この聖堂に向い合わせの位置に、ブルー・モスクがあります。



近寄った位置から。 主ドームの上には、イスラムの半月の飾り。
かっては外装が漆喰で塗られ、彩色されていたのが残ります。

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このサンタ・ソフィーア聖堂、アヤソフィア、ハギヤ・ソフィアと
あれこれ呼ばれますが、「聖なる叡智」を現すそう。

東ローマ帝国(ビザンティン)の正統キリスト教の大聖堂として、
コスタンティーノ帝により335年に建設されたのが初めで、
その後拡張415年、地震、大火による被害など等と続き
ジュスティニアーノ帝により再建設されたのが537年、
その後の修復なども何度かあり、

聖堂内に入る前に横に回ると、
この様に以前の建材が保存されておりました。

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1453年、オスマン・トルコにこの街が征服されて後、聖堂は
モスクに改装され、周囲に4本のミナレット・尖塔も増設。

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入り口脇に清めの泉があり、

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軒下の飾リ文字、装飾と、丸屋根上の飾り。

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これは確か聖堂側の壁際だったと思うのですが、
たくさんの清めの為の蛇口。

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サイトから拝借の図で、この聖堂の大きさをどうぞ。
聖堂中心の大ドームの先までの高さ、55,6m
内部の長さは80,9m  内部のみだとほぼ正方形、3廊式。

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こちらもサイトから拝借の内部の図。 1階部のみですが、 
2.が外にあった清めの泉

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19. 説教壇
20. スルタンの御座所
21. ミフラブと呼ばれる、メッカの方角を示す壁龕
22. 大理石の壷 
24. 2階の回廊への上り坂



たくさんの人で、前廊にあるこの入り口扉の写真が撮れず
サイトより拝借。

皇帝の扉と呼ばれ、かっては多分皇帝のみが使ったものと。
現在は我々庶民もの入り口、ははは。

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上に見えるモザイクと天井のフレスコ画は撮っており、



こちら。 キリストの足元に跪くのは、「賢者」というニックネームの
レオーネ6世帝。 

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なかなか身辺事情がややこしい興味深い方の様で、へへ、
関心のある方、日本語版ウィキ(レオーン6世)でどうぞ。



では内部にどうぞ。 まずモスク独特の、低めに吊り下げられた
たくさんの明かり。

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この中央の大ドーム、そして両側に半球の形で続く小ドーム、
全体に広がる煌びやかな大空間!

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正面奥に小さく見えるモザイク画にご留意を。
       
とにかくたくさんの人々で、広い空間を撮り切れず、
後ほど2階の回廊からの写真をご覧頂きますね。



中央ドームの奥の半球部分、キリスト教教会でいうと
後陣部分に見えたモザイクがこれ、黄金背景の聖母子像。

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聖母のお顔も素晴らしく、shinkaiには子供のキリストが
ちゃんとサンダルを履いているのが可愛く、はは。

こういったキリスト教関係のモザイクは、15世紀にモスクに変換後、
ずっと漆喰で塗りこめられていたといいますが、
近年こうして改めて発掘、姿が見れるように。



中央ドームを支える4隅、支え壁の装飾も黄金モザイクで、
4隅にある天使像の、この部分のみに天子の顔がありますが、
写真多く他をご紹介できず! ちょっとおっさん風で、ははは。

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中央ドームの全体、周囲を40の小窓が囲みます。
周囲の窓から射し込む光に黄金モザイクが美しく煌きます!!

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余りにも大きなドームのため、崩壊したりの修復も重なり、
真ん丸でなく、直径31,24m~30,86mと、ほんの少し楕円と。



正面奥、内陣部手前左側にあるスルタンの御座所。
細かい柄の装飾で囲まれておりますが、足元見えず。

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正面奥、後陣部分のステンド・グラス。

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下にちょっぴり尖がりの屋根が見えますね。
実はこの下が重要だったのですが、写しておりませんでぇぇ!



で、サイトから拝借の写真で、ここにミフラブ・mihrabと呼ばれる
イスラム教のメッカの方角を示す壁龕が置かれていて、

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なぜ目が行かなかったのかと言いますと、言い訳、ははは、
この猫ちゃんがです、一番の主祭壇の部分、人間どもが入れない
その中に座っておられましてぇ、はは。

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shinkaiが撮ったのはブレと後頭部の2枚で、ん、もぅ、
ジュリアーナから送って貰った、寝起きの不機嫌な顔!ははは。
この猫ちゃんに惑わされている内に、先に進まねばならずで。

今回サイトで写真を探しましたら、この猫ちゃんが聖堂内の
あちこちに出没しているのも分り、もう1人、白とブチの子も
聖堂内を縄張りにしている様子!



内部の大理石の装飾では様々な柄が使われ、

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柱頭部、アーチの飾りも大変に手の込んだもの!

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入り口扉の両脇にある様子の、大理石の塊から掘り出したという
大きな壷。 古い宗教儀式で使われた清めの為の水入れと。

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さて、こんなに擦り減った石の坂道を上り、

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かなり薄暗い上り道ですが、2階に。

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素晴らしく広く、高いでしょう?!

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南の窓から燦々と光が射し込みます。
3階部の左の半円窓が、最初に正面から見えた窓ですね。

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丸い額にある飾り文字は、マホメッドと正統カリフ・かっての
宗教政治の共同体の指導者、の名をを記したものだそう。
この額はかなり後期に取り付けられた物のようで、
ちょっと雰囲気にそぐわない、威嚇的な感じ。



床の柄。 大理石と、縁の柄は彩色と。

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上階正面からの眺めと、

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正面東のアップで、
スルタンの御座所、ミフラブ、そして右の細く高い説教壇。

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ほら、2階南側の回廊部は、こんなに幅広く、明るく、

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アーチの飾りもこんな風に良く見え、

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途中にあった大理石の扉。

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イタリア版ウィキの説明によると、教会会議の際にこの扉から入退出、
という様な説明ですが、うろ覚えながら、ガイドさんが言ったのは、
この上階に皇妃とお付のロッジャがあり、
儀式の際にはそこから階下を見下ろしていた、との事で、
その仕切りの扉だったと聞いた様な。



で、この位置に素晴らしいキリストのモザイクがあり、

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このモザイク表現の素晴らしさ、秀逸さ!!
片はかなり細かく、顔のデッサンの確かさに驚きますが、
一方衣服の表現は伝統的で、この辺りが面白いですね。

1度ヴェネツィアで、ロレンツォ・イル・マニーフィコが所有していたという、
コスタンティノープル産のキリスト像を見たことがありますが、
寸法が長辺で20cm位だったかな、のモザイク作品で、
渋めな彩りながら、1片の大きさが1mm四方ほどの大きさ!

それはもう、素晴らしい描写のモザイク画で、
さすが持ち主が持ち主だけの事はある、と感嘆した記憶が。



この壁の向かい合わせだったと思うのですが、
ヴェネツィア共和国第41代総督エンリーコ・ダンドロ・Enrico Dandolo
1205年にこの街で亡くなった彼のお墓があります。

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ご覧のように質素で、名前の部分を残して棺の1部でも切り離した
様な感じにも見えます。 

それに、19世紀になっての聖堂修復の際にこのお墓も調査され、
信憑性に疑問というのも読みました。

が、15世紀にこの街を陥落させ、オスマン・トルコの領土とした
マフメト2世が、ヴェネツィアから呼んだ画家のジェンティーレ・ベッリーニ
をいたく気に入り、1480年と入った、彼が描いた素晴らしい
スルタンの肖像画は、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されており、

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その際ヴェネツィア共和国政府から画家を通し、ダンドロの遺骨返還を
願い、スルタンの好意で兜、甲冑も故国に戻ったのだそうで、
現在お墓の碑のみここに残る様子。


なぜここヴェネツィアから遥か遠い地に彼のお墓があるのか、
その説明には1202-04年の第4次十字軍抜きには語れませんが、
塩野七生著「海の都の物語」の上巻にも詳しいので、簡単に。

この十字軍はフランスの騎士連中を主に、ヴェネツィア共和国が
1枚加わった様子で状況が進行しますが、当時80歳を過ぎて
ドージェになったエンリーコ、
殆ど視力を失った身でありながら、鉄の拳と叡智で祖国を導いた、
と言われる狐の彼に、フランス騎士連中はいい様にあしらわれ、

この図は、ギュスタブ・ドレ描く所の、サン・マルコ聖堂における
エンリーコ・ダンドロの十字軍遠征への賛同呼びかけ。

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こうして最初はエジプトのカイロ攻略が主目的だったのに、
同じローマ・キリスト教の地であるアドリア海岸のザーラ攻略、
のちには正統派と宗派は違えど同じキリスト教徒の地である
コスタンティノーポリ攻略という!

こうしてこのビザンティンの素晴らしい都市は陥落し、
富も美術品の類も略奪され、現在ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂の
正面入り口上にいる4頭の黄金の馬も(本物は聖堂博物館に)
この時の分捕り品だったとの事で笑いましたが、

騎士連中も領土を得、ヴェネツィアも領土と地中海の各港確保、
という、大きく迂回した第4次十字軍遠征だったわけです。

こういった祖国にとっての大仕事を終えた1205年に、
ドージェ・エンリーコ・ダンドロはこの地で亡くなり、
このサンタ・ソフィア聖堂に葬られ、そのままお墓がここに。
    
彼の肖像は確かかな、というのが見つからず、
一応これをどうぞ。

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広い2階の回廊部で休憩の人々。
壁に残る大理石の色柄が、なんとなし藍染みたいでしょ。

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このビザンティン初期建築の最高傑作と言われ、
後のローマ・カトリックの建築様式にも、モスクの様式にも大きな影響を与え、
16世紀にローマのサン・ピエトロ聖堂が出来るまで、
キリスト教世界ではヨーロッパ最大であったこの聖堂!

正統派キリスト教の大聖堂であったのが、ローマ・カトリックの聖堂
となり、再度正統派キリスト教聖堂、そしてイスラム・モスクへの変換、
さらに最後1931年から博物館となっている訳ですが、

この大聖堂の素晴らしさと威容を目の当たりにし、その歴史の
変遷の重さを考えると、良くぞ1500年近くを無事で残ってくれた、
と思わずにおれません!!



こうして出口から出てくると夕方の陽に変わっていて、正面向かいに
こちらは6本の尖塔・ミナレットを持つブルー・モスク。

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体調を整え、ははは、しっかり根性を入れて後、
またご案内いたしますね!



夕暮れ近い陽を浴びながら、壁際でまだ居眠りの子。
       
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最後は夜の照明の、サンタ・ソフィア大聖堂。
       
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長いお付き合い、有難うございました!


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