そちら日本はそろそろ梅雨明けの様子。 今夏は猛暑という予想も
見ましたので、皆さま、体調にお気をつけてお過ごし下さいね!
見ましたので、皆さま、体調にお気をつけてお過ごし下さいね!
さて先回に続き、ポルトガルは麗しの古都コインブラ・Coimbraの
2回目、街の一番の高台にあったコインブラ大学から坂道を下り、
旧大聖堂をちらり、街中もちらり、ははは、
つまり観光客のおつもりでご覧下さいね。
2回目、街の一番の高台にあったコインブラ大学から坂道を下り、
旧大聖堂をちらり、街中もちらり、ははは、
つまり観光客のおつもりでご覧下さいね。

百聞は一見にしかず、と例によって写真が多くなりましたが、
ごゆっくりどうぞ!
ごゆっくりどうぞ!
写真は先回も見て頂いた、コインブラ大学から見下ろす旧大聖堂で、
こちらに向かって坂道を下ります。
こちらに向かって坂道を下ります。
街の地図をもう一度どうぞ。

10.の大学から、北の7.旧聖堂に。 で西の6.アルコ・デ・アルメディーナ
に下り、南に向かい大通りの繁華街を通り、
サンタ・クララ橋の袂の広場辺りまで、の様子です。
に下り、南に向かい大通りの繁華街を通り、
サンタ・クララ橋の袂の広場辺りまで、の様子です。
夜ハァハァと上った坂道、狭い石段をどんどんと下りつつ、
由緒ありげな古い建物の扉、素晴らしい赤でしょう?!
由緒ありげな古い建物の扉、素晴らしい赤でしょう?!

そして旧聖堂・Sé Velhaの東側に出て来ます。

大学から見下ろした写真でご覧の様に、如何にも古い中世の聖堂らしく、
銃眼もある要塞並みの造りで、上部の丸屋根辺りがイスラムの趣もあり。
こんなガーゴイル・雨水の吐き出し口、も見かけ。

ガーゴイルをイタリア語でなんというのか調べましたら、ガルゴッラ・gargolla.
検索図版ではやはり圧倒的にパリのノートルダム聖堂ですが、
こちらにもちょっぴり。 ミラノのドゥオーモ ・ Duomo di Milano
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460940205.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460940205.html
旧聖堂の北側面にある、こちらは16世紀に改装追加された
ルネッサンス様式の大きな美しい入り口。

ルネッサンス様式の大きな美しい入り口。


少し損傷が進んでいて、残念。
こちらが正面。 足元まで写った写真が無く、ウィキぺディアから拝借。

コインブラを「麗しの古都」と書いていますが、実際に、1109年に
北の街ギマライシュ・Guimarãesからエンリケ公爵がこの街に首都を移し、
その息子アフォンソ1世が1128年にポルトガルの初代王となった街なのです。
この旧聖堂は当時に建設が始まったポルトガルに現存する
数少ないロマネスク様式で、
2代目の王サンシュ1世・Sancho I はこの聖堂で戴冠を。
数少ないロマネスク様式で、
2代目の王サンシュ1世・Sancho I はこの聖堂で戴冠を。
聖堂設立当時のこの国はいまだイスラム占領の下にあり、
この如何にもがっしりの要塞風の造りは納得ですが、
300年に渡るイスラム下からのレコンキスタは1139年。
この如何にもがっしりの要塞風の造りは納得ですが、
300年に渡るイスラム下からのレコンキスタは1139年。
初代王アフォンソ1世下でしたが、正式にポルトガル王アフォンソ1世と
名乗るのは独立後で、それ以前はエンリケ・アフォンソと。
名乗るのは独立後で、それ以前はエンリケ・アフォンソと。
コインブラに首都が置かれたのは1255年までで、
第5代王アフォンソ3世の時にリスボンに遷都。
そうですね、ちょっと奈良、京都のイメージに近い感じもある、
まさに「麗しの古都コインブラ」、と思います。
まさに「麗しの古都コインブラ」、と思います。
コインブラの南15k程にあるコニンブリーガ・Conímbrigaには、
かってここに町を築いたローマ期の大規模な都市遺跡、
ポルトガルで最大と言われる規模、が残り、
こちらが主たる町だったのが、ゴートの侵入によって破壊され、
時とともにコインブラに中心が移ったのものと。
かってここに町を築いたローマ期の大規模な都市遺跡、
ポルトガルで最大と言われる規模、が残り、
こちらが主たる町だったのが、ゴートの侵入によって破壊され、
時とともにコインブラに中心が移ったのものと。
コインブラはリスボンから200k北に、ポルトからは100k南にと、
地理的にちょうど中央部に位置し、商業の中心地としても繁栄したそう。
さて、旧聖堂の正面入り口、石段の上部分。
施された中世の装飾が美しい!
施された中世の装飾が美しい!


内部、これは入り口横辺りだったと。 四角いタイル装飾がびっしり。
なにせ窓が狭く、内部はとても暗くて、色がよく写りません。

3身廊式で、こちらは内陣奥の祭壇。

人も多く時間もなく、奥にまでも行きませんでしたが、
先回のコインブラ大学を創設のディニス1世の妃イザベッラ・Isabella
(1271-1336)は聖女イザベッラと呼ばれ、聖堂奥にお墓があるそう。
先回のコインブラ大学を創設のディニス1世の妃イザベッラ・Isabella
(1271-1336)は聖女イザベッラと呼ばれ、聖堂奥にお墓があるそう。
伝承によると、彼女が貧者に施しをするのを好まなかった王が、
パンを入れた籠を持つ彼女に何が入っていると訊ね、薔薇の花と答え。
で、王が籠の覆いを取ると、中には薔薇の花があったと。
パンを入れた籠を持つ彼女に何が入っていると訊ね、薔薇の花と答え。
で、王が籠の覆いを取ると、中には薔薇の花があったと。
労働王とも呼ばれ、大学創設もしたディニス1世ですが、
貧者には冷淡だったという事?
こういう部分が少し理解に苦しみますが、まぁね。
貧者には冷淡だったという事?
こういう部分が少し理解に苦しみますが、まぁね。
旧聖堂前の広場には、バールやスーべニール店が何軒か。



ポルトガルの象徴の雄鶏の置物、お土産がどこにでも。
広場はこんな石が敷き詰められ、丸石舗装とも違い、少々歩き難く。

下り坂の細い道は、こんな風に石段が三角に張り出していたり、

石垣には、鮮やかな青紫の朝顔が咲き乱れ、

道脇に出ているレストランのお招き。

物好きshinkaiは、どんな料理か、ははは、見て頂こうとサイトで探し。
Bacalhau a portugeusa・バカラウ・ア・ポルトゲーザ、で
発音は良いのかな、つまり、鱈のポルトガル風と。 はい、こちら。
発音は良いのかな、つまり、鱈のポルトガル風と。 はい、こちら。

つまりポルトガル旅行中に4、5回食べる羽目になった、ははは、
鱈とジャガイモのグラタン風と。
見ると、またかぁと思ったのですが、食べるとどこもが美味しくて、
今は、はい、懐かしい!
今は、はい、懐かしい!
下のBacalhau assado na brasaは、発音抜きで、はは、
どうやら鱈のグリルらしい、と見当が付き、こんな感じかな・・?
どうやら鱈のグリルらしい、と見当が付き、こんな感じかな・・?

これも美味しそうですねぇ!
坂道を皆でぞろぞろと下りながら、せっせと写真を撮りつつ、
置いて行かれない様に!


これは如何?!
ファド・デ・コインブラ ライヴ!
今夜18時から、ポート・ワイン付き 10エウロ。

夜は到底無理ですが、ちらっと見るとCDも売っている感じ。
で、1枚買って戻り、時々聞いています。
で、1枚買って戻り、時々聞いています。
皆さん、ファドはお好きですか?
私は大好きで、お絵描きしながら買ってきたファドや
ポルトガル・ギターのCDを良く掛けますが、
私は大好きで、お絵描きしながら買ってきたファドや
ポルトガル・ギターのCDを良く掛けますが、
コインブラのファドというのは、一般にいうファドとはちょっと違い、
それをガイドさんに教えて貰ったのですが、
それをガイドさんに教えて貰ったのですが、
コインブラのは、大学の学生たちから始まった、所謂愛する女性に
送るセレナードで、これは男性のみが歌うのだと。
送るセレナードで、これは男性のみが歌うのだと。
どんな感じなのかをこちらYouTubeでどうぞ。
歌っている場所は旧聖堂前の入り口前、
広場をぎっしり埋めた学生たちは皆黒いマントをはおい、
どうやら大学の記念式典に関しての行事の様子。
アルコ・デ・アルメリーナ・Arco di Almedinaに続く、
曲がり角にスーヴェニール店。
曲がり角にスーヴェニール店。

絵葉書や古いCDも売っていたので、お昼御飯の後ここまで戻り
アマーリア・ロドリゲスの古い録音のCDと、セピア色の絵葉書等も買い。
アマーリア・ロドリゲスの古い録音のCDと、セピア色の絵葉書等も買い。
セピア色の絵葉書で ・ ポルトガル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461067635.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461067635.html
モノクロの絵葉書で ・ ポルトガル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461067917.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461067917.html
写真に見える右のアーチはこんな感じで、

こちらがアルコ・デ・アルメリーナ。
真ん中奥に見える古い石壁の足元に、上のスーヴェニール店。
真ん中奥に見える古い石壁の足元に、上のスーヴェニール店。

このアルコ・アーチがなぜ名を残すのか、と言いますと、
コインブラは既に12世紀に、上の街、貴族や聖職者たちの居住区、
のちに大学の学生の住まいもこちらに、
で、下の街は一般庶民地区で、モンデーゴ河の川沿い地区、と
分けられていたのだそう。
コインブラは既に12世紀に、上の街、貴族や聖職者たちの居住区、
のちに大学の学生の住まいもこちらに、
で、下の街は一般庶民地区で、モンデーゴ河の川沿い地区、と
分けられていたのだそう。
今は勿論往き来自由ですが、きっと当時は開閉の門があり、
門番もいたのでしょうね。
門番もいたのでしょうね。
正面真ん中に見える建物の右の坂道を下って来て、
いま手前がフェッレイラ・ボルゲス通り・Rua Ferreira Borgesに。
いま手前がフェッレイラ・ボルゲス通り・Rua Ferreira Borgesに。

こんな様子のかなり幅広い、店の並んだ通りで、

車は通らず、敷き石の道。

両側には、タイル装飾された建物がびっしりと。

で、サンタ・クララ橋に続くPortagem広場に。
下手な、うるさい写真で済みません。

広場を逆に見るとこんな感じ。 ね、右側の坂道も急でしょう?!

我々はこのあたりで自由行動で好きな様にお昼を済ませましたが、
これは橋の袂にあるちょっとレトロ調の建物。
壁の色がピンクなのですけど、ポルトガル銀行と!
壁の色がピンクなのですけど、ポルトガル銀行と!


再度集合した後にバスに乗り、川向うの高台にある
サンタ・クララ修道院に向かいましたが、
サンタ・クララ修道院に向かいましたが、
これは振り返える街の中心部。 大学の位置がよく分かりますね。


河のこちらは新しい住宅地なども開け、鮮やかなアガパンサスの花も、


サンタ・クララ修道院。 大学の外の通路から、細長く続く大きな
建物が見えたアレですが、ミサが終わらず結局中に入れずの記憶が。
建物が見えたアレですが、ミサが終わらず結局中に入れずの記憶が。

という事でバスに乗り込み、斜張橋ライハ・サンタ橋を渡り、

次の予定地であるバターリャ、庶民信仰の篤いファーティマに向かい。
この辺り、既に2年経ったのに、全然整理が出来てませ~ん、ああ!
この辺り、既に2年経ったのに、全然整理が出来てませ~ん、ああ!
最後は、もう一度河を渡りながらのコインブラの街を。
大学の中庭の向こう、ラテン回廊の入り口も見え、
それにちょっと掛かる位置に、ジョアン3世の石像も!
大学の中庭の向こう、ラテン回廊の入り口も見え、
それにちょっと掛かる位置に、ジョアン3世の石像も!

コインブラの街も、ポルトガルも心に残ります。
ファドを聞いていると、いつも出てくる言葉
サウダーデ・saudadeは、郷愁、ノスタルジーアと。
うん、またいつか訪問出来たら良いな・・。
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