・ 王家の愛の物語 アルコバッサ修道院 ・ ポルトガル

さて引き続き、ポルトガルはアルコバッサ修道院のご案内ですが、
まずは修道院、教会の図をどうぞ!

と言うのも、昨日打ち忘れた場所の番号もあり、へへ、
wikiのポルトガル版からも写真を拝借して来ましたので。

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1.正面入り口
2.ペードロ1世とイネス・デ・カストーロの墓
3.イネス・デ・カストーロの墓
4.修道士たちの宿坊
5.台所と大煙突
6.八角形の泉 
7.静寂の回廊付き中庭
8.ポルトガルの代々の国王の像のある部屋
9.聖具室への入り口
10.カピトラーレ室
11.食堂



では昨日の教会以外の、修道院内部の写真を。
図番号 9.聖具室への入り口  

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ちょっとピン甘でご容赦ですが、今回のポルトガル旅行の
あちこちの修道院、教会で見たマヌエル式・manuelinoとでも
呼ぶのか、15世紀後半から始まった後期ポルトガル・ゴシック様式。

大航海時代の始まりに伴い、船具のロープやエキゾチックな植物、
はたまた球体の羅針盤とでもいうのか、目を見はる豪奢で
壮麗な様式。名の由来は当時の国王マヌエーレ1世・Manuele Iからと。
戸外にあるのは苔が付いたりで見難いのですが、
この戸口のは修復されたのでしょう、白くて大変美しいもの!



4.修道士たちの宿坊  ここからの写真4枚はwikipedia-poから

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宿坊の南半分。修道院生活の初期には個室はありませんで、
この様に大部屋で寝起きしていたそう。

この修道院の起源等については先回書きましたが、
イタリアの聖ベネデットが最初に始めた修道院制度から派生した
質素を重んじるシトー派のこの修道院で、

1200年代から6世紀間に渡り、完全な静寂の裡に祈りと労働の
生活が続きましたが、時の変遷のうちに修道士たちは、
時の王への服従なしに、周辺地域内での特権や大変な力を持つ様に。

そして16世紀後半には、芸術や文学への献身も始まり、
ポルトガル内でも有数の蔵書を誇る図書館も持つように。

当時この修道院内には約999名(この数字が可笑しいですが)
の修道士が生活していたといいますが、ペストの死者で激減、
ですがまた盛り返し、18世紀にこの修道院の最盛期を迎えたと。

農業、料理法の広がりから、最初の精神の質素は脇に置き、
ミサも当番制に、大宴会も行われるように。
      
そして1810年にフランス軍による奪略破壊、
1834年には政府による宗教団体解体の告示と続き、
このアルコバッサ修道院も放棄されますが、
       
現在は修復が進み、1985年よりユネスコの世界遺産指定に。
       
シトー派の修道院生活について 
n.1 セナンク修道院 ・ 南フランス、プロヴァンス
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473615169.html

n.2 セナンク修道院 ・ 南フランス、プロヴァンス
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473615315.html



5.台所と大煙突
 18世紀に改装されたとの事で、その大きさにも驚きですが、

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 まぁ、千名もの修道士が生活していたというので納得、
 壁も、2つある大煙突も、天井部分も皆タイル張りの豪華版!
 手前に見えるのは、巨大な石の調理台で、 
 同時に7頭もの牛をグリルできたのだそう!
       
どの修道院も水利の便を考えて建設されていますが、
ここでもアルコア川が台所に引き込まれていて、
で、魚にも不自由なかったと、これはガイドの言葉。
      
台所の大きさと規模では、こちらアヴィニョンの教皇庁も凄かった!
n.2 アヴィニョンの教皇庁宮殿
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473518604.html

n.1 アヴィニョンの教皇庁宮殿
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473518302.html



11.食堂
 写真では見えにくいですが、少し高めの場所に説教壇があり、
 修道士たちが静寂の裡に食事をする間、1人が聖書の朗読を。

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6.八角形の泉
 こちらも18世紀に改装された物と。日本語の説明では
 泉とあるのですが、修道士たちが手を洗う場所だった様子。

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7.静寂の、回廊付き中庭   ガイドブックより
 1308年、当時の王ディオーニジ・Dionigiの要請で
 造られた、厳格な美しさはまさにシトー派のものと。

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以下は、写真が無いのですが、

8.ポルトガルの代々の国王の像のある部屋
 これは最初の図の下にちらっと見えますが、
 壁面の下部に藍と白のタイル図柄で埋められた美しい部屋で、
 通りすがりにちらっと見ただけで、写し損ないました。

10.カピトラーレ・Capitolareの間
  ここは常に沈黙のうちに生活をしている修道士たちが集まり、
  修道院生活についての問題を討議したり、
  院長を選んだり、と、唯一喋れる部屋だったそう。



これは教会内の柱に見かけた3種ほどの石工の印のうちの1つ。

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セナンク修道院でも見ましたが、石工が自分の切り出した
石につけた印なのですね。
この数で賃金を貰うという、つまり出来高払いだったのでしょう。


        
教会内で見かけた小さな聖母子像。
優しくて、ほのぼのした雰囲気で良いでしょう? 

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さて、いよいよ今日の本題に入らせて頂きまして・・、えへん、
昨日見て頂いたスーヴェニール店の壁にあった絵皿のアップですが、

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このお2人が、左イネス・デ・カストーロ・Inês de Castro
右がペードロ1世・Pedro Iというよりは、まだ国王を継ぐ前ですので
ドン・ペードロと言う方が正しいのかも。 
           
       

少し大きな2人の肖像をどうぞ。

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この2人の素晴らしい石棺が、アルコバッサ修道院の教会内、
翼の部分に向かい合って置かれているのですね。
教会図の2にペードロ1世、3にイネスの石棺です。

民間伝承では、最後の審判を受けて後再びまみえる時、
最初にお互いの顔が見えるように、という事ですので、
私めもそれに従い、向き合える形にイネス、ペードロの順にここに。

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石棺とはいえ、なんともはや美しく!
石は、歩道にも使われている石灰岩で、大変に固い石だそうで、
この白さが美しいですよね。



今回のポルトガル旅行で知った2人の名前と逸話なのですが、
大いに好奇心に駆られまして。
いぇもうこの年になりますと、中世ポルトガル王家の悲恋
なんぞとは思いませんし、まして後でお話しする後日談もあり、

ガイドが話してくれた2人の運命と、戻ってざっと読んでの違い、
疑問に思った詳細部分を、埋めたかったからなのですね。

では・・、
ポルトガルの次代の王を継ぐべきドン・ペードロと
イネス・デ・カストロが知り合ったのは、
1339年8月24日に執り行われた、ドン・ペードロと
隣国カスティーリアの王女コスタンツァ・Costanzaの婚礼の際で、

彼女は王女のお付きで当時19歳(24歳との説も)
ドン・ペードロも1320年生まれの19歳。

コスタンツァの容貌については何も書いたのが見つからず、
政略結婚でもあり、まぁイネスが大変な美貌だったのでしょう。
ペードロは盲目的な恋に落ち、まぁイネスもでしょうね、
1346年~54年の間に4人の子も生まれる関係に(1人は夭折)

勿論そうなると人々の口にも上り、隣国との関係懸念もあり、
遂にぺ―ドロの父王アルフォンソ4世・Alfonso IV は
1344年にイネスをポルトガルの北、カスティーリアに近い城に
隠棲させますが、この遠距離も2人にはお構いなし、
ペードロはせっせと通います。
彼らの子供の生年を見て頂くと、これはもう、
宮廷から離れた事が2人には愛の生活に没頭できた様子で、はい。

で、彼と王妃コスタンツァとの関係はと言いますと、
まぁ冷えてはいたのでしょうが、
こちらにも3人の子が生まれていまして。

父王アルフォンソが懸念したのはよく分かりますね。
ひょっとして王族でもないイネスと息子が結婚するような事になれば、
隣国カスティーリア王国との関係も悪化、まして彼女との間の子が
王位を継ぐようになれば、ポルトガル王国の存続問題にもになりかねず、
イネスの兄弟とペードロが親密なのも、父王は心配したといいます。

そして1345年10月、王妃コスタンツァは未来の王となる
フェルディナンド1世・Ferdinando Iを生み落とした後亡くなります。

寡となるやペードロはイネスに隠遁生活から戻るように促し、
一緒に暮らし始め、これは一大スキャンダルを巻き起こし、
父王との関係もこじれます、勿論ですよね。
再婚を進める訳ですが、まだ王妃を失くした悲しみがある、
と受け付けない、でもイネスとは結婚を考えていないとも逃げ。

そうこうするうち2人はコインブラのサンタ・クララの邸宅に住まうようになり、
ここはペードロの祖母のエリザべッタ王妃が造り、晩年を過ごした所で、
1354年に2人が秘密裏に結婚したという噂も流れ、
しびれを切らしたアルフォンソ王の側近は、王にイネスの殺害を迫り、
こうして遂に1355年1月7日、コインブラの屋敷で
ペードロが狩りに出て留守の間に、イネスは斬首に。

2人の年齢を計算すると、お互い19歳の時に知り合って後16年、
35歳だったという事になりますね。
    
私がこれらの逸話の何に一番関心を持ったか、と言いますと、
ガイドが、子供の前で斬首された、と話したのですね。
14世紀の事とはいえ、それはちょっと凄いなぁ、本当に? と
あれこれ読み始めた訳です。

ですが、余り書いたものが見つからず、結局ウィキペディアの
ポルトガル版を引き、イタリア語に翻訳をかけ、
読んで知ったのがこの経緯です。

で、ペードロはイネスの殺害を知ると逆上し、父親への反乱も
起こしますが、母親ベアトゥリーチェの執り成しで
1355年8月に一応の和解を。       
という所で、物凄い戦慄の後日談はまた後ほどに!
       
       

石棺の、ペードロ1世の顔。
彼の命によりこの2つの石棺が造られたのだそうで、両脇に3人づつの
天使が従い、彼の方には足元に忠誠の印のワン君が。

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彼の石棺の大変に美しい頭部側の彫り。

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これには2人の逸話が語られていて、 写真はwiki-poから。

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外側のアラビア数字から、
1. 子供達を愛撫するイネス
2. 3人の子と生活する2人
3. チェスをするイネスとペードロ
4. 2人の愛人たちの生活
5. イネスが、何か小さな動物に触れているのかな、
6. 大きな玉座につくペードロ
7. イネスが父王アルフォンソからの刺客に驚く
8. 1人の刺客の正体を暴くイネス
9. イネスの打ち首
10. 死んだイネス
11. イネスの刺客に下る罰
12. 経帷子をまとうペードロ

内側のローマ数字は、
I. ペードロの左側に座るイネス、まだ結婚していない事を示す
II. 2人の座る位置が交替する、つまり結婚後を示す
III. 並んで、公式な肖像の様に
IV. 父王アルフォンソ4世が(指で)イネスを王国から追放
V. イネスが、多分アルフォンソ4世を拒否する
VI. 輪を手で支える何者かの下に膝まづく2人
    (これが彫りと説明ともに良く分かりません)

これは運命の輪と呼ばれる物ですが、外側の彫りにある2人の
生活の様子、彼のみが知る愛情にあふれた想い出がこもり、哀れ。



素晴らしく美しい天使の顔や、ワン君の表情をどうぞ。

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こちらはイネスの石棺。 天使が王冠を支え、
残念ながらイネスの顔は、少し破損しており、
写真も見つけましたが、女同士の情けでここには掲載せずに。

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頭の後ろにあるこれは、天蓋を示すそう。

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彼女の足元の彫りは、最後の審判の様。

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ペードロの石棺を支えるのはライオンたちでしたが、
こちらは如何にも中世の顔の男達。

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ご覧の様に2つの石棺はどちらもあちこち破損していて、とても残念ですが、
フランス軍が進駐して来たときの略奪破壊で、
彼らはフランスに持って帰りたかったらしいのですね。
所があまりの重さに断念したのだ、と聞きました。

ははは、ざまぁ見ろ! あちこちから盗んだろうが!!




たまたま近くに12世紀頃のイベリア半島の領土図があり、
当時のポルトガルは現在よりも小さかった事が分かります。

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白い点線をつけた辺りが現在のスペインとの国境で、
緑の印、北が最初の首都コインブラで、
南が13世紀中頃からの首都リスボン。




イネスの処刑ののちの後日談というのが、またまたぞっとの戦慄もので。

母親の執り成しで一旦は父王と仲直りをしたペードロですが、
半年ほど後に父王が亡くなり、彼が8代目のポルトガル王に。
1357年の事です。

で1360年に、イネスとは1354年に秘密裏に結婚していて、
子供達は彼らの子である事を公に認める声明を出しますが、
それは礼拝堂司祭とペードロ1世のみが言う事で、
おまけに日付けは覚えていないという様子。

そしてイネス殺害の3人の内の2人はカスティーリア王国に逃げたものの
つかまりSantarémで処刑、フランスに逃げた1人は自殺に追い込まれます。

ですが民間伝承は、こう伝えます。
捕まった内の2人は連れて来られ、お祭りの見世物として、
1人は前から、も1人は背中から心臓を引きちぎられたと。

そして恐怖のおまけに、イネスとは結婚していたので、
彼女は王妃であるとし、墓の中から遺体を引き上げ玉座に座らせ、
王冠を戴かせ、忠臣達に、王妃に対する礼をと、手に接吻させたと!

これは多分16世紀後半に民間伝承に取り込まれたのだろう、
というのですが、この死んだ王妃の手に接吻、という図は、
後に煙草の袋の図柄にも登場したり、絵画も残り、恐ろしい図!

という事で、国民的詩人と呼ばれるカモイーシュ(カモインエス)や
他の詩人たちもがその悲恋を詠ったといわれる
逸話語りがやっと済みましたです。
お疲れ様でした、そして有難うございました!



陽のあたる表に出て来て、
広場のカフェで憩う人々の姿になにやらホッとして。

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教会前の階段の女の子を撮りましたら、彼女、気が付いたようで。
可愛い子でしょう?

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暑い陽射しの道を戻りつつ、タイルの壁、少しレトロな
イメージの窓に見とれつつ、

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ここのお家の壁にも、イネス・デ・カストーロが。

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こちらがアルコア川。 何やらカップルが遠くの方で、

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これがバッサ川。 2つの川がここで合流すると聞きましたが、
何か、イネスとペードロの象徴みたいですね。

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今日は長い長いお付き合い、有難うございました!
私も少々書き草臥れました・・。


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