さて、ほんのちょっぴりの訪問だったスロヴェニアの国、
最後に見て頂くのはカーポディストゥリア・Capodistria、
スロヴェニア語ではKoper・コーペル。
最後に見て頂くのはカーポディストゥリア・Capodistria、
スロヴェニア語ではKoper・コーペル。

発音がすこし不安ですが、ローマ期からの名Kaprisが
長く残っていたというので、カープリス→コーペルではないかと。
ご存知の方、お教え願います。
長く残っていたというので、カープリス→コーペルではないかと。
ご存知の方、お教え願います。
この街も元々は島だったというのが良く分かる上の写真ですが、
人口が5万3千人ほどの、スロヴェニアの主要港。
ギリシャ時代から名が残る町ですが、
この町もイーゾラ、ピラン同様に1278年から5世紀間
ヴェネツィア共和国の下にありました。
人口が5万3千人ほどの、スロヴェニアの主要港。
ギリシャ時代から名が残る町ですが、
この町もイーゾラ、ピラン同様に1278年から5世紀間
ヴェネツィア共和国の下にありました。
もう一枚、こちらは上の写真の左側に突き出す突堤内から
撮ったと見られる街の様子。

左手前にアーチの続く建物がありますが、タベルナ・Tavernaといい、
元々は塩の倉庫だったのを、各種展示会に使用されているとの事。
なぜこれが分ったか、shinkaiの苦労話を後ほど、ははは、
聞いてやっていただきますです、はい。
上の上空からの写真で、街を取り囲むようにして道が巡り、
外側真ん中あたりに広く白い大きな駐車場がありますね。
その外を幅広の道が通りロータリーが見え、で、実はもう一回り
外側にも幅広の道が通りロータリーが。
トリエステからムッジャに寄り、国境を越え約27kほど、
スロヴェニアはユーロ圏ですのでフリーパスで通れますが、
shinkaiの車のトムトムはイタリア国内のみで、国境を越えた途端
現金にもさっと消え、ははは、後は同行のtomoconeさんとの珍道中、
イタリア語も書いてある標識を頼りに進みます。
スロヴェニアはユーロ圏ですのでフリーパスで通れますが、
shinkaiの車のトムトムはイタリア国内のみで、国境を越えた途端
現金にもさっと消え、ははは、後は同行のtomoconeさんとの珍道中、
イタリア語も書いてある標識を頼りに進みます。
蛇足ながらスロヴェニア語でイタリア・Italiaの事をItalijaと
記すのですね、イタリィーヤ?!
記すのですね、イタリィーヤ?!
で街の外からあっちが中心らしいと入って来たロータリー、
も一つロータリーと、えっあれっ、違う方向に入ったみたいね、
と何度かぐるぐる・・。
も一つロータリーと、えっあれっ、違う方向に入ったみたいね、
と何度かぐるぐる・・。
漸くに駐車場の印を見つけ入ったところが、広い広い草原!
何処からでも自由に出入りできる駐車場でしたが、ははは、
そこで見かけた大きな看板がこれ。

首都リュブリアナの2010年フェスティヴァル、
ミュンヘン・フィルハーモニーのコンサートがあったのですね。
ミュンヘン・フィルハーモニーのコンサートがあったのですね。
こちらはイタリア語も並んでいて、「中世祭り 火と娯楽の夜」
う~ん、こういうチャンバラごっこは、イタリアでも見ていると
出演者達が楽しんでいるなぁという感、無きにしもあらず、ははは。
出演者達が楽しんでいるなぁという感、無きにしもあらず、ははは。

駐車場から街に近づき、見えたムーダ門・Porta della Muda.
1516年建設の、古い町の主門。
1516年建設の、古い町の主門。

説明が必ずスロヴェニア語、イタリア語、英語と並び、分りやすく。
とは言うものの、この後の写真を整理していて、
自分が見た建物など町の何処にあったのか、どう通ったのか、
勿論町の中心にあるドゥオーモなどは分りますが、
他は何処にあるのか、実は地図を探し回りました。
自分が見た建物など町の何処にあったのか、どう通ったのか、
勿論町の中心にあるドゥオーモなどは分りますが、
他は何処にあるのか、実は地図を探し回りました。
記憶を辿りつつ、なにせ4年前! グーグルのストリート・ヴューの
お陰で、上のムーダ門の位置がまず分り、
そこから町に入った筈だから、その次、その次はと。
ですが、この街のストリート・ヴューはほんの僅かな部分のみ、
というのも知りました。
イタリアの場合、ヴェネツィアなどは隅々まで勿論の事、
小さなピエンツァの町の細い小路までも出るので、
カメラを背負って歩いているのだろうと感心しておりますが、
今回逆に自分が通った道が出ないと、あれっ?!と、ははは。
人間は、もとえshinkaiは、慣れると何処までも厚かましく!
お陰で、上のムーダ門の位置がまず分り、
そこから町に入った筈だから、その次、その次はと。
ですが、この街のストリート・ヴューはほんの僅かな部分のみ、
というのも知りました。
イタリアの場合、ヴェネツィアなどは隅々まで勿論の事、
小さなピエンツァの町の細い小路までも出るので、
カメラを背負って歩いているのだろうと感心しておりますが、
今回逆に自分が通った道が出ないと、あれっ?!と、ははは。
人間は、もとえshinkaiは、慣れると何処までも厚かましく!
という所で、町の地図をどうぞ。

1.ムーダ門・Porta della Muda
2.ダ・ポンテの泉・Fontana Da Ponte
3.サン・ジャコモ教会・Chiesa di San Giacomo
4.フォンティーコ・Fontico
5.ドゥオーモ・Cattedrale dell'Assunta e di San Nazario
6.パラッツォ・デッラ・ロッジャ・Palazzo della Roggia
7.パラッツォ・プレトーリオ・Palazzo Pretorio
8.中央図書館・Brutti Palace
9.カルパッチョの家・Casa Carpaccio
2.ダ・ポンテの泉・Fontana Da Ponte
3.サン・ジャコモ教会・Chiesa di San Giacomo
4.フォンティーコ・Fontico
5.ドゥオーモ・Cattedrale dell'Assunta e di San Nazario
6.パラッツォ・デッラ・ロッジャ・Palazzo della Roggia
7.パラッツォ・プレトーリオ・Palazzo Pretorio
8.中央図書館・Brutti Palace
9.カルパッチョの家・Casa Carpaccio
さてでは、覚束ないながら旧市街の散歩をご一緒に!
サイトから拝借の写真で、
ムーダ門の細部と隣の小さな古い壁、門の見える様子もどうぞ。
ライオンの顔や上部には太陽の顔まであったのですねぇ!

すぐ近くにいた人に、我々は何処でしょう?と、ははは、
地図を開いて確かめた記憶がありますので、
そのまま門をくぐったのでしょう、残念!
左横に見える古い壁の内側に、
こんな顔の付いた泉。

門から続いて広場があり、そこには大きな立派な泉、2.ダ・ポンテの泉。

見覚えの感がおありでしょうか?! はい、この泉は1667年
建設時の執政長官の名が冠されていますが、
ヴェネツィアはカナレッジョのグーリエ橋・Ponte delle Guglie
の尖塔風の装飾を模したもの。
建設時の執政長官の名が冠されていますが、
ヴェネツィアはカナレッジョのグーリエ橋・Ponte delle Guglie
の尖塔風の装飾を模したもの。
旧市街の細い道、緩やかな坂道が続くのをゆっくりと。
窓の下にこんなタベルナーコロ・壁龕。

顔が無くなっているのが残念ですが、でも立派な作りでしょう?
腕には確かに子供を抱えた姿で聖母らしいのですが、
でもスカートをはいた感じにも見え、・・謎。
腕には確かに子供を抱えた姿で聖母らしいのですが、
でもスカートをはいた感じにも見え、・・謎。
そして井戸、如何にもヴェネツィア風の井戸なのですが、
ほんのちょっぴり線が硬いイメージというの。
職人の腕とセンスの違いかも。

ここの緑は、ブローロ広場・Piazza Broloといい、
町の地図の中心に三角形に緑が見える部分で、
ドゥオーモの東南部分に。
この広場の脇、少し奥まって3.サン・ジャコモ教会、14世紀の
ゴシック様式の愛らしい姿。
ゴシック様式の愛らしい姿。


正面に張り出した小さな玄関、そして上の2連窓4つの鐘楼は
テラコッタ製という説明があったのですが、玄関はともかく、
鐘楼の方は修復されていますね。
この尖がったセメント製かと思われる鐘楼の屋根は、ピランもイーゾラも
ここでも皆同じスタイルで、大きな尖がり屋根だと三角形が
2重になっているだけ! なんとなし味気ない思いもしますが。
テラコッタ製という説明があったのですが、玄関はともかく、
鐘楼の方は修復されていますね。
この尖がったセメント製かと思われる鐘楼の屋根は、ピランもイーゾラも
ここでも皆同じスタイルで、大きな尖がり屋根だと三角形が
2重になっているだけ! なんとなし味気ない思いもしますが。
同じ広場の脇にこちら 4.フォンティーコ、
ヴェネツィアでフォンテーゴ、またはフォンダーゴ・商館と
呼ばれたのと同じ由来と思いますが、


このヴェネツィアの香り紛々たる1392年建設の、元は小麦の貯蔵庫
だったそうで、代々の執政長官の紋が残り、現在は州の記録庫と。
だったそうで、代々の執政長官の紋が残り、現在は州の記録庫と。
そこから望むドゥオーモの後ろ姿。
ですがね、頓馬というかなんというか、ははは、
写真を整理しつつも即には気が付かないのです、まったくぅ!!
写真を整理しつつも即には気が付かないのです、まったくぅ!!

広場から一旦広い道まで出て見た様子。
椰子の並木など南国調で、それに少し厳しい感じの古い建物、
明るすぎる屋根瓦の色、と大陸的太い神経というのか、ははは!

8.現在の中央図書館・Brutti Palace. 1714年建設。

こちらは地図に印を付けずですが、ドゥオーモの左側を入って行った
場所にあったロトンダ・Rotonda、またはカルミネの礼拝堂・
Oratorio del Carmineと呼ばれる、現在は洗礼堂だそう。
場所にあったロトンダ・Rotonda、またはカルミネの礼拝堂・
Oratorio del Carmineと呼ばれる、現在は洗礼堂だそう。


12世紀半ばの建設だそうで、上の小さな鐘楼が可愛いでしょう。
鐘に付いた紐が外に垂れていて、外で鳴らしたと分りますが、
さすが、現在は即手の届く位置までは下りていませんで、はは。
鐘に付いた紐が外に垂れていて、外で鳴らしたと分りますが、
さすが、現在は即手の届く位置までは下りていませんで、はは。
さて漸くに辿りついた町の中心のティトー広場・Piazza Titoの
南側を占める7.パラッツォ・プレトーリオ・Palazzo Pretorio.


現在の建物は15世紀の半ばからの建設で16世紀半ばに完成、
今は市役所だそう。
プレトーリオ宮という名が示すように、ヴェネツィアからの法務、
執政長官達の行政庁であり、上の真ん中に見える像は秤を手にした
裁きの女神像、執政官たちの紋、
勿論サン・マルコのシンボルである有翼のライオン像も。
今は市役所だそう。
プレトーリオ宮という名が示すように、ヴェネツィアからの法務、
執政長官達の行政庁であり、上の真ん中に見える像は秤を手にした
裁きの女神像、執政官たちの紋、
勿論サン・マルコのシンボルである有翼のライオン像も。
他に写真で見つけられないのですが、ライオンの口、
つまり目安箱というか、告発の投書口もあると。
つまり目安箱というか、告発の投書口もあると。
ライオンの口については n.1 パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464578376.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464578376.html
現在は市役所とのことですが、入り口前にあったポスター。
タルティーニ・ジュニア・Tartini juniaという音楽グループが、
7~8月の毎週木曜の夕方、ここのホールで演奏会を開くと。
タルティーニ・ジュニア・Tartini juniaという音楽グループが、
7~8月の毎週木曜の夕方、ここのホールで演奏会を開くと。

プレトーリオ宮の外階段を上がった場所からの眺めで、
正面が6.パラッツォ・デッラ・ロッジャ・Palazzo della Roggia.
正面が6.パラッツォ・デッラ・ロッジャ・Palazzo della Roggia.


1462年建設で、様々な集会に使われた吹き抜けの場所。
現在も各種催しに使われているとの事ですが、ここにもやはり
正面にサン・マルコ、ヴェネツィアのシンボルの有翼のライオン君。
現在も各種催しに使われているとの事ですが、ここにもやはり
正面にサン・マルコ、ヴェネツィアのシンボルの有翼のライオン君。
そして角にあるこの天蓋つきの聖母子像はテラコッタ製で、
1553~55年にかけイーストゥリア半島全体に渡りペストが
蔓延した際の平癒祈願のものと。
1553~55年にかけイーストゥリア半島全体に渡りペストが
蔓延した際の平癒祈願のものと。

広場の東を占めるのが
5.ドゥオーモ・Cattedrale dell'Assunta e di San Nazario
正式の名は長く、アッスンタ・エ・ディ・サン・ナザーリオ聖堂。
5.ドゥオーモ・Cattedrale dell'Assunta e di San Nazario
正式の名は長く、アッスンタ・エ・ディ・サン・ナザーリオ聖堂。


12世紀の後半の建設ですが、何度もの修復改装を経ていて、
正面が15世紀、内部は18世紀と。
正面が15世紀、内部は18世紀と。
この素晴らしく高く大きな鐘楼は12世紀のロマネスク様式、
高さ確か90mと読んだ気がしますが、今再度探して見つからず!

15世紀まで見張りの塔としても使われていたそうで、
1333年製のスロヴェニア全土でも指折りの古い鐘が備わっていると。
所で我らが行った時はちょうどお昼で閉まっていて、
内部を見ておらず、写真を探し回りましたが無い!
1枚白黒の良く見えない様なのしか見つからず、これはパスで、
カルパッチョの作品があるというので、それも探しました。
カルパッチョと言っても、これではなく、きゃはは、

ヴィットーレ・カルパッチョ・Vittore Carpaccio(1465頃-1525/26)
ヴェネツィアのコッレール博物館収蔵の名品作者、
15~16世紀にかけての、ヴェネツィア共和国繁栄の時代の証言
みたいな絵をたくさん残している画家ですが、
ヴェネツィアのコッレール博物館収蔵の名品作者、
15~16世紀にかけての、ヴェネツィア共和国繁栄の時代の証言
みたいな絵をたくさん残している画家ですが、

今回ムキになってあれこれ探している間に、面白い事を知りました。
生まれた年も生地も定かでなく、皮商人の子として多分ブラーノ島の隣の
マッゾルボ島で生まれ、ヴェネツィアに引っ越したものであろう、とあり、
本名もScarpazzo またはScarpazoだと。
であれこれ調べているうちに、カーポディストゥリアの土地の古い謂れでは
この町出身と言われており、おまけにスロヴェニアのちょっと変わった噂には、
スロヴェニア人であり、元の姓はKrpacだというのがあると!
この町出身と言われており、おまけにスロヴェニアのちょっと変わった噂には、
スロヴェニア人であり、元の姓はKrpacだというのがあると!
こういう時にイタリア人が発する言葉は、マンマ・ミ~ア! ははは。
まぁ、そのあたりの研究は専門家にお任せするとして、
カルパッチョの絵はカーポディストゥリアとピランに在り、
聖堂にあるという「聖なる対話」は見つかりませんでしたが、
オルガンの開き戸に描いた、というのはこれではないか、と
思われる2枚が絵葉書になったのが見つかりました。
「玉座の聖母子と聖人たち」
思われる2枚が絵葉書になったのが見つかりました。
「玉座の聖母子と聖人たち」

もう一枚は「嬰児虐殺」ですが、こちらはパス。
そして芋づる式に、ははは、彼の息子、または甥かもという
ベネデット・カルパッチョ・Benedetto(1520-1560)の存在も知り。
ベネデット・カルパッチョ・Benedetto(1520-1560)の存在も知り。
ヴェネツィア生まれ、カルパッチョの工房で働いていた様子ですが、
1540年にはカーポディストゥリアの市民権を取ったことが記録にあり、
1560年までは住んでいた事も残ります。
こちらが9.カルパッチョの家 という事で、上から2枚目の海からの写真に
見えるアーチの連なる元塩倉庫、タヴェルナの裏の広場にあるのですね。
見えるアーチの連なる元塩倉庫、タヴェルナの裏の広場にあるのですね。

息子のベネデットが住んでいたのか、仕事に来たヴィットーレの
時代からあった家なのか、家自体は14世紀のものと。
ベネデット・カルパッチョの絵もこの一帯に残っており、父親の絵に比べ、
優しいイメージだと眺めておりましたら、
優しいイメージだと眺めておりましたら、
もう一つ関連したニュースが引っかかりました!
「カルパッチョ、ヴィットーレとベネデット、ヴェネツィアからイーストゥリア展」
コネリアーノ 2015年3月7日から6月28日
コネリアーノ 2015年3月7日から6月28日
来年春の展覧会のニュース、しかも今回行き会ったカルパッチョ父子。
我ながらいささか驚いた事を正直に、ははは。
shinkaiも動けば棒にあたる!!
我ながらいささか驚いた事を正直に、ははは。
shinkaiも動けば棒にあたる!!
いささか横道に逸れましたが、
カーポディストゥリアのご案内を終えませんと、ね。
カーポディストゥリアのご案内を終えませんと、ね。
プレトーリオ宮、現市役所の建物の下を通り抜ける道があり、

このあたり、古くからヴェネツィアのメルチェリーア通りに似て、
店や職人工房が並んでいた賑やかな通りだったといいます。
確かこの道を辿りながら、お昼を食べたと思うのですが、
写真を撮っておらず、残念!
如何にもヴェネツィアの小路の奥の、お屋敷みたいな建物も見かけ、

最後はちょっと高台から見た港の様子を。
スロヴェニアは港を持つのがこちらアドリア海側に3つのみで、
スロヴェニアは港を持つのがこちらアドリア海側に3つのみで、


先回ご案内のイーゾラは観光用の港、ピランも同様ですが軍港でもあり、
ですからここカーポディストゥリアが重要な商業港というわけです。
スロヴェニア行きで訪問したのは今までの3つの他に、ピランの先の
ポルトローゼ・Portorose、ここに塩田があるというので見に寄りました。
ポルトローゼ・Portorose、ここに塩田があるというので見に寄りました。


前日2日間の暴飲暴食、猛暑がたたり、ははは、shinkaiは
塩田の管理人さんの事務所の横の日陰で伸びて居り、ははは、
tomoconeさんだけが長~い日向道を見学に行かれたので、
写真も無くお話も無いのが残念!
せめて、とサイトから探してきたのを1枚どうぞ!
塩田の管理人さんの事務所の横の日陰で伸びて居り、ははは、
tomoconeさんだけが長~い日向道を見学に行かれたので、
写真も無くお話も無いのが残念!
せめて、とサイトから探してきたのを1枚どうぞ!
ついでに、このポルトローゼにも優雅なヴァカンス用のホテルが
揃っているのを見つけたので、見せびらかしに! ははは。
揃っているのを見つけたので、見せびらかしに! ははは。

となると、やはり美味しそうな写真もね。 魚類、肉類、そしてお菓子。



この肉のお皿の赤い唐辛子のソースと生タマネギを見て、
スロヴェニアとの国境のアグリトゥリズモでの食事を思い出しました。
スロヴェニアとの国境のアグリトゥリズモでの食事を思い出しました。
最後は美しく終わるべく、エメラルド色の海を!!

皆様、お疲れ様でしたぁ!!
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