・ n.2 アヴィニョンの教皇庁宮殿 

引き続き有難うございます!
アヴィニョン教皇宮殿 その2 のご案内を続けます。

もう一度、教皇宮殿の図をどうぞ。
こちらn.2のご案内は、図の番号7以降のご案内です。

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旧宮殿の東翼の2階部分に行きますが、
ここの階段が狭めで、かなり傾斜がきつかった覚えが。

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と、見上げる2階部分。

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祝宴大広間(図の7) 祭日、とりわけ枢機卿任命と教皇戴冠の祝宴が
ここで催されたのだそう。
  
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広間に入った途端、わあ!と声が上がる程の広さで、
長さ48mx幅10,25m  人物の大きさから様子をご想像下さいね。
   

教皇は、暖炉とは反対の壁際の高座に、天蓋を戴く背もたれの
高い席で1人で食事、会食者達は壁際の木製の腰掛に座り、
枢機卿は東側その他の客は西側と決められており、
四脚台のテーブルがU字型に並べられたのだそう。

言葉少なに黙々と食べる姿を想像させられますが、
お祝いの宴会ですものねぇ、どう思われます?

ここの天井は1970年に復元されたものですが、14世紀の面影を
偲ばせるものではないそう。
というのも、豪奢を好んだクレメンス6世が、天空を現わす金を散りばめた
青布を天井に張らせたそうで、壁の宗教画と共に1413年の火災で焼失と。

教皇の毎日の食事は小食堂で供されたというのですが、ガイドブックでは
場所を見つけられず。 が、多分教皇塔(図の9,10)の辺りだろうと。
       


この大きな暖炉は部屋を暖めるのではなく、配膳室として、皿などを暖めて
盛りつける部分にあり、広間との間は仕切り壁によって区切られ、
その壁の切れ目が残っていました。

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cucciolaさんが、アヴィニョンの教皇庁におけるドンチャン騒ぎについて
教えて下さったので、さっそくリンクを!
http://d.hatena.ne.jp/cucciola/20100107/1262815857

やっぱりねぇ、おとなしく貧しい食物に感謝して食べてはいないだろう、
とは思っていましたが、あはは、凄い量ですよぉ!



で、暖炉の横奥にある上の厨房、最初は下の階にあったそうで、
クレメンス6世の時代に新しく厨房塔が造られ、
下の階には、食料貯蔵庫や果物が貯蔵された部屋があったと。

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四角な部屋で、天井部分が高さ18に及ぶ八角形の排気フードとなっており、
壁のこちらとあちらにある四角い穴に鉄串を通し、
床に設けられた炉で肉を調理した、大グリルという訳!

中世におけるご馳走の最たるものは多量の肉。
現在の様に野菜や穀類に関しての意識は、貧民の食物なので食べず、
とにかく多量の肉を食べる事が晩餐のご馳走、美食だった訳で、
この為に痛風に苦しむ事が大変多かった様ですね。

下の階にはパン焼き場、そして多分地下に大きなワイン蔵
毎日300人分の食事が用意され、貧民800人にパンとワインが供給されたと。


上級の役職、聖職者の構成については次に書くとし、
その他の雑多職務についてここに。

近衛兵と儀仗兵は教皇移動に随行し、宮殿では護衛と警護に当たり、
位も騎士、貴族から門衛に至り、100人から200人、
そして調理役、パン焼き役、葡萄酒調達役、蹄鉄役、そして最後に
宮殿と庭園の維持に当たる雑役人夫がいました。

こうして数えると食事300人分では不足しそうですが、
枢機卿達はこの宮殿には住まず、各城館で豪勢な生活をしていたそうで、
礼拝堂付き司祭、執事、侍従、従僕と、構成する家中は
50人に達する事もあったと!



教皇侍従長旧居室(図の9)

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この部屋の上に教皇居室があり、階段で繋がっていたという事でも分かりますが、
教皇侍従長というのは、教会制度において教皇に次ぐ高官で、
教皇庁会議の責任者、いわば一種の総理大臣役であり、
教皇が全幅の信頼を寄せる人物という訳ですね。



床下には8個の煉瓦製の箱が隠され、貴重品や文書が保管され、
部屋も大変美しく装飾されていたと聞きましたが、
壁には何度か改装された跡も残ります。

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部屋の片隅に置かれていた鞄、印から教皇の持ち物と思いますが、

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大変暗い場所で色も分からないまま露出を上げて写し、
戻って見ると、どうやら革製の衣装箱ですね。


上に続けて教皇庁の構成について書きますと、
教皇庁の宮廷付属吏はすべて聖職者で、その位階により
行政、外交、家政などを司っていたそう。

教皇の取り巻きは、近親者、礼拝堂付き司祭、医者、侍従、
そして教皇侍従長を最高責任者とする枢機卿会・サクレ・コレージュ、
次に、ローマ教会の中央行政府。

この行政府は4つの機関から成立、
教皇財務院・キリスト教圏全域で徴収される税金の受理を行う
尚書院・教皇書簡の送付、教会利益の分配管理
司法機関・訴訟を取り扱う控訴院など、種々の法廷を擁する
赦院・教皇の名に於いての宗教法廷、という構成。

これら全てが神聖人格としての教皇に集中し、
生活全体は典礼に則り進行、全員が1日に数回ミサに出席という、
考えて見ると、規模も彩りももっとぐっと大きくして
絶大な世俗権力を加えた修道院生活、という様子でしょうか?



教皇の寝室(図の10 ですが教皇侍従長の居室の隣で、大体この辺りと)
この部屋近辺は狭く、おまけに管理人が見張っていて写真が撮れずで、
上の2枚はガイドブックから。

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壁の色が良く出ていませんが、大変優雅なイメージを受ける
グレイがかった青色の地に、植物の葉と小鳥が描かれた物で、



窓際には立体的に見える鳥籠が描かれていて、

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床のタイルも、書斎に残っていたという図柄と色無地タイルで復元されたもの。
 
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移動仕切りで分けられたこの部屋で、教皇は侍従達と一緒に
寝起きしていたとの事。

最後から2人目の教皇の時代にこの寝室に備え付けられていたのは、
深紅色のビロードとエメラルド色のタフタの帳付き寝台だったそう。

ガイドブックの写真に見える壁際の木製の箱は宮殿の物ではなく、
当時こういう箱に肌着などを閉っていたと。



鹿の間(図の11) 今回一番気に入った部屋。 写真はすべてガイドブック。

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旧宮殿と新宮殿の境にあり、この衣装塔と呼ばれる塔には
4つの衣装室があり、1階には教皇の蒸し風呂があったそう。

後に軍人がこの宮殿を使った時にこの部屋に塗装をした為、
フレスコ画が奇跡的に残り、後世の修復の際に発見。
部屋は豪奢を好んだクレメンス6世の書斎で、ここに寝台と書庫も。

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鹿狩りや鷹狩、養殖場で魚を採る数人、花や果実をつけた木々、
木に上って実を採る子供(オリーヴ)

他の部屋に比べ大変独創的な、いかにもイタリアの画風を感じさせる
フレスコ画ですが、描写法が違う事から、多分数人の画家が協力した作品と。



大聴聞室(図の12) 実際に見た時は半分向こう側が街のお祭り用の
着替え室に仕切られており、天井のリヴの様子など、まるで分からず。

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が、新宮殿に於ける長さ52m 幅16.8m 高さ11mの大きな空間で、
教皇庁の控訴院が、確定審判を下す常設司法機関が置かれていた場所と。

政治と教会が合致していた事をお考え下さい。
キリスト教圏全域に於いての聖職者の任官を行い、何百件もの訴訟を
審議していたのですね。
年間8000通の書簡と1万通の嘆願を処理する能力を持っていたそうです。
       


壁画などは全て損傷されているのですが、一番奥の天井部に1区のみ、
マッテーオ・ジョヴァネッティ・Matteo Giovanettiの描いた
予言者18人のフレスコ画が残ります。

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彼はヴィテルヴォ出身ですが、シエナ派の伝統を継ぎ、クレメンス6世時代の
1346年からの支払記録があるそうで、
先にご紹介した聖ヨハネ礼拝堂、その上階の聖マルシアル礼拝堂の壁画も描き、
宮廷装飾に携わった数多くの画家のうち、マエストロの称号を与えられた
3人のうちの1人の画家でした。

この奥の一区画の天井画が奇しくも残ったのは、後年ここは倉庫として
使われていたので、一番奥に物が積み上げられたかして助かったのではないか、
とはガイドの言葉。
フランス革命の際の損傷が、本当に大きかったのが良く分かります。



上の図は18世紀後半に描かれた教皇特使の行列の様子、

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そして、スイス傭兵の衣服。

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1378年にグレゴリウス11世がローマに戻った後も、40年間対立教皇の
存在で混乱が続きますが、漸くに治まった15世紀に、
アヴィニョンの街とコンタ・ヴネッサンの行政は教皇特使に任せられます。

最後の退任拒否をしたボニファティウス13世への包囲戦、
1413年の大火の修復などもその任務であったわけですが、

当時の一番有名な教皇特使としては、
後にユリウス2世として即位、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を
描かせたり、ラファエッロの庇護者でもあった事でも知られる
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレがいます。
彼は宮殿ではなく、大聖堂の北にあった大司教館のプティ・パレを壮麗な住居
として改築、住みました。 現在、美術館となっている建物ですね。

17世紀に入り、教皇の甥が特使となり、国務庁長官の職務でローマに
住むようになると、特使補佐がこの街に赴任して来ます。

彼らは全てイタリア人で、街の行政面をイタリア人の聖職者の手に握られ
民衆の大暴動も起こり、特使補佐の一行が住むのは宮殿内のほんの一部で、
次第に宮殿の荒廃が進み、フランス革命時に一層の損傷を受けた事は上記。

現在は年間50万人が訪れるという教皇宮殿ですが、見学できる場所は
全体の約3分の1だそうで、見ていない場所の内には、聖具室や衣装部屋、
宝物室、礼拝堂等などたくさんあります。

当時の装飾も殆ど残っていないものの、その存在感はやはり圧倒的で、
長い歴史の中、僅か1世紀にすぎないのに、
キリスト教社会における教皇庁の力の凄さを改めて感じた事でした。

最初に書いた「アヴィニョン捕囚」なる言葉から想像していた厳しい監禁生活
どころか、ははは、実際は物凄い宮殿における教皇様の生活だった訳で!!

「捕囚」なる言葉を考え出した方は、きっと実際をご覧になった事が、
教皇庁なるものの内実をご存知なかったのだろうと愚考した事でした。

本日は長く、少し重たい記事にお付き合い下さり、
最後までどうも有難うございました! 
       
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