先回、中世の14世紀、ローマから南仏のアヴィニョン・Avignonに移転した
元教皇庁の建物が、街の北に今なお威容を示しているのをご覧頂きましたが、
街の中心に続き、今日はいよいよ教皇庁内部のご案内です。
元教皇庁の建物が、街の北に今なお威容を示しているのをご覧頂きましたが、
街の中心に続き、今日はいよいよ教皇庁内部のご案内です。
ヨーロッパに於ける最大のゴシック式宮殿という歴史的建造物であるのみならず、
破壊され修復された今なお残る美しいフレスコ画や、当時のキリスト教社会の
絶大な権力の大きさも偲ばせる大宮殿で、
百聞は一見にしかず、どうぞごゆっくりお付き合い下さい!
破壊され修復された今なお残る美しいフレスコ画や、当時のキリスト教社会の
絶大な権力の大きさも偲ばせる大宮殿で、
百聞は一見にしかず、どうぞごゆっくりお付き合い下さい!

内部は写真OKとダメな場所とがありましたので、
買って来たガイドブックからのも含めてご覧頂きますね。
買って来たガイドブックからのも含めてご覧頂きますね。
写真の手前左にベネゼ橋が見えますが、
いかに大きく聳えているか、良くお分かりと。(ガイドブック)
いかに大きく聳えているか、良くお分かりと。(ガイドブック)
まずは広場からの眺めをどうぞ。 余りにも大きくて全体が入らず、2つに分け、


真ん中上部に細い塔が2つ並ぶ下のアーチ、ここが入り口のシャンポー門・
Champeaux.
正面左側。



現在見えるこの部分は新宮殿と呼ばれる方で、旧宮殿の方は正面左手奥、
大聖堂の脇に続いてあります。
が、新宮殿とはいえ、街の中心広場の洒落た建物に比べると中世の面影を濃く宿し、
大きさもあり圧倒的な迫力。
大きさもあり圧倒的な迫力。
城壁上部の矢狭間近くに飛び出す動物は、犬でしょうか?
雨樋で、ぱっくりと口を開けているのが見えます。
雨樋で、ぱっくりと口を開けているのが見えます。
教皇宮殿、建物全体図をどうぞ。
左から、水色部分・ノートル・ダム・デ・ドム大聖堂
茶色部分・旧宮殿 1335年から1342年に建設
オレンジ色・新宮殿 1342年から1351年に建設

アヴィニョンに教皇庁が存在したのは1309年から1378年までの69年間。
その後も対立教皇の存在で教会分裂の混乱が続き、都合約1世紀間。
その後も対立教皇の存在で教会分裂の混乱が続き、都合約1世紀間。
高さが50mにも達する塔、巨大な大広間、礼拝堂や居室の見事な
絵画装飾等などと、当時のキリスト教社会の第一君主の住居に相応しい
威光を発揮する宮殿が建設されたのでした。
絵画装飾等などと、当時のキリスト教社会の第一君主の住居に相応しい
威光を発揮する宮殿が建設されたのでした。
ではなぜアヴィニョンに教皇庁が移ったのか?
13世紀のイタリアに於いて、教皇派のグエルフ党とドイツ皇帝派のギベリン党が
内戦状態にあり、既に教皇とその宮廷はあちこちと居住地を変えていたと。
この居住地変更については、どこに誰がかを勉強不足で知りませんで、
どなたかお教え願います。
14世紀に入るとますます政治事情が複雑になり、フランスのフィリップ4世の
教皇至上権を認めない強硬な介入により、
ボルドー大司教がクレメンス5世としてリヨンで即位、ここにフランス人教皇が
誕生すると、ローマに戻らぬままにアヴィニョンに教皇庁を移す事を宣言。
教皇至上権を認めない強硬な介入により、
ボルドー大司教がクレメンス5世としてリヨンで即位、ここにフランス人教皇が
誕生すると、ローマに戻らぬままにアヴィニョンに教皇庁を移す事を宣言。
で、なぜアヴィニョンが選ばれたかという事ですが、
この地は、ナポリとシチリアの王でもあるプロヴァンス伯の領土で、
当時アンジュー家のシャルル2世伯でしたが、教皇を支援する立場。
その後1348年には、女伯ジョアンナがクレメンス6世にアヴィニョンの町を売却。
この地は、ナポリとシチリアの王でもあるプロヴァンス伯の領土で、
当時アンジュー家のシャルル2世伯でしたが、教皇を支援する立場。
その後1348年には、女伯ジョアンナがクレメンス6世にアヴィニョンの町を売却。
そして隣接のコンタ・ヴネッサンの土地は13世紀末からの教皇領、
つまりローヌ河を挟んでフランス王国のお隣であり、イタリアとスペインに囲まれた
キリスト教圏の中心、という理想的な地理条件にあった街だった訳ですね。
つまりローヌ河を挟んでフランス王国のお隣であり、イタリアとスペインに囲まれた
キリスト教圏の中心、という理想的な地理条件にあった街だった訳ですね。
ですがアヴィニョンに教皇庁が移った事により起こった町の大混乱もご想像を。
わずか6000人程の人口の町だったのが、40年後には3万人程にも増大したと。
わずか6000人程の人口の町だったのが、40年後には3万人程にも増大したと。
僧院や修道院のみでは教皇庁付属吏を収容できず、賠償金を払い
市民を家屋から立ち退かせたり、税免除して城壁外への移住を優先したりも。
急ごしらえの混乱した過密状態の不潔な町は、火災や疫病の伝播に理想的な
状態で、数度に渡りペストが猛威をふるい、哀れな形で過剰人口解消も!
状態で、数度に渡りペストが猛威をふるい、哀れな形で過剰人口解消も!
最初は教皇自身も一時しのぎの教皇庁移転と考えていたのが、
いよいよ宮殿を建設する事になると、大変な建設ラッシュ、町中が工事現場
となり、大賑わいで沸いた事でしょう。
一方、教皇庁の造営、新住民の到来が齎した文化交流の効果も見逃せず、
ガラス細工、金銀細工、織物等などの素晴らしい職人も集まって来る、
北と南の様々な流派が混ざり合い、ここにアヴィニョン派が生まれる元にもなり、
財力を持つ人間が集まり、学者や博学の士も招かれる事で、
一大文化交流発展の地ともなったのですね。
いよいよ宮殿を建設する事になると、大変な建設ラッシュ、町中が工事現場
となり、大賑わいで沸いた事でしょう。
一方、教皇庁の造営、新住民の到来が齎した文化交流の効果も見逃せず、
ガラス細工、金銀細工、織物等などの素晴らしい職人も集まって来る、
北と南の様々な流派が混ざり合い、ここにアヴィニョン派が生まれる元にもなり、
財力を持つ人間が集まり、学者や博学の士も招かれる事で、
一大文化交流発展の地ともなったのですね。
ペトラルカなども教皇庁の大悪口を言いつつも招かれ手厚くもてなされ、
修道女教会で情熱を燃やす羽目になったり、
・・と読むと、これは少し調べてみませんと! むひひ。
修道女教会で情熱を燃やす羽目になったり、
・・と読むと、これは少し調べてみませんと! むひひ。
既に工芸学部と医学部のあった大学には法学部も設立、
当時において一番活気ある、大繁栄の町となったのでした。
余談ながら、フィレンツェの中世の歴史を読んでいると、当時フィレンツェの
金融業者が南仏で投資したり、学生相手に金貸しをして儲けた事が
出て来ますが、今回、そうだったのか! と疑問が解けました。
当時において一番活気ある、大繁栄の町となったのでした。
余談ながら、フィレンツェの中世の歴史を読んでいると、当時フィレンツェの
金融業者が南仏で投資したり、学生相手に金貸しをして儲けた事が
出て来ますが、今回、そうだったのか! と疑問が解けました。
フィレンツェのジャンフィリアッツィ家 n.2 ルネッサンスの都に、中世を探して
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022941.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022941.html
cucciolaさんが、こちらにウブリアーキ家について詳細に。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765054.html
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765054.html
では一体どの教皇様がここにいたのか、ですが、
アンリ・セリュールという画家が19世紀に想像で描いたという肖像画をどうぞ。
上段左から クレメンス5世 (在位期間1305年~1314年)
ヨハネ22世 (1316年~1334年)
ボニファティウス12世 (1334年~1342年)
ヨハネ22世 (1316年~1334年)
ボニファティウス12世 (1334年~1342年)

2段め左から クレメンス6世 (1342年~1352年)
インノケンティウス6世 (1352年~1362年)
ウルバヌス5世 (1362年~1370年)
インノケンティウス6世 (1352年~1362年)
ウルバヌス5世 (1362年~1370年)

3段目左から グレゴリウス11世 (1370年~1378年)
以上7人がフランス人教皇で、アヴィニョンに居を定めた教皇。

以下はローマに教皇庁が戻った後も、分裂が続き対立教皇として、
この街に存在した教皇2名 クレメンス7世 と ボニファティウス13世で、
この街に存在した教皇2名 クレメンス7世 と ボニファティウス13世で、
この最後の教皇は退位を拒否、フランス人枢機卿達からも見放され、
アヴィニョンの住民達の反乱、最後はフランス王の傭兵からも襲撃を受けつつ
4年間抵抗、遂に1403年のある夜スペインに逃げ出し、という逸話の持ち主。
アヴィニョンの住民達の反乱、最後はフランス王の傭兵からも襲撃を受けつつ
4年間抵抗、遂に1403年のある夜スペインに逃げ出し、という逸話の持ち主。
1416年になり、漸くにマルティヌス5世が神聖ローマ帝国のコンスタンツにおいて
教皇に選出され、ここに40年間に渡る混乱が終結した、という事なのでした。
教皇に選出され、ここに40年間に渡る混乱が終結した、という事なのでした。
と、脱線しましたが、この巨大な教皇庁の建物は、3代め4代め教皇の
大奮闘による建設と言う事なのですね。
大奮闘による建設と言う事なのですね。
初代のクレメンス5世は、アヴィニョンのドメニコ会派の修道院や、近郊教皇領の
城館を住居にし、あちこちを転々と。
2代めのヨハネ22世はアヴィニョンの司教であった事からもこの地を良く知っており、
旧宮殿の場所にあった司教館を改築美化、教皇庁税制改革に取り組み、
教皇財産の増大に貢献、
それで3代めのボニファティウス12世から大造営に取り組んだ事になります。
城館を住居にし、あちこちを転々と。
2代めのヨハネ22世はアヴィニョンの司教であった事からもこの地を良く知っており、
旧宮殿の場所にあった司教館を改築美化、教皇庁税制改革に取り組み、
教皇財産の増大に貢献、
それで3代めのボニファティウス12世から大造営に取り組んだ事になります。
4代めのクレメンス6世は小貴族の出で豪奢を好み、新宮殿を拡張し、
この造営により教皇庁の財源は底をつき、
後継教皇たちは手直し程度の改築しか出来なかったのだとか。
1337年5月の記録によると、工事現場で働く労務者数は800人とされ、
石工親方、大工、石切夫、人夫と、現場で働く者のみならず、
膨大な建築材料の運搬をも必要とした訳で、ご想像下さい!
この造営により教皇庁の財源は底をつき、
後継教皇たちは手直し程度の改築しか出来なかったのだとか。
1337年5月の記録によると、工事現場で働く労務者数は800人とされ、
石工親方、大工、石切夫、人夫と、現場で働く者のみならず、
膨大な建築材料の運搬をも必要とした訳で、ご想像下さい!
全部を見た訳でなく、一般には公開されていない場所もあり、
今回写真でご案内できる場所に印をつけました。
まず、新宮殿の西側(図では下)の入り口から入り、
入り口脇の番号1,2を通り、新宮殿の中庭3に。
入り口脇の番号1,2を通り、新宮殿の中庭3に。

そして、旧宮殿の礼拝塔の2階の5を見て、6が内庭。
これ以降は「n.2のご案内」になりますので、その時にご説明を。
こちらは、入り口シャンポー門部分のアーチ上部。
どうやらかっては彩色もされていたらしい様子で、左側の窪みから考え、
元は手前に堀があり跳ね橋があったのだろうと思われます。
どうやらかっては彩色もされていたらしい様子で、左側の窪みから考え、
元は手前に堀があり跳ね橋があったのだろうと思われます。

入り口部分の天井で、入り口脇に衛兵の間、図の1、があり、

図の2.小聴聞室、法廷が置かれていた部屋で、嘆願、請願の取り扱いが
されていましたが、17世紀の教皇特使補佐時代になり、工廠に改造され、
現在見られる白黒グリザイユの戦具が描かれたとの事。



まず目に留まったのは、アーチを支えるりヴが、萼(ガク)形装飾と言う
建築様式で、この様に壁面上部で切られている事。
中世風の面影を持つ動物や人物像が彫り込まれたこの受ける形が、
新宮殿のいたる所に見られるのですね。
これはアーチを壁面下まで伸ばさずに、これらの装飾を施された石材が
この部分で壁に横位置で嵌め込まれているのだそう。
この部分で壁に横位置で嵌め込まれているのだそう。
これはイタリアでは見た事が無い気がするのですがどうなのでしょうか?
ご存知の方、お教え願います。
ちなみにイタリア語では、ペドゥッチョ・peduccioというそうで、
言葉があるという事は、使われた様式なのかな?
ご存知の方、お教え願います。
ちなみにイタリア語では、ペドゥッチョ・peduccioというそうで、
言葉があるという事は、使われた様式なのかな?
中庭(図の3)に出て、入り口のシャンポー門を内側から。
ここにも萼形装飾があり、

また見慣れない建築の形で「垂れ要石の穹隆」と呼び、ここ1ヶ所のみと。
私の頭では、こういう形の重力の掛かり方、さばき方が分かりまへん!

門全体の古い写真がガイドブックに。

中庭には毎年7月に行われる街のフェスティヴァルの桟敷席がいっぱいに組まれ、
1364年に掘られたという井戸も何も見えず、奈落の底の様な桟敷の足場の
間を抜け、旧宮殿に向かいます。
1364年に掘られたという井戸も何も見えず、奈落の底の様な桟敷の足場の
間を抜け、旧宮殿に向かいます。
大きな窓は、新宮殿の南西角にある美しいもの。

こちら2枚の写真は中庭の北東角、旧宮殿が南に延びている部分。


ガイドブックを眺めつつ、見学した様子を思い出しつつ考え、
どうやら旧宮殿が、新宮殿よりも高い土地にある事、
つまり宮殿の北にある大聖堂がドム岩壁にある、という事からも
間違いないと思うのですが、その傾斜を利用しての差と、
どうやら旧宮殿が、新宮殿よりも高い土地にある事、
つまり宮殿の北にある大聖堂がドム岩壁にある、という事からも
間違いないと思うのですが、その傾斜を利用しての差と、
宮殿内でも天井の高い広間部分は2階分の高さで、私的な部屋などは
3階部分に、時に4階部分に、あっただろう事に思い至りました。
3階部分に、時に4階部分に、あっただろう事に思い至りました。
そう考えると、旧宮殿の内庭が一瞬テラスの上の庭かと思った事や、
見学するのに階段を上がり降りした事が、納得出来たのでした。
見学するのに階段を上がり降りした事が、納得出来たのでした。
こちらは、聖ヨハネ礼拝堂(図の5)で、旧宮殿の東に張り出す形の
小さな塔にあり、教会高官用の礼拝堂に使用されたそう。
小さな塔にあり、教会高官用の礼拝堂に使用されたそう。

宮殿内の写真がダメなのは、フレスコ画が描かれた場所との事だったのですが、
何せ大勢の見学者でどさくさにまぎれ、管理人がいない所はせめてもの抵抗を!
何せ大勢の見学者でどさくさにまぎれ、管理人がいない所はせめてもの抵抗を!
が、礼拝堂などは入り口から覗き込むだけで入れず、鑑賞するには程遠く。
上の2階部分には聖マルシアル礼拝堂があるそうですが、見ておりません。
室内は展示室となっており、こんな装飾タイル類があれこれ。
床面に、褐色または緑色の単色のタイルと交互にこうした柄タイルが
嵌め込まれているのが、3階の教皇の書斎で発見されたそうですが、
人物柄タイルは1つだけで、他のタイル張りの床は1969年に修復されたものと。


蹲った形の人物像、上に誰かが跨っていたようですが、これがアーチのリヴを
支える萼形装飾・ペドゥッチョの原型だろうと。
支える萼形装飾・ペドゥッチョの原型だろうと。

教皇宮殿は、1403年に抵抗していた対立教皇のボニファティウス13世が
夜逃げした後、包囲戦による損害、そして厨房からの出火により全焼した
東側の建物、などの修復は教皇特使に委ねられますが、
夜逃げした後、包囲戦による損害、そして厨房からの出火により全焼した
東側の建物、などの修復は教皇特使に委ねられますが、
時代が下るにつれ、特使補佐がアヴィニョンに駐在する事になり、
すべての建物を使用した訳ではなく、徐々に荒廃して行きます。
すべての建物を使用した訳ではなく、徐々に荒廃して行きます。
そしてフランス革命の際に、最後の特使補佐は革命派の圧力に屈し放棄逃亡、
建物は牢獄にも使われ、崩壊と略奪に。
建物は牢獄にも使われ、崩壊と略奪に。
19世紀初頭には軍の使用になり、致命的な損傷が加えられたものの、
1906年に至り、漸くに修復工事に取り掛かったという変遷。
フレスコ画等も損傷を受け、また剥がして売られたりで、
いわばこの宮殿は丸裸にされて残った訳ですが、
いわばこの宮殿は丸裸にされて残った訳ですが、
素晴らしいシモーネ・マルティーニ・Simone Martiniのフレスコ画「聖母子」が。


これはお隣の大聖堂のポーチにあったのを、ここに展示で、
キリスト像もありましたが、残念、顔が損傷を受けておりました。
フィレンツェはウッフィツィ美術館の素晴らしい黄金背景の「受胎告知」で有名な
シモーネ・マルティーニ(1284年頃-1344年)は、シエナ派の大家ですが、
1340年頃招かれてアヴィニョンに行き、こうした優れた作品を残したとの事。
優美そのものの聖母の顔に、暫し見とれました。
シモーネ・マルティーニ(1284年頃-1344年)は、シエナ派の大家ですが、
1340年頃招かれてアヴィニョンに行き、こうした優れた作品を残したとの事。
優美そのものの聖母の顔に、暫し見とれました。
旧宮殿の内庭(図の6)を東側から眺めて。
右に見えるのが鐘楼で、左側が小鐘楼。 ここの銀製の鐘が、食事や、
控訴院の開廷、枢機卿会議の開始を告げたそう。
右に見えるのが鐘楼で、左側が小鐘楼。 ここの銀製の鐘が、食事や、
控訴院の開廷、枢機卿会議の開始を告げたそう。



という所で、「アヴィニョンの教皇宮殿 その2」に続きます。
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