・ コッラルトの城跡と村 そして コッラルト家の人々

先々回お隣のスセガーナの町にある、サン・サルヴァトーレの城のすぐ下に
広がる葡萄畑をご覧頂きましたが、

あの日は葡萄畑の後shinkaiの希望で、写真仲間と一緒に
スセガーナの北西にあるコッラルトの城を見に行きました。

ここは古い塔に有名な伝説も残る城跡と小さな集落がある村で、
スセガーナの町のサン・サルヴァトーレの城主コッラルト家の最初の城でもあった、
いわば本拠でもあった地なのですね。

写真は古い塔12世紀の物と、南にある中世の門。
      
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写真右下に小さく柵が見えますが、



こんな感じで、多分湧き水のある場所なのだろうと。

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位置関係の地図をどうぞ。 我が町コネリアーノが北東に、サン・サルヴァトーレの
城のあるスセガーナ・Susegana、そして北西にコッラルト・Collalto.
スセガーナとコッラルトの距離は約6kmと。

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西に流れるのはピアーヴェ河・Piave、かっては北のベッルーノ・Belluno
から木材を筏に組んでヴェネツィアに運んだといいますが、
今でもピアーヴェ西、東という呼び名がある、いわばヴェネツィア領域とフリウリ領域に
分ける河だったようです。
      
左下に囲んだネルヴェーザ・デッラ・バッターリア・Nervesa della battaglia
の上から西に広がる楕円形の山、丘はモンテッロ・Montelloと言い、
ここはピアーヴェ河を挟んでの第一次大戦の激戦地だった一帯で、
ネルヴェーザには大戦の大きな慰霊所があります。

モンテッロの丘、この地図に見える範囲よりも少し西には、「王の監視所」と
呼ばれる山中の農家を改装した、半地下の視察所が今も残る程で、
オーストリア軍側にあった、ピアーヴェ河東すぐのスセガーナの城は、
コッラルトの城共に砲撃を受け、大破壊されたのも良く分る距離と思います。
       


今回の写真はshinkaiの撮ったのにはブログのアドレス入りで、
他はサイトからの拝借です。

奥にもう一つ門が見えますが、まずは最初の門をくぐり、

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左には3~4軒の家並みがあり、右には広場。

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コッラルトの村に行きたいと言ったのは、ずっと以前に一度訪れた事があり、
その時の印象がとても良く、この何軒かの家並みに描けそうな印象があったからで、

が、今回改めて見ると、私めの目が肥えすぎたのかどうか、へへへ、
ちょっと面白い所もあるにはあるのですが・・。

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右に広がる広場には、ドゥエ・トッリ・Due Torriという、リストランテ、
トラットリーア・バールがあり、
       
これは最初の門を入る前にあった看板で、左に見える拙い絵が、失礼、
ははは、伝説を物語ります。

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こちらが広場にあるトラットリーア。 まだ入った事はないのですが、
かなり広そうでしょう?

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サイトで見つけたスピエード・串焼きの写真!

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そしてこちらは部屋のフレスコ画。 土地の画家が描いたと言う、新しい物と
思いますが、真ん中上がコッラルト家の紋章、その右の肖像がコッラルティーノ・
ディ・コッラルト・Collaltino di Collalto。

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彼については後に、そして下の真ん中にある大きな戦闘図をご記憶下さいね。



最初の門から真っ直ぐ、広場の脇の坂道を上りますが、

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その前に、こちらは最初の門をくぐった右手から広がる城壁で、ぐるっと城郭を
囲む城壁ですが、背は高い物の厚みが無く、城自体も12世紀の物
だったのを物語ります。

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そして高台に見える古い大きな塔。

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ここには上れず、近づいて見れるのも夏の期間の定められた日に、
解説付きの見学ツァーがある様子。



坂の手前にあった城の簡単な解説。

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コッラルトの城、中世の塔と外域を囲む城壁の名残の跡、
初代トゥレヴィーゾ伯爵エンセディージョ・Ensedisioにより
1110年に建設されたもの。 1312~1806年まで伯爵領の本拠地。
1917~18年の第一次大戦で破壊された。



坂道を上り奥の門をくぐると、右手にもう一つ門が見え、
この奥が城の中核、城主の居住地であったのでしょう。

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鉄柵の門からのぞくと、こんな感じに城壁の名残が見え、

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サイトで見つけた、内側の小さな写真2枚。

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実はこの城の塔に残る有名な伝説があり、時は中世のいつ頃か、
どこにも出ませんが、

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主人公はトルベルト・ディ・コッラルト・Tolberto di Collaltoと、
その妻キアーラ・ダ・カミーノ・Chiara da Camino、
そして奥方付き侍女のビアンカ・Bianca.

長年の敵である現在はヴィットリオ・ヴェネトになるチェーネダ・Cenedaの
カミーノ家から、和平の為に輿入れして来た美貌は並ながら大変嫉妬深い奥方、
はは、ちょっと可笑しな言葉使いですが、
       
そして彼女のお付侍女となったビアンカ・Bianca、長い波打つ金髪の髪、
優しい笑顔、優しい性格と、それはもうそうでなくてはね、ははは。
    
トルベルトはビアンカを愛しますが、奥方の嫉妬を恐れ密やかに。
そして戦に出発する朝、奥方の部屋に挨拶に出向き、
髪をといていたビアンカにも微笑んで挨拶。

ビアンカの頬を伝う涙からすべてを察した奥方は、トルベルトが出発するや否や、
上の絵のようにビアンカを生きたまま、塔の壁の中に閉じ込めたのですと!

お話の終末は2筋ありまして、トルベルトは戦から無事戻り、出来事を聞くや否や、
奥方のキアーラを追放したというのと、戦からついに生きて戻らず、という説と。

ですがビアンカの亡霊は、その後コッラルトの人々の前に、良い出来事が
ある時は白いベールで、逆の時は黒いベールに顔を隠し、現れるのですと!
このお話は、1925年にコッラルト家の伯爵夫人から明かされた物だそうで、
如何にもでしょう? 
なので演劇や音楽劇にも何度も取り上げられているのだそう。



コッラルトの村では、このビアンカの悲劇を扱ったお祭りもあり、
かっての衣装で皆さん参加される様子。

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少し奥には左に見える13世紀の古い塔が残り、右はかって砲撃で破壊された
大きな屋敷跡に建てられたと思われる教会があります。

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塔の上部。

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城郭跡を囲む古い城壁の名残。

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下の写真の城壁には張り出しが付いていますね。 これで壁の上の通路は
少し広くなり、小砲位は撃てる広さなのだと。



奥の方はまさに森の佇まいですが、

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一廓にあったこれ、多分牢であったろうと。

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今はまさに「つわものどもが夢の跡」の佇まいなのですが、

20世紀初めの砲撃前の、村と城の様子が絵葉書に残ります。

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そしてこちらが、模型で復元されたかってのコッラルト。
右端下に見えるのが最初の門で、坂道を上り、右に折り返した高台に城郭と
今も残る古い大きな塔があったのですね。

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コッラルト家はロンゴバルド族出身で、記録は無いものの、カール大帝などが
イタリアに来た頃一緒に付いて来た戦士だったろうと言い、上手く立ち回り、
騎士の位を手に入れたのだろうと。
いつコッラルトの姓を名乗ったかも定かではありませんが、住み着いた土地の
名を姓として名乗ったのであろうと。

958年最初の記録にでるランバルドは、イタリア国王であった(950-961)
べレンガーリオ2世・BerengarioIIとその息子アダルベルト・Adalbertoから
トゥレヴィーゾの南の土地とモンテッロ近くを受けた様子で、
ランバルドはべレンガーリオの娘ジスラ・Gislaと結婚したというので、
重く用いられたのでしょう。

モンテッロの近く、というのは戦術的に重要なピエーヴェ河の渡河を見張る位置で、
べレンガーリオがその下に下ったオットー2世、オットー3世の元で
正式にトゥレヴィーゾ伯爵の位も受け、領土も徐々に増え、
1000年の最初にはトゥレヴィーゾからチェーネダ、パードヴァからヴィチェンツァ一帯に
散らばり広がる領地を持つ大きな貴族になっていた様子。
       


城郭跡のある位置から下に広がる土地には、茶色の牛達が草を食み、

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こんな土地が遥に広がりますが、サイトによると、これもコッラルト家の土地と!

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先々回の葡萄畑を思い出して下さいね。
我々は写真中程に見える坂道を上り、上のサン・サルヴァトーレの城の手前から
左に行って下り、ちょうど緑の葡萄畑が見える三角形を歩き戻ったのでした。
つまりコッラルト家の葡萄畑をちょっぴり歩かせて頂いたという訳!

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写真に見える大きな赤屋根の建物が、現在のコッラルト家の企業本体である
ワイン醸造所、コンテ・コッラルト。



で1千年続くコッラルト家の現当主は、右から2人目のイザベッラ・Isabellaで、
右は夫のギュローム・ドゥ・クロイ・Guillaume de Croÿ ベルギーのクロイ家の
君子だそうで、イザベッラもIsabella Collalto de Croÿ と名乗ります。
・・家柄としてはどちらが上なのでしょうかぁ?

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先代のコッラルト家には男子が生まれず、4人の姫、プリンチペッサのみで、
長女のイザベッラがコッラルト家の農業企業、ワイン企業を統率している様子で、
2人のお子は、左がエマヌエーレ・Emanuele、既に現在公的に活躍しておられ、
右がヴィオレッテ・Violette.

今回平民のshinkaiがふぅ~んと思ったのはです、
サイト記事に出る名前にきちんと Principe、Principessa、Contessaと
敬称付きなのですね。
イタリア共和国になってこういう敬称は廃止されたと思っていたのですが、
やはりきちんと残っているイタリア社会なのでした。
       


コッラルト家のイザベッラ様、お綺麗な方ですねぇ!

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ワイン醸造についてなど、現在のコッラルト家の活動については、
http://www.cantine-collalto.it/



ウィーンには、こんなコッラルト家のお館もあるそうで~す。

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さてこちらは、トラットリーアの壁画に肖像が見えた
コッラルティーノ・ディ・コッラルト・Collaltino (1523-1569)

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第何代になるのか分りませんが、コッラルト家の中で名が残る有名な方、
それも武勲ではなくロマンスで、なので~す。

父マンフレード・Manfredo、母ビアンカ・マリーア・ヴィンチグエッラ・
Bianca Maria Vinciruella、この母親が詩人だったそうで、
勿論当時の貴族として武術も納め、と同時に文学もたしなみ、
1545年には詩集も出版しているとの事。
教養ある洗練された人柄で、ヴェネツィアの文学者達の集まりにも
すんなりと溶け込み、



そこで知り合ったのが、女流詩人ガースパラ・スタンパ・Gaspara Stampa
(1523-1554)で、

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パードヴァで父親が亡くなった後、母親の郷ヴェネツィアに戻り、その家が
文学サロンとなり、貴族、詩人、音楽家、文学者の溜まり場となり、
その美貌と秀でたリュートの演奏と歌、詩で有名だったのだそう。
       
コッラルティーノとガースパラは同い年で、25歳の出会い。
じきに恋愛関係となったものの、彼女の方が真っ当に深く愛し求めたのに対し、
彼の方はなかなかで、別れもあり、縒りが戻った時期もあり、彼女に素晴らしい
ソネットが生まれた事もあったものの、結局約3年後に彼女は捨てられた形となり、
元々虚弱体質であった彼女には精神的にも厳しく、ついに僅か31歳の
生涯を終えたのでした。
       
ガースパラ・スタンパについては、pescecrudoさんが3回に渡り書いておられます。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-92.html

コッラルティーノとの関係については、2回目のこちらに。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-93.html
      

コッラルティーノのその後ですが、
1557年にジューリア・トレッリ・Giulia Torelliと結婚し、
2人の息子フーリオ・カミッロ・Furio Camilloと、ピッロ・Pirroが生まれますが、 
長子の名にご留意を。

そして1558年、武装してヴェネツィア共和国領内に入り込み、親族に激烈な
恨みを持ち襲撃したかった様なのですが、反逆罪に問われ追放とされ、
マントヴァのゴンザーガ家に逃げたそう。
 


そして今回最後の人物、フーリオ・カミッロ・ディ・コッラルト、これはつい最近
出版された本で、トラットリーアに描かれたフレスコ画が表紙にもなっているのですが、
絵の下に見える副題が、Traditore innamorato・恋に落ちた裏切り者。

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そう、上のコッラルティーノの長子フーリオ・カミッロが主人公で、小説仕立てで、
実際に起こった事件をヴェネツィアの記録古文書から拾い出し、
歴史を踏まえ当時の世相なども知るように描かれていると。

つまり落ち着きの無い乱暴者のフーリオ・カミッロが、同じ一族のジュリアーナ・
ディ・コッラルト・Giulianaに恋をし、1585年コッラルトの城を襲撃し、
彼女をさらったのだそう!

父親コッラルティーノは、サン・サルヴァトーレの城で生まれていますから、
多分直系がコッラルトに住んでいたのだと想像し、
父親がいつまでマントヴァに追放の身でいたかなのですが、フーリオ・カミッロは
サン・サルヴァトーレの城にいて、こちらのコッラルトの城のジュリアーナを見初め、
奪いにかかったという、彼が28歳の時の事ですね。

彼女を奪い、目指したのがマントヴァと言うので、父親の追放先でもあるので、
知り合いがいたのとも考えられますし、
最後がどうなったのか、これを知りたいのですがぁぁ、
       
フーリオ・カミッロの名で検索をかけると、でるのは、この本のことばかり!!
作者のインタヴューも見ましたが、結末はでませんし、
12エウロで本を買うべきかどうか、ははは、今考慮中で~す! 
       
◆ 追記 ◆
確かコッラルト家の歴史について書いた古い出版(1929)の復刻版を
持っていた筈と探し、フーリオ・カミッロについて何か書いていないか調べました。

7行ほど触れておりまして、フーリオではなくフルビオ・Fulvio Camilloで、
1585年の4月にたくさんの兵と強力な武器を持ってコッラルトの城を襲い、
破壊し多くの戦利品を奪ったと。

原因はコッラルトの城にいた親戚に利害関係の古い恨みがあったものと。
どうやら父親の襲撃事件とおなじ怨恨が続いていたのではないかと思われ、
これには「恋した女性ジュリアーナ」には触れておりませんし、
行きがけの駄賃に、失礼、略奪したのかも知れず、

それを今回改めてちょっとお話を膨らましたのかも知れないな、と思いましたです。 
       


そんなこんなで、ちょっと浮世離れのした古城跡と人物伝が続きましたので、
最後も綺麗に、コッラルトの美しい秋の風景をどうぞ!

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