毎日暑いですねぇ!! いかがお過ごしでしょうか?!
梅雨明けも間近でしょうから、皆さん、体調にお気をつけてお過ごし下さいね!
梅雨明けも間近でしょうから、皆さん、体調にお気をつけてお過ごし下さいね!
今日は5月に再訪したペルージャの中世部分、といってもこの歴史の長い街には
ローマ期以前の遺跡がたくさんあるので、中世など何さ、という感じですが、はは、
ローマ期以前の遺跡がたくさんあるので、中世など何さ、という感じですが、はは、
中世の水道橋・アックエドット・Acquedottoが現在もそのまま通り道として
残っている場所と、初代ローマ皇帝アウグストの名も冠されているエトルスコ門、
そしてちょっぴりパオリーナ要塞の中を、というご案内です。
残っている場所と、初代ローマ皇帝アウグストの名も冠されているエトルスコ門、
そしてちょっぴりパオリーナ要塞の中を、というご案内です。
まず、街の中心広場クワットロ・ノヴェンブレに面した街のドゥオーモ、
サン・ロレンツォ聖堂・San Lorenzo.
サン・ロレンツォ聖堂・San Lorenzo.

ドゥオーモ脇入り口とその右側。


入り口脇にある説教壇。 今回初めてここの装飾コジマ式のモザイクに気がつき!

聖堂上部は装飾が未完ですが、下部の白にピンクの色がとても優雅で、
ピンクの石はアッシジ産と。

内部にも入ったものの暗く、祭壇部のみ撮り、左下にカメラ禁止マークが
出ているのも、暗いので見えなかった事に、ははは。

上でご案内した美しい壁部分は実は聖堂脇部分でして、右に回ったダンテ広場・
Piazza Danteに面しているこちらが聖堂正面。

聖堂は、ここに以前あった969年建設の古い聖堂跡に造られた物で、
1345年に最初の石が置かれますが、実際の建設が始まったのは1437年と。
上の写真の美しいゴシック様式の扉は16世紀、脇の説教壇は15世紀初めの物、
最初の写真に見える左端のロッジャは1423年に、モントーネ・Montoneの
名高い傭兵隊長ブラッチョ・フォルテブラッチョ・Braccio Fortebraccioが
寄進した物なのだそう。
最初の写真に見える左端のロッジャは1423年に、モントーネ・Montoneの
名高い傭兵隊長ブラッチョ・フォルテブラッチョ・Braccio Fortebraccioが
寄進した物なのだそう。
街の他の建物、そして聖堂前にある美しい泉・フォンターナ・マッジョーレ・
Fontana Magioreについて、も少し詳しくこちらに。
Fontana Magioreについて、も少し詳しくこちらに。
聖堂前から見るプリオーリ宮・Palazzo Prioriと、フォンターナ・マッジョーレ。

で、今回は水道橋を見るのが目的だったで、聖堂前を西に行き、
この素晴らしく高く威圧的な門を抜け、

門脇にあった泉。

地図をどうぞ。 真ん中下にドゥオーモ・Cattedrale di San Lorenzoがあり、
そこから北西にバス停のある4つ角に。 そして、広い道を真っ直ぐではなく、
右の小路Via dei Baldeschi・ヴィア・デイ・バルデスキを行き、
赤点を付けた建物の下を潜るアーチを下ると、
水道橋の道・ヴィア・デッラクエドット・Via dell'Acquedotto.
そこから北西にバス停のある4つ角に。 そして、広い道を真っ直ぐではなく、
右の小路Via dei Baldeschi・ヴィア・デイ・バルデスキを行き、
赤点を付けた建物の下を潜るアーチを下ると、
水道橋の道・ヴィア・デッラクエドット・Via dell'Acquedotto.

もう一つの目的のアルコ・エトルスコには、元のバルデスキ通りに戻り、
そのまま下ると行き着きます。
そのまま下ると行き着きます。
ここがヴィア・デイ・バルデスキから下る道の入り口で、

振り返ってみるアーチの上はこんな高い建物! 5~6階建てのこんなのが
ペルージャには多く、田舎暮らしにすっかり慣れた身にいつもかなりの威圧感、はい。

ぼちぼちと、低い石段道を下り、中程に見えて来るのが水道橋通り。

目の前を横切るアーチ上の道が、地図に見えるチェーザレ・バッティスティ通り・
Via Cesare Battistiで、この道を右に行くと、やはりアルコ・エトルスコ前に。
見ている前を、この上の道を真っ赤な観光客用バスが通り、
説明の為に暫し止り、・・はよう、いかんかぁ。
説明の為に暫し止り、・・はよう、いかんかぁ。
そうなんです、昔々雑誌で、はたまた近年はサイトで、この水道橋の写真を見て、
ずっと一度実際に見たいと思っていた風景! そして奥の古い背の低い建物群。


今下って来た道は、ヴィア・アッピア・Via Appiaといい、こんな風に接続し、

ほら、意外に横幅が広いでしょう? そして、こんな風に奥に続き、
人々が普通に通って行きます!


真ん中部の橋に接した建物の壁に、この標識。

実はshinkaiめは、この水道橋がローマ期の物であると思い込んでおり、
昔々雑誌でそう刷り込まれ、はぁ、所がおっとどっこい、今回最初に書いた様に、
これは中世13世紀の物と、今回このブログ書き用で知ったという訳です!
1254年に街の議会は北のモンテ・パチャーノから、ドゥオーモ前のグランデ広場・
現在のクワットロ・ノヴェンブレ広場まで水道橋を通し、広場に泉・
フォンターナ・マッジョーレを作る事を決定。
1255年から工事にかかりますが遅延し、工事終了は1280年で、
ちょうどこちらも建設が終わったフォンターナ・マッジョーレから水が迸ったのは
1280年2月13日の事だったと。
ちょうどこちらも建設が終わったフォンターナ・マッジョーレから水が迸ったのは
1280年2月13日の事だったと。
つまりこの水道橋は、あの美しい泉に水を供給する為に建設された訳で、
全長5Km弱、建設工事も長引いたのですが、出来てからも水泥棒、破壊工作と
その保全問題が絶えずで、最後は1799年と、これがどうやら大きかったらしく、
全長5Km弱、建設工事も長引いたのですが、出来てからも水泥棒、破壊工作と
その保全問題が絶えずで、最後は1799年と、これがどうやら大きかったらしく、
遂に別の水確保をし、19世紀にこの最後の部分を歩道として残したのだそう!
私は「水道橋」という言葉に、街の人々に水を運ぶという憧れも感じ、南仏で見た
あの美しいローマ人の造った水道橋ポン・デュ・ガールも思い重ねていましたが・・。
あの美しいローマ人の造った水道橋ポン・デュ・ガールも思い重ねていましたが・・。
ですが、今回あれこれサイトの記事を探しながら読み、少しずつ分って来たのが
とても興味深く、現在もモンテ・パチャーノの一帯には、湧き水を貯めるための
幾つかの地下の水槽、一番大きなのは長さが500mもあり、
現在は博物館になっている事なども知り、面白く楽しめました。
とても興味深く、現在もモンテ・パチャーノの一帯には、湧き水を貯めるための
幾つかの地下の水槽、一番大きなのは長さが500mもあり、
現在は博物館になっている事なども知り、面白く楽しめました。
それにしても、街の中心に大きな美しい泉を作り、その水確保の為に水道橋を作り
水を運ぶ、う~む、当時13世紀のペルージャの繁栄振りが分るような逸話ですね!
水を運ぶ、う~む、当時13世紀のペルージャの繁栄振りが分るような逸話ですね!
ポン・デュ・ガール ・ ローマ期の美しい水道橋
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461110527.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461110527.html
橋の上から振り返り、水道橋のまっすぐ行きつく先に扉が見えますね、
あそこは鉄柵の扉になっていたので、あの奥に貯水槽があったのかも!

橋の上、チェーザレ・バッティスティ通りから見下ろす観光客。

日陰まで戻って来て眺めていると、植木鉢を抱えた若者達が坂道をゆっくり
上ってくるのが見え、近づくにつれ、一人の半パンがひどく下がっているのに
気が付き、ははは、待つshinkai!

ほらね、ははは、せめて黒パンを穿くべきだよぉ、きみぃ!

という事で、最後にもう一度眺め、

アルコ・エトルスコに向います。 坂道の脇には、こんな古い建物類が続き、

貼ってあったポスターが可笑しく、
「33年度全部豚肉祭り」 サンテネアの町 4月24日と5月3日。

いかにも肉喰らい人種用ポスター、と思われません?! ははは。
あ、サンテネアという町はペルージャの南14kほどに。
アルコ・エトルスコ・エトルリア人の造ったアーチ・門、またはアウグストのアルコと
呼ばれるこの素晴らしい街の門を、まだ見た事がなく出かけたのでしたが、
裏側から近づいて見る素敵な石組み、大きな丸みを帯びた石組みが
なんとも素晴らしい迫力と美しさでまず驚き!!
なんとも素晴らしい迫力と美しさでまず驚き!!


門の外からの全体の眺め。

ペルージャの街には7つのエトルスク門があるのだそうで、これはその内のひとつ、
建設は紀元前3世紀の半ば。 それを紀元前40年に、この街との戦争に勝った
アウグスト・Augusto、初代ローマ皇帝が改修し、で、名を2つ持つわけですね。
建設は紀元前3世紀の半ば。 それを紀元前40年に、この街との戦争に勝った
アウグスト・Augusto、初代ローマ皇帝が改修し、で、名を2つ持つわけですね。
アーチの上に、AVGVSTA PERVSIAと見えますが、これは昔はUの字にもVを
使っていたからで、その上にCOLONIA VIBIAと見えるのは、後の皇帝ヴィビオ・ガッロ・
Vibio Teodoriano Galloが紀元後251~253頃に付け加えた物と。
使っていたからで、その上にCOLONIA VIBIAと見えるのは、後の皇帝ヴィビオ・ガッロ・
Vibio Teodoriano Galloが紀元後251~253頃に付け加えた物と。

門の左に見えるこの台形の塔とロッジャは、ルネッサンス期に加えられた物だそう。

門の右に回ると、やはり下側はエトルリア人の石組みが見て取れます。

ぐるっと右回りに、チェーザレ・バッティスタ通りが行き、街の眺めがこんな風に。

また中心に戻りお昼を食べ、中心のコルソ・ヴァンヌッチを南に。
北向きにドゥオーモを。

バス停のあるイタリア広場・Piazza Italiaの先に、お高そうなホテルがあり、
その前にこのおベンツ!

先に覗いた若者2人がおお!と喜ぶので何かとshinkaiも、勿論ね!

お天気が良すぎて反射であまりよく見えませんがぁぁ、
なんとダッシュボードが木製だったのでありましたぁ!!
なんとダッシュボードが木製だったのでありましたぁ!!
高台にある街の南端にあるのが、パオリーナ要塞・Rocca Paolina.
16世紀に教皇領となったペルージャの街に1543年に建設の要塞、
教皇の権力を示す大きな要塞だったのですが、1860年に破壊され、
16世紀に教皇領となったペルージャの街に1543年に建設の要塞、
教皇の権力を示す大きな要塞だったのですが、1860年に破壊され、
現在はこの中にエスカレーターが何層にも付き、下の町への連絡道となっていて、
これはもうエスカレーターを降りてからだったと思いますが、
こんな感じの細い通路や、広い街中のような場所もあり、
こんな感じの細い通路や、広い街中のような場所もあり、


今前を行くカップルは、鉄柵の向こうに彼が牢獄に収監、式に入り、ははは、
写真を撮って喜んでおりましたぁ。
写真を撮って喜んでおりましたぁ。

という、ペルージャのちょっぴり訪問でした。
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