先々回にラツィオ州にあるセルモネータ・Sermonetaの町をご案内しましたが、
今回はこの町にほぼ完璧な姿で残るカエターニの城・Casello Caetaniと
呼ばれる中世からの城塞見学のご案内を。
今回はこの町にほぼ完璧な姿で残るカエターニの城・Casello Caetaniと
呼ばれる中世からの城塞見学のご案内を。
写真はサイトから拝借の城の形が良く分かる物で、主塔・マスキオ・Maschio
と呼ばれる塔が見える左に、張り出したテラス状の物が見えるのにご留意を。
と呼ばれる塔が見える左に、張り出したテラス状の物が見えるのにご留意を。

で、左下に見える低い張り出し部が、城への入り口部。
町の中心にあるコムーネ広場から上り道を辿り、このアンニバルディ門をくぐり、
さらに小路を上って行くと、
さらに小路を上って行くと、

右手に城が現れ、この部分は主塔の手前の館部分で、一番上に主塔の
てっぺん部分が覗いています。
てっぺん部分が覗いています。

ここが城の入り口、切符売り場。

入り口を入ると草地の小広場・オルミ広場があり、 そこから折り返す感じで
城内部への入り口にかかりますが、
これは切符売り場の先から見上げる、最初の跳ね橋。

最初のオルミ広場から見る城への入り口ですが、下から見上げた最初の跳ね橋は
この門の手前で、鎖が見えますか?

跳ね橋の上から見る平野の眺め。 写真では分かり難いのですが、遥かに海が!

そして左に折れる形で、2つ目の跳ね橋があり、

それを渡ると城の中庭に出ますが、分かり易い様に上から撮った写真でご説明を。
2つ目の跳ね橋を渡ると、内庭の手前左隅に出て来て、正面に見えるのが
枢機卿の家・Casa dei Cardinaleと呼ばれる建物。
枢機卿の家・Casa dei Cardinaleと呼ばれる建物。

カエターニ城と呼ばれるこの城ですが、13世紀、当時の教皇からこの一帯を
領土に預かったアンニバルディ一族が建設した物で、
現在も残る主塔マスキオ、高さ42mと、それに付随している小さい塔・マスキエットを
主とした完全に中世の戦闘的要塞。
それが1297年、当時経済的危機に陥っていたアンニバルディ家から、教皇になった
ボニファーチョ8世の甥ピエトロ2世カエターニが、セルモネータと近接の土地を
14万フィオリーニ金貨で、既に庭園をご案内したニンファの土地を20万フィオリーニで
買い取ります。
http://italiashio.exblog.jp/23182212/
建物も増設、この地をカエターニ家の本拠とし、着々と勢力を伸ばしますが、
1492年ボルジャー家のアレッサンドロ6世が教皇に選出されると、
1499年カエターニ家は破門措置を受け、財産も特権も没収され、
ボニファーチョ8世の甥ピエトロ2世カエターニが、セルモネータと近接の土地を
14万フィオリーニ金貨で、既に庭園をご案内したニンファの土地を20万フィオリーニで
買い取ります。
http://italiashio.exblog.jp/23182212/
建物も増設、この地をカエターニ家の本拠とし、着々と勢力を伸ばしますが、
1492年ボルジャー家のアレッサンドロ6世が教皇に選出されると、
1499年カエターニ家は破門措置を受け、財産も特権も没収され、
この城はボルジャー家の手に渡り、以前にも増し軍事色の濃い配備がなされ、
城壁を完璧にし、主塔の上部にあった教会を潰し、1400年代からそこに埋葬の
カエターニ家の領主の墓も潰し、
後世1536年に神聖ローマ皇帝カルロ5世が、騎馬千頭、歩兵4千をもっても
落とす事ができなかったという要塞城に。
城壁を完璧にし、主塔の上部にあった教会を潰し、1400年代からそこに埋葬の
カエターニ家の領主の墓も潰し、
後世1536年に神聖ローマ皇帝カルロ5世が、騎馬千頭、歩兵4千をもっても
落とす事ができなかったという要塞城に。
きっと城の軍事的改造にはチェーザレ・ボルジャーも来て、あれこれ実際の指揮を
取ったに違いなく・・、と、あれこれ想像が広がります、はい。
で、上の写真のご説明に戻りますが、この正面に見える「枢機卿の家」というのが、
ボルジャー家がここに居た短期間・約5年間、アレッサンドロ6世の死1503年まで、
彼らが唯一建設した住居で、ここにはかのルクレツィア・ボルジャも住んだ事があったと。
取ったに違いなく・・、と、あれこれ想像が広がります、はい。
で、上の写真のご説明に戻りますが、この正面に見える「枢機卿の家」というのが、
ボルジャー家がここに居た短期間・約5年間、アレッサンドロ6世の死1503年まで、
彼らが唯一建設した住居で、ここにはかのルクレツィア・ボルジャも住んだ事があったと。
そして1504年、教皇ジューリオ2世によりカエターニ家に戻され、
内庭の南側はこんな感じで、枢機卿の家の斜めの位置に2棟の建物があり、

14世紀にカエターニ家がここに住み始めて建設、拡張した物で、
見える左側の建物に、フレスコ画の描かれた部屋があり、
見える左側の建物に、フレスコ画の描かれた部屋があり、
内庭の西を占める形でこの建物があり、そして塔への入り口階段。

広場真ん中にある大きな井戸は、高所にあるのを配慮した天水利用の井戸なんだそう。
主塔マスキオと小塔マスキエット、そして右下に第2の跳ね橋からこの内庭に続く
アーチの入り口が見え、塔の左に主塔への階段上り口が。

塔の上部と、

塔への階段上り口。

見学は内庭の東側に見えた「枢機卿の家」からで、これは壁にあったカエターニ家の紋。

内部はとにかく広い広い部屋が3つ、だったっけ?あり、余りにも整備され過ぎ、
写真の撮りようもなく・・!
写真の撮りようもなく・・!



壁にはかってこの城を訪れた客人たちの落書き、作曲家であったカエターニ家の
一人の五線譜の音符などもありましたが・・。
一人の五線譜の音符などもありましたが・・。
建物を出て、城郭の東南角に当たる部分。ここの角部分が崩壊した廃墟部と
なっていて、その幾何学的ともいえる形態に、光が射し込む様子に魅せられました!


石畳の下り阪を行き、左に折れると、

先頭は今回の旅のガイドさん、元気で美人のリンダさん。
内庭からの下り道を振り返るとこんな様子で、

城の東南角の崩壊部分。

ここには小麦を挽く、碾き臼の部屋があったそうで、挽石等も地面に見られましたが、
上階は多分居室だったのでしょう、暖炉の名残も見えます。
17世紀になり、平野を通るアッピア街道も再開発されると、カエターニ家も
平野部に一族の本拠を移し、この城は放置され、18世紀、スペイン軍、フランス軍の
略奪破壊にも遭い、19世紀には軍や農作物の倉庫代わりに貸し出されたりもし、
漸くに19世紀の末になり、カエターニ家が修復を始めたのだそう。
平野部に一族の本拠を移し、この城は放置され、18世紀、スペイン軍、フランス軍の
略奪破壊にも遭い、19世紀には軍や農作物の倉庫代わりに貸し出されたりもし、
漸くに19世紀の末になり、カエターニ家が修復を始めたのだそう。
で、先ほどの石段の下りの先には、
これは入り口部分を逆に見ていますが、

ここに厩舎があり、

この小さなアーチ部分、これは古いのが残された物と思いますが、
ここに秣を置いたと見られ、

片側に20、つまり20頭、全部で40頭の厩舎だそう。
ここにずらっと駿馬40頭が並んでいる姿をご想像あれ!
かっての栄光時は、きっと煌びやかなものだったでしょうね。
かっての栄光時は、きっと煌びやかなものだったでしょうね。
この厩舎は映画の撮影にも使われ、10年ほど前まではここで室内楽の
コンサートも行われたのだと。
コンサートも行われたのだと。
細長い厩舎の突き当りを出ると、この右の壁は周囲を囲む城壁で、
この内側の広場で馬の毛をすいたりしたのだと。

石段道を戻り、奥に見える建物の奥の扉から入りますが、

建物の壁の装飾が単純にフレスコ画と思っていたのが、
少し削っているのにも気が付き・・。

建物の端には台所がありましたが、そっけないほど台所仕事を想像させる物もなく、

単に大きな大きな吹き抜けの煙突!

ここでは城内の兵士すべての食事を賄うのではなく、
貴人達のみの食事を作っていたのかも、と。
貴人達のみの食事を作っていたのかも、と。
隣の建物の入り口から入ると、ここは大広間で、「狩の部屋、または男爵の部屋」と
いう部分と思いますが、大宴会なども開かれた部屋と。


仲間が一緒で部屋の写真が撮れず、上のはサイトから拝借で、
右奥に見える扉から入ると、
客人用の寝室が2部屋あり、ピンタの部屋と呼ばれる15世紀後半の
フレスコ画装飾された部屋で、



主題は伝説的、神話的なもので、画家はピントリッキオ派の無名画家だそうですが、
絵として余り上等とは思えず、これでピントリッキオ派なんて言ったら、
師匠が泣くのではないかと、ははは。
絵として余り上等とは思えず、これでピントリッキオ派なんて言ったら、
師匠が泣くのではないかと、ははは。
古いまま残った窓際の席と、

出窓の天井にあったカエターニ家の紋。

1つの出窓から町の姿が見えました!
飛び出している鐘楼は、サンタ・マリーア・アッスンタ聖堂のもの。


これは南西に見えた教会で、コムーネのサイトで分かったのは、
サン・フランチェスコ教会と元の修道院。13世紀頃からの古いものだそうですが、
今見えるのは15世紀の物と。

建物を出て、主塔に上るべく移動しますが、

内庭越しに見る北の城壁。 最初に内庭に入ってきた時も、この城壁の威圧感が
凄かったですが、壁の厚さは3mもあるのだそう。

上のメルレット・レース飾りと呼ばれる凸凹も、ボルジャー時代の改造だそうで、
この上の歩哨の見張り道を、後ほど歩きましたぁ!
この上の歩哨の見張り道を、後ほど歩きましたぁ!
右が塔で、左が建物に沿った外階段で、今見える渡り橋は
かっては跳ね橋だったのだそう!
かっては跳ね橋だったのだそう!

で、塔との間の隙間部分は、こんな感じの深さ!で、
足の悪い方、高所に弱い方は下で待つように、と言われ。

多分、かってはここにも床が在ったのだろうと想像しますが、
窓越しの遥か向こうに、海が見えましたぁ!

一旦小塔の部屋に入ると書斎があり、主塔の中に、代々の領主達の寝室が
そのまま残されており、この天蓋つきベッドも、オリジナルなんですと!


つまりこの領主の部屋に至るには3つの跳ね橋を通る訳で、この部屋から
外のテラスに出るにも、跳ね橋が在るのだと。
テラスに出ましたが、跳ね橋には気がつかずでしたぁ!
小塔の方にある書斎は、20世紀の始め、この城の修復に取り掛かった
ジェラージオ・カエターニ・Gelasio Caetaniが使っていたそうで。
ジェラージオ・カエターニ・Gelasio Caetaniが使っていたそうで。
これは部屋の隅にあった暖炉で、如何にも古い作りでしょう?

ちょっと脱線しますが、あれこれ写真を調べたりしていて、このセルモネータの
カエターニ家の最後の人々の写真も見付かり、
カエターニ家の最後の人々の写真も見付かり、
おまけになんと、母親のアーダと一緒にニンファの庭園作りに取り掛かった
ロッフレード、彼の名が現在の財団の名に残りますが、
その兄の15代セルモネータ公爵レオーネの妻ヴィットーリア・コロンナ、
ローマ貴族コロンナ家の名を引く様ですが、
彼女と当時の未来派画家ウンベルト・ボッチョーニとの2ヶ月間に渡る秘密の、
いや、秘密ではないですね、ばれて別居になったようで! 情事なども知りましたぁ。
なぜ2ヶ月だったか、つまり彼が落馬して亡くなったのだそうで。
いや、秘密ではないですね、ばれて別居になったようで! 情事なども知りましたぁ。
なぜ2ヶ月だったか、つまり彼が落馬して亡くなったのだそうで。
「カエターニ」で検索していて素晴らしく美しい婦人の写真が見付かり、
それからずるずると芋蔓式にたどり着いたのでしたが、あれこれ詳細記事が見付かり、
ははは、が、いまだしっかり読んでおらずで、暫くひっそり楽しめそうです、うひひ。
それからずるずると芋蔓式にたどり着いたのでしたが、あれこれ詳細記事が見付かり、
ははは、が、いまだしっかり読んでおらずで、暫くひっそり楽しめそうです、うひひ。
さて本題に戻り、ここが領主の寝室から跳ね橋で出る主塔から張り出したテラス。

つまりこのテラスまでは敵が上って来れても、跳ね橋があるので領主の寝所には
入れない事になりますが、味方の謀反程度ならいざ知らず、本当に大群の敵に
取り囲まれた場合、塔の中に引きこもり無事であっても、兵糧攻めになったら?!
これが城壁の上の見張りのパトロール道、広いでしょう?!

一番東端まで行き、間から見晴らす北の眺め。

そして狭い階段で潜り込んだ、城壁の壁の厚みの間をくり貫いたトンネルの
パトロール道。 ここを逆行きに戻り、

階段を下り、2つ目の跳ね橋の脇、つまり内庭に出るアーチの横に出て来て、
7世紀間を生き残ってきた城塞見学がお終いに!

我々見学者に公開されている部分はこんな感じですが、
この方角からの城の写真に見える、周囲を取り囲む城壁の上、またこの南面に
見える建物上階に続くテラスなど、きっとずっと兵士の見回り道があり、
今も上れるのだろうと。

いやぁ、如何にも堅固な中世の城という感じで、華麗さは無いものの興味深かった。
ニンファの庭園に行かれる方、お近くにお出かけの方、
可愛い小さな町の散策と共に、お城見物も是非どうぞ!!
可愛い小さな町の散策と共に、お城見物も是非どうぞ!!
◆ おまけ ◆
町のご案内の時に、「ロカンダ・ボニファーチョ8世」という宿とレストランの表を見て、
中はどんなのかと思ってましたら、写真を1枚見つけましたので、どうぞ。
町のご案内の時に、「ロカンダ・ボニファーチョ8世」という宿とレストランの表を見て、
中はどんなのかと思ってましたら、写真を1枚見つけましたので、どうぞ。

階段の段差が少し複雑に入り込んでますが、如何にも中世風な趣でしょう?!
町の S.M.アッスンタ聖堂・セルモネータ については
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20160618-1.html
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