ヴィテルボの街のご案内も今回が最後! 中世が盛りだくさんに残っている
ヴィテルボの街ですが、
その中でも大変興味深くもあり、はたまたご案内が面倒な、はは、失礼、
歴史に残る長~い教皇選出が行われた街でもあり、
現在も使われるコンクラーヴェ・conclaveという言葉が生まれた街。
ヴィテルボの街ですが、
その中でも大変興味深くもあり、はたまたご案内が面倒な、はは、失礼、
歴史に残る長~い教皇選出が行われた街でもあり、
現在も使われるコンクラーヴェ・conclaveという言葉が生まれた街。
教科書的、無味乾燥な歴史の記述はshinkai本人が苦手ですので、
何とか分りやすくご説明を、でもなるべく正確詳細に、をモットーに、ははは、
取り組んでみますので、宜しくお願いいたしま~す!
何とか分りやすくご説明を、でもなるべく正確詳細に、をモットーに、ははは、
取り組んでみますので、宜しくお願いいたしま~す!
写真はサイトから拝借の、上から見たサン・ロレンツォ広場の様子。

左側に鐘楼と共に見えるのが、街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂で、
右奥に長く続くのが、パラッツォ・デイ・パーピ・Palazzo dei Papi・
13世紀に教皇庁が30年ほど、ローマからこちらに移っていた本拠地。
教皇様の事をイタリア語でパーパ・Papaと呼びますが、(父親を呼ぶパパ・papàの
場合は終わりのaにアクセントが) 約30年間の間に、9人の教皇が
このヴィテルボに居られたので、複数形でパーピ・Papiとなる訳ですね。
場合は終わりのaにアクセントが) 約30年間の間に、9人の教皇が
このヴィテルボに居られたので、複数形でパーピ・Papiとなる訳ですね。
上の写真の左下にちょっと見える、サン・ロレンツォ広場の北西角、ドゥオーモの
左手前にあるヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタの家・Casa di Valentino
della Pagnotta、13世紀建設の、典型的な中世の邸宅なのだそう。

名を残すヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタという人物は、1458年に
町の執政官に選ばれたと記録に残る、農業の財産家だったのだそう。
大きなアーチを持つ美しくエレガントな家ですが、何度か改装されたり、
第2次大戦の爆撃の後にも、元々の姿に再建されたものなんだそう。
第2次大戦の爆撃の後にも、元々の姿に再建されたものなんだそう。
さて、サン・ロレンツォ聖堂の美しい鐘楼、これは12世紀のオリジナルで、
2つ並んだ窓と、白と青灰色の縞模様。

聖堂は、この場所に7世紀に遡る小さな教会があった後に建設された物で、
現在、聖堂の内部は建設時12世紀のロマネスク様式ですが、
正面はご覧のように16世紀に改装された姿。

聖堂内部の、天井も側廊アーチも床も全部見えるのをサイトから拝借し、

柱頭飾りもなかなか興味深いのがあり、


天井の梁装飾が興味深く、なんと書いてあるのか読めると良いのですが。



床模様がコズマ式! 綺麗に残っているでしょう? 好きなのです、これが。



右下の平面図をどうぞ、と言うのも、16世紀に教会の正面を改装したのと同様、
内部左右の側廊の壁を開け、10の礼拝堂を造ったのですね。
これで壁の以前のフレスコ画が失われ、
内部左右の側廊の壁を開け、10の礼拝堂を造ったのですね。
これで壁の以前のフレスコ画が失われ、

17世紀には内陣を深くする改装が行われ、図に見える突出した部分で、
この聖堂も第2次大戦の爆撃でやられた部分の修復時に、出来るだけ元の
ロマネスクの形に復元され、
現在は聖堂内からは突出した内陣部も見えませんが、隣のパラッツォ・デイ・パーピ
内部見学と共に、聖堂横の博物館受付に申し出ると見学できるとの事。
内部見学と共に、聖堂横の博物館受付に申し出ると見学できるとの事。
これは聖堂内に残っていた数少ない壁画。

パイプ・オルガン。 これは20世紀後半の物と。

16世紀に教会正面をルネッサンス様式に変えた人物の名が、正面に彫り込まれており、

IO FRANC CAR DE GAMBARA、つまり、Io Francesco Cardinale Gambra
我フランチェスコ枢機卿ガンバラ で、
バニャイアのヴィッラ・ランテを造ったと同じ人物、あのヴィッラの東屋にも同じ彫りが
残されていましたが、こういう場所には、教会の名とか神に捧げる献辞とかが
あるものと思い込んでいたので、これを知った時には少し驚き! この顕示欲!!
ガンバラ(1533-1587)は1568年から80年までヴィテルボの司教を務めており、
教皇ピオ5世の下に、異端審問にも確固たる信念を持って働いたという、
ちょっと怖い人物であったのも知ると・・、
まぁ、俗世間から離れ、ゆったり寛げるお庭も欲しくなりますわな。
残されていましたが、こういう場所には、教会の名とか神に捧げる献辞とかが
あるものと思い込んでいたので、これを知った時には少し驚き! この顕示欲!!
ガンバラ(1533-1587)は1568年から80年までヴィテルボの司教を務めており、
教皇ピオ5世の下に、異端審問にも確固たる信念を持って働いたという、
ちょっと怖い人物であったのも知ると・・、
まぁ、俗世間から離れ、ゆったり寛げるお庭も欲しくなりますわな。
ヴィッラ・ランテ ・ ラツィオ州バニャイア
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467881855.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467881855.html
これは聖堂の脇壁だったと思うのですが、ここにも見つけたガンバラ枢機卿の紋章!
上につばの広い枢機卿の帽子が見え、下に鷲と海老の彼の紋章。

ここヴィテルボには、カンタベリーからローマに至る中世巡礼の道、
ヴィア・フランチージナ・Via Francigenaが通っていた、と言う小さな標識が右に。
ヴィア・フランチージナ・Via Francigenaが通っていた、と言う小さな標識が右に。
モンテリッジョーニ ・ 市壁と、中世巡礼街道の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462678404.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462678404.html
聖堂正面、張り出した脇壁にあった小さな薔薇窓。

サイトから拝借の写真で、 聖堂とパラッツォ・デイ・パーピの間の様子。

右手前に見える階段は、パラッツォ・デイ・パーピの入り口階段で、
奥が司教座、教皇庁の本部でもあり、住居区でもあった建物類。
聖堂、そしてパラッツォ・デイ・パーピの間に広がる広場の石畳。

広場の奥に広がるパラッツォ・デイ・パーピと、正面部。


写真は2度の訪問で撮ったものの良い方を使っていますので、
陽射しの様子が違うのはご勘弁を。
階段上部と扉、そしてテラスへの入り口部、そして扉上のライオン像。


正面階段の下はこんな風になっており、建物裏側を通る道が奥に見えるアーチの
下を通り、ここ迄着いているのですね。

階段の上にある円柱の下に見える横縞の紋章にご注目を。
そして建物に続いてあるテラス、ロッジャ・開廊と呼ばれる部分、その上部のアップ。


アップにもしっかり見える横縞の紋章。これは街のご案内にも出たガッティ家のもので、
そうなんですね、このガッティ家の当時の当主、ラニエーロ・ガッティ・Raniero Gatti、
街のカピターノ・デル・ポーポロ・行政官でもあった彼が、パラッツォ・デイ・パーピ
そうなんですね、このガッティ家の当時の当主、ラニエーロ・ガッティ・Raniero Gatti、
街のカピターノ・デル・ポーポロ・行政官でもあった彼が、パラッツォ・デイ・パーピ
を造り、教皇庁をローマからヴィテルボに移すために働いたのですね。
つまり1254年に教皇即位のアレッサンドロ4世からの内意を受け、以前からあった
司教庁を拡張したりの設備が整うと同時に1257年、教皇庁がこの街に移転した、
という訳で、ロッジャは1267年にやはりラニエーロ・ガッティにより建設された物。
司教庁を拡張したりの設備が整うと同時に1257年、教皇庁がこの街に移転した、
という訳で、ロッジャは1267年にやはりラニエーロ・ガッティにより建設された物。
ガッティ家は当時のイタリアを揺るがせていた教皇派・グエルフィと皇帝派・ギベッリーニの
対立の中にあって、ヴィテルボの教皇派の大物。 穀物の取引と金融業からの
莫大な富を持ち、「ヴィテルボの最初の銀行」と定義付けされているほどだそう。
対立の中にあって、ヴィテルボの教皇派の大物。 穀物の取引と金融業からの
莫大な富を持ち、「ヴィテルボの最初の銀行」と定義付けされているほどだそう。
正式には「祝福の為のロッジャ」という、教皇様がここにお出ましになり、広場の庶民に
祝福を与える為のロッジャですが、内部から見る広場はこんな感じ。

現在残っているのは、広場に向いた側だけで、天井屋根部分もありませんが、
建設当時は奥の谷に面した壁、そして天井部分もあったのが、1325年に崩れ落ち、
それ以降この姿なのだと。
まぁ、この美しい2重になった円柱の並びと、三つ葉飾りのアーチだけでも、
よくぞ残ってくれた、と思えますですね。
よくぞ残ってくれた、と思えますですね。
そしてこのロッジャ内にも泉。

左上の平面図をご覧下さいね。 階段に続いての右のロッジャ部分と、左の大きな
細長い部屋、ここは教皇がお出ましの、いわゆる応接議会室だったのが、
歴史に残る長~い教皇選出、33ヶ月!!が行われた舞台とされ、

見学できていた様ですが、細長く大きな明るい部屋、両側に6つの窓、
と言うだけで何も無い部屋。

歴史に語られる長~い教皇選出というのが始まったのは1268年11月の末の事で、
1271年9月までの1006日もかかったのですね。
1271年9月までの1006日もかかったのですね。
前の教皇クレメンテ4世が、寝室の(書斎という説も)天井穹窿部が落ち亡くなった
後の事で、こんなにも長くかかったのは、ひとえに選出選挙の為に集まった19名の、
一人はフランス王に従いチュニジアに行っており欠席、
枢機卿たちが、いわば教皇派、皇帝派と二分し、当時は教皇選出には枢機卿の
3分の2の投票が必要だったので、妥結点を見出せなかった事によりますが、
後の事で、こんなにも長くかかったのは、ひとえに選出選挙の為に集まった19名の、
一人はフランス王に従いチュニジアに行っており欠席、
枢機卿たちが、いわば教皇派、皇帝派と二分し、当時は教皇選出には枢機卿の
3分の2の投票が必要だったので、妥結点を見出せなかった事によりますが、
街中に滞在し、1日に1度サン・ロレンツォ聖堂に集まり投票がくり返されるのみで、
1年近くたっても結果が出ないのに怒ったのはヴィテルボ市民達。
もてなし費用は当時は市民が持っていたので、ははは、勿論怒りますよね。
ここにラニエーロ・ガッティが乗り出し、枢機卿達を心地よい滞在住居から引き離し、
パラッツォ・デイ・パーピに閉じ込め、食料の差し入れもパンと水だけ!にし、
遂には屋根を引っ剥がし、風雨も流れ込む状態にした、と言う!
1年近くたっても結果が出ないのに怒ったのはヴィテルボ市民達。
もてなし費用は当時は市民が持っていたので、ははは、勿論怒りますよね。
ここにラニエーロ・ガッティが乗り出し、枢機卿達を心地よい滞在住居から引き離し、
パラッツォ・デイ・パーピに閉じ込め、食料の差し入れもパンと水だけ!にし、
遂には屋根を引っ剥がし、風雨も流れ込む状態にした、と言う!
鍵で部屋に閉じ込めたので、clausi cum=con clave・コンクラーヴェ、
ここに初めて、教皇選出に今も使われる言葉の登場、となります。
ここに初めて、教皇選出に今も使われる言葉の登場、となります。
現在の研究者によると、この屋根も引っ剥がした部屋に監禁は、約3週間続き、
その後はパラッツォ・デイ・パーピ内の部屋に住まう事が許されたと言いますが、
やはり建物内監禁で、選挙中に19名のうち2名の枢機卿が亡くなり、
17名になっても、それでもまだ枢機卿たちは頑張ったのですねぇ! ははは。
その後はパラッツォ・デイ・パーピ内の部屋に住まう事が許されたと言いますが、
やはり建物内監禁で、選挙中に19名のうち2名の枢機卿が亡くなり、
17名になっても、それでもまだ枢機卿たちは頑張ったのですねぇ! ははは。
屋根を引っ剥がすと言う思い切った行動に出たのも、枢機卿の一人が機知で、
こういう部屋には、神の意思も届きにくいね、と言ったのが、
通り易くする為にインスピレーションを与えたのだと、ははは。
こういう部屋には、神の意思も届きにくいね、と言ったのが、
通り易くする為にインスピレーションを与えたのだと、ははは。
所でコンクラーヴェの行われたのは、上でご覧頂いた大部屋という事だったのですが、
2014年末から公開されている、このサーラ・グワルティエーロ・Sala Gualtiero、
美しくフレスコ画で装飾された部屋で、上でご覧の大部屋に続いてあるのだそうで、
ここが実際に13世紀のコンクラーヴェが行われた部屋ではないかと。
美しくフレスコ画で装飾された部屋で、上でご覧の大部屋に続いてあるのだそうで、
ここが実際に13世紀のコンクラーヴェが行われた部屋ではないかと。

広さは約200平米、20名弱の枢機卿達が集まって協議する、投票するには
ちょうど良い大きさで、 何よりも早急な修理が望まれるこの部屋は、
天井からの雨漏りの為に破壊されているのだそうで! 成る程ぉ!!
ちょうど良い大きさで、 何よりも早急な修理が望まれるこの部屋は、
天井からの雨漏りの為に破壊されているのだそうで! 成る程ぉ!!
こうして約33ヶ月を費やし、選出された教皇はグレゴーリオ10世、
俗世名をテダルド・ヴィスコンティ・Tedaldo Visconti、ピアチェンツァの貴族出身で、
かのミラノ大公ヴィスコンティ家の支流であるともないともの方で、
ただ彼の精神の正しさと正直さが大変に評価されていた、聖職者の位置としては
最下の、司祭でもなかった方!
選出選の間にも、指名され驚いて逃げ出した候補者、辞退した候補者もいた様で、
彼は呆然としながらも遂に受託し、1272年3月27日に即位。
後にこの方は教皇選出に付いての新しい法則に付いても、発布されたと。
彼は呆然としながらも遂に受託し、1272年3月27日に即位。
後にこの方は教皇選出に付いての新しい法則に付いても、発布されたと。
所でヴィテルボに教皇庁が置かれていたのは約30年間と短く、が、その間の教皇は
9人と多く、まぁ、年を取って教皇になられるのが多いので必然そうなるのかもですが、
以下にヴィテルボでの教皇様の一覧を。
・アレッサンドロ4世 1254年から61まで在位 ヴィテルボには1257年から
1199-1261 選出時55才 没62才
・ウルバーノ4世 在位1261-1264 ヴィテルボとオルヴィエートを行ったり来たり
1195-1264 選出時66才 没69才
・クレメンテ4世 在位1265-1268 殆どヴィテルボに 1195-1268
選出70才 没73才
・グレゴーリオ10世 在位1271-1276 実際には約1ヶ月間ヴィテルボに居たのみ
1210-1276 選出61才 没66才
・インノチェンソ5世 1276年1月選出 6月没! 約半月間ヴィテルボに
1225-1276 選出51才
・アドリアーノ5世 1276年7月選出 8月没! 殆どヴィテルボの修道院に
1205-1276 選出71才
・ジョヴァンニ21世 1276年9月選出 1277年5月没 殆どヴィテルボ
1215-1277 選出61才 没62才
・ニッコロ3世 在位1277-1280 ヴィテルボとローマ、そしてソリアーノ・
ネル・チミーノ 1216-1280 選出61才 没64才
・マルティーノ4世 1281年2月選出後、すぐにヴィテルボから教皇庁を撤退
1210-1285 選出71才 没75才
なんとまぁ、3人の教皇様が数ヶ月で亡くなっていますねぇ! 悪口を言うと、
そう先が長くなさそうだから、というので選ばれた、という話もあるそうで、はい。
所で長期間かかったグレゴーリオ10世選出の際の枢機卿17名ですが、
その中の4名が後に教皇になられていて、このリストの中のアドリアーノ5世、
マルティーニ4世も長い教皇選出に加わった方。
・マルティーノ4世 1281年2月選出後、すぐにヴィテルボから教皇庁を撤退
1210-1285 選出71才 没75才
なんとまぁ、3人の教皇様が数ヶ月で亡くなっていますねぇ! 悪口を言うと、
そう先が長くなさそうだから、というので選ばれた、という話もあるそうで、はい。
所で長期間かかったグレゴーリオ10世選出の際の枢機卿17名ですが、
その中の4名が後に教皇になられていて、このリストの中のアドリアーノ5世、
マルティーニ4世も長い教皇選出に加わった方。
枢機卿というのは、司教叙階の位の中から教皇が選ばれる方々で、
教皇に継ぐ位階というか、現在は新しい教皇は枢機卿の中からが自然で、
その数も現在は過去最高の230名くらい居られるとか!
教皇に継ぐ位階というか、現在は新しい教皇は枢機卿の中からが自然で、
その数も現在は過去最高の230名くらい居られるとか!
教皇選挙は現在も完全秘密必須のコンクラーヴェではありますが、
80歳以上の枢機卿は、教皇非選出との事。
80歳以上の枢機卿は、教皇非選出との事。
現在では、世界10億人を超えると言うカトリック信者の頂点に立つ教皇様として、
政治的にはともかく、厳然と大きな影響力をお持ちと思うのですが、
中世のこの時代、政治的にも権力を持っていたいわば領主の立場でもあり、
勢力権力争いの真っ只中で、大変だったんだろうな、との感想も。
この後ヴィテルボの街に教皇庁が戻る事は無く、当時の繁栄は廃れ、
ラツィオ州内でも常に2流の立場に甘んじたと。
ラツィオ州内でも常に2流の立場に甘んじたと。
ロッジャからは背後の眺めが大変素晴らしく、北に広がる街並みや、
旧市街を囲む城壁も見え。


これはパラッツォ・デイ・パーピの背後からの眺めで、間の谷をファウルの谷・
valle FAULと言い、まさに要塞の趣きも。 素晴らしい威容でしょう?!


ファウルの谷のこちらには大駐車場があり、緑地で若者達が遊ぶ姿も。

あれこれどこかまだ書く事が不足している気もするのですが、これで一応
今回のヴィテルボのご案内をお終いとし、
皆様、長いお付き合い有難うございました!!
最後は、サイトから拝借の写真で、サン・ロレンツォ聖堂の夕景と、
パラッツォ・デイ・パーピの夜のイルミネーションをどうぞ!
パラッツォ・デイ・パーピの夜のイルミネーションをどうぞ!


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