・ n.2 ヴィテルボ ・ サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸

中世13世紀に、短いながらも教皇庁が置かれたヴィテルボの街。
当時一番の繁栄期を迎え過ごし、旧市街は今もその建物雰囲気を保ちますが、
 
今日は750年前からずっと毎年9月3日の夜に行われる「サンタ・ローザの大灯明」の
行進について、これはまるで知らずにおりましたが、あれこれ知るとその規模の大きさ、
市民の熱中さにいささか驚きましたので、ご案内を。

この写真がその大灯明で、高さ30m、重さ5トンの大灯明が、街中の明かりを
全部消した暗い道を、100人もの男達の肩に担がれ、運ばれるのです!

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この大灯明はマッキナ・ディ・サンタ・ローザ・Macchina di Santa Rosaと呼ばれ、
マッキナというと一般に機械とか車とか指しますが、
教会用語で「聖像を運ぶ山車」の意味もあると知り、納得です。



この大灯明についてどう知ったかと言うと、偶然に小路を入って行き見つけた扉
「サンタ・ローザの家・Casa di Santa Rosa」で、扉に見える張り紙見学時間案内。

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サンタ・ローザなる人物も知らず、調べ、13世紀前半に生きたフランチェスコ会派の
尼僧であった事、僅か18歳で亡くなっていますが、
皇帝派(ギベリン)と教皇派(グエルフィ)の敵対する中、熱烈な教皇支持派で、
異端信仰とも戦った方で、ヴィテルボの守護聖女として愛されている事などなど。

聖女・サンタと書いておりますが、実際にはまだ列聖されておらず、
現教皇フランチェスコ様の在位間にと、運動が続いているとの事。



この家、聖所はどこにあるかと言うと、街地図の右上緑で囲って3と打っている場所に。

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という事で、今回のご案内はサンタ・ローザの大灯明の他に、地図の真ん中から左に
見えるジェズ教会・Chiesa del Gesù、そしてその左下4のファルネーゼ邸・
Palazzo Farneseを。

そして次回最後に、あれこれ新しいニュースも仕入れた、ははは、教皇邸・
Palazzo dei Papiと、サン・ロレンツォ聖堂・Cattedrale di S.Lorenzo
に分け、ご案内を計3回とする事にしましたので、宜しくお願いいたしま~す。
       

さて、大灯明の大きさ、重さは上に記した数字が標準で、というのも、
大灯明は5年毎にデザイン・コンクールによって選ばれた、新しいのが登場するからで!

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担ぐ1000人もの男達はこんな様子で、不謹慎ながら、はは、
一瞬昔のハリウッド映画「クレオパトラ」なんぞを思い出しましたぁ!



何年のかは知りませんが、こんな過去の大灯明の写真も見つけ、

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こうなると、どこを通るのか知りたくなるでしょう、皆さんも!
お陰様で今回は割とすんなり行程図も見つかりまして、ははは、

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1.のローマ門から始まり、  2.フォンターナ・グランデ広場
3.中心のブレビシート広場   4.エルベ広場(ライオンの泉のある)
5. コルソ・イターリアを通り   6.ヴェルディ広場
7.上で見て頂いたサンタ・ローザの家(聖所とされている)

750年前の1258年9月4日、この日7年前に亡くなった聖女の遺骸は、
埋葬されていた共同墓地から移動天蓋に載せられ、クララ会修道院に。
最初に見て頂いた「サンタ・ローザの家」の左手に、大きな教会があり、
そこに現在も彼女の遺骸が。

という事で、彼女の祭日は毎年の9月4日で、その前夜3日21時に大灯明が街を
練り歩く、という伝統的な宗教行事ですが、これが無形の世界遺産指定だそう!で、
その前日2日には、ファッキーノ・複ファッキーニと呼ばれる、担ぐ男達の行進と
時代衣装の行列も行われる様子。

となると実際にどんな様子なのかご覧になりたいでしょう?!
はい、あれこれ試写をし、ははは、良いのを選びましたぁ。
ローマ門からの出発。 ファッキーニが灯明の下に入り込み、
「ソッレヴァーテ・エ・フェルミ・持ち上げて、止って」の号令一過移動が始まります。
https://www.youtube.com/watch?v=SxGeCuD_pXw

プレビシーテ広場に見えてくる大灯明。そして広場で3回転!
https://www.youtube.com/watch?v=FiwMin6ocjk

真っ暗な中に、最初は屋根越しに塔の頂上のみが見え、そして道の角から
全身がするっと見えて来ると、撮影者がマンマ・ミーア!と声を上げますが、
いやぁ、shinkaiもマンマ・ミーア!と一瞬鳥肌が立ちました。
そして広場でゆるゆると3回転するのにも、わっ、2回転している! 本当は
1回転しかしないんだよ、と聞こえる間に3回転!

こちらはラツィオ州のヴィデオ、画像が綺麗で、街中の人々が熱狂して待つ様子も。
https://www.youtube.com/watch?v=uzPfBSk9rJ4

今時はどの街のお祭りも、第何週めの日曜に、とか移動するのが普通ですが、
9月3日21時、と定日定刻のお祭り、それもこの熱狂さ!
聖女の名の下に、ヴィテルボの人々が一つになる大灯明の運送です。



さて前回の続き、中心にあるプレビシート広場・Piazza del Plebiscitoから、
古い建物を眺めつつ南に辿ります。

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右に開けるジェズ広場とサン・シルヴェストロ教会・Chiesa di San Silvestro、
または広場の名のままジェズ教会と呼ばれますが、
この教会内で13世紀に、今も歴史に語られる復讐殺人が!

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まずはこの大変古い、多分紀元前のものという、美しい石造りのロマネスク教会の
正面細部をどうぞ。 正面上に帆形型鐘楼があり、左右にライオン像。

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そして正面扉上の半円には後の時代のフレスコ画。
 
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これは入り口左に掲げられた碑。 教会の設立年と名前の下に、
1271年3月13日の朝、ミサの最中に・・、と殺人事件が記されます。

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内部の写真がサイトで見つかりましたので、ご覧を。
身廊のみのいたってシンプルな小さい教会なのですが、

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ここで歴史に残る残虐な殺人が繰り広げられたのですね。

上記の通り、1271年3月13日の朝、シチリア王であるカルロ1世ダンジュー、
フランス王フィリッポ3世、イギリス王エドワード3世の甥であるヘンリー・アルメインが
列席の上、当時未だに空席のままの次の教皇の早い選出を願うミサの最中に、

ギュー・ドゥ・モンフォール・Guy de Monfort(1243-1288)と、弟シモン・Simonが
入り込み、彼らにとっては従兄弟に当るヘンリー・アルメイン・Henry Almain
(1235-1271)を、彼らの父親と兄弟の復讐に殺害したというもの。



上がギュー・ドゥ・モンフォールで、下がヘンリー・アルメイン。

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復讐劇のお話は、6年前の1265年に始まります、じゃん。
1265年の8月4日に行われたエヴァンシャム・Evenshamの戦いで、これはギュー・ドゥ・
モンフォールの父親シモン5世が率いたいわばイギリス国王に反逆する形の戦いだった様で、
イギリス歴史において重要とみなされる戦で、騎士道の戦いが終わりを告げたと
見なされるんだそうで・・。

つまりそれまでは戦いにおいて騎士・貴族が殺害されることは稀で、捕らえられ、
身代金を払えば自由になる、という形が主だったのが、

このエヴァンシャムの戦いの王党派の主となったエドワート皇太子、後のエドワード1世
イギリス国王は数においても圧倒的で厳しく、戦いの初めに裏切りにも合い壊滅的と
なっていた叛逆派であるギューの長兄ヘンリーは直に、そして父親のシモン5世モンフォールも
殺されますが、残虐にも四肢切断、死体は泥の中に引きずり込まれ、という冒涜を。

戦いに参加していたギューは捕虜となりウィンザーの城に監禁されたのを、1266年春
看守を収賄し逃げフランスに渡り、そこで戦いに参加せず逃げおせていた弟のシモンと
出会い、あちこちの戦いに傭兵として参加しながら、イタリアに辿りつきます。

トスカーナで当時副王だったカルロ・ダンジューに仕える様になり、1270年には
ソヴァーナ・Sovanaの伯爵、城主の一人娘マルゲリータ・アルドブランデスキ・
Margherita Aldobrandeschiと結婚し、2女児も。

フィレンツェでの戦いにも参加し、冷酷さを評されますが、
カルロ・ダンジューからノーラ・Nola、ナポリ近郊の領土も受け伯爵と。

そして1271年、彼らの従兄弟でもあり、イギリス王の甥でもあるヘンリー・アルメイン
(コンウォール)がヴィテルボに滞在中なのを知り、弟シモンと駆けつけミサの最中に
入り込み、祭壇にしがみつき助けを求めるヘンリーを殺害した、というもの。

彼以外にもミサを補佐していた2人が殺害されたというのですが、上の写真で
ご覧の様に、あの狭い教会の中は大騒ぎとなったでしょうが、
なぜ防げなかった、と考えていて気がついたのは、皆がまさかと仰天したのと、
多分ミサに参加というので、誰も武器を携えていなかったのではないかと。

当時ヨーロッパでも大スキャンダルとなった教会内の復讐劇ですが、
ギューは罰されず、聖なる教会内を汚した、と破門されただけ!
何年か後には破門も解け、再度カルロ・ダンジューに仕え、1283年からは
教皇軍の隊長となり、シチリア晩祷戦争に参加中の1287年捕虜となり、
メッシーナの獄で翌年に没。
       
と長々と述べましたが、ギューが結婚したマルゲリータ・アルドブランデスキについて、
ギューの没後彼女が再婚した相手、再再婚の相手、そしてまたその次と、
はぁ、余程魅力に富んだ、まぁ、領土も魅力なのでしょうが、ははは、
諦めきれずに教皇に再婚を願った男のその過去などなど、
なんとも興味深く、芋ずる式にずるずると引きづられ読みましたのです、はい。

今現在のスキャンダルは単に生臭いだけですが、はは、失礼をば、
歴史にいささかの残り香で垣間見るスキャンダルには、興味津々のshinkai!
今は残念ながら諦めて先に進みますが、ははは、いずれまたゆるゆるとお話を!



さてこのジェズ広場にも泉がありまして、これ!
いささか藻の掃除が必要なようですが、ははは。

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広場には教会に向き合う形でこんな塔、13世紀の物で
ボルゴニョーネ・Borgognoneの塔、正確ではないが約30mの高さと。

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名の由来は、1218年当時町の行政長官であったウゴリーノ・ボルゴニョーネ・ 
Ugolino Borgognoneがここに土地を持ち、住んでいたとの事ですが、
こうして見ると、今もどなたかが住んでいる様子ですね。



広場脇の、こんな古い大きな屋敷も修復されて使われており、

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傍らのドアのノブも、こんな素敵な物。

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広場の奥、端の家のベランダからこの2匹がひっきりなしに吠えるのですね。
2年前の訪問時にも、この内の片方を撮っているのがありましたっけ。 

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角を曲がり細い小路を、如何にも古い家並みの通りを行き、
      
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出てくるのがピアッツァ・デッラ・モルテ・Piazza della Morte「死の広場」と
凄い名なのですが、どうやら今見える建物に隣接の教会に16世紀、
「オラツィオーネ・祈りと死の信者会」というのが作られ、それに由来するとの事。

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で、ここにまた泉があり、サン・トンマーゾの泉・Fontana di San Tomaso、
または広場の名から死の泉・della Morteと呼ばれ、13世紀半ばの古い設置で、
まさに古い紡錘形の形。

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サイトから見つけた1939年、という古い写真をどうぞ!
こうして見ると、かなり泉が大きな事がお分かりでしょう?

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上の写真でもお分かりのように、この広場の角にカフェがあり、片側の小さな店は、
こんな古い鉄の椅子を使っていて、おまけに聞こえてきた音楽がシャンソン!
なんとも良い雰囲気でしたぁ!

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となると、こんな石畳の落ち葉も撮りたくなろうというもので、ははは。
       
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広場から道を西に曲がると下の道を渡るドゥオーモ橋があり、
奥に見える鐘楼は街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂のもので、
橋の向こう右側の建物はファルネーゼ邸・Palazzo Farnese.

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道の高さ1階に当たる窓と、2階の窓。 1階の窓に付いているのは、ファルネーゼ家の
紋章百合の花で、この百合の花だけの紋章というのは1545年まで使われたものと。

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道から見る建物はいたって素朴な、2階に木製のバルコニーを持つ13世紀の物で、
元々はティニョージ家・Tignosiの物だったのを、1431年にラヌッチョ・ファルネーゼ・
Ranuccio Farneseが購入したと。

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当時ラヌッチョはヴィテルボの町をフォルテブラッチョ・Fortebraccio da Montone
とジャコモ・ディ・ヴィーコ・Giacomo di Vicoの攻撃から護る役を受け、
この地に住むようになったといい、
既に彼の息子2人フランチェスコ・ガブリエーレ・Francesco Gabrieleと
ピエール・ルイジ・Pier Luigi はヴィテルボに住んでいたといい、

とりわけピエール・ルイージは町の市民権を持ち、1468年生まれのアレッサンドロ、
後の教皇パオロ3世はこの家で生まれた、という説もある様で、
一般にはヴィテルボ近郊のカニーノ・Caninoと言いますが、

少なくとも子供の頃のアレッサンドロは、その妹のジューリアと共にこの家で
過ごしたのは間違いないと。 そして教皇パオロ3世の在位中に、ファルネーゼ家が
この屋敷を引き払ったという事。



屋敷の広い内庭と、220代教皇パオロ3世像、ティツィアーノ画をサイトから。       

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ファルネーゼ邸の隣の屋敷の入り口の様子を。 どうやらここも何か謂れのある
建物の様子でしたが、

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その向かいにあったこれも古い屋敷、聖職者事務所という張り紙のあった入り口の、
かっての覗き窓!  手振れご容赦。
こういうのがそのまま残されているのが嬉しいというか、可笑しいと言うか、ははは。

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この辺りの建物を抜けると、聖堂広場が近いのですが、その手前、右手の壁の
足元が見えるように崩されていて、エトルスコの壁だという説明が。

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そうなんですよね、エトルリア人も建築術に関しては優れていた様で、こんな石組みを
見ても、中世の石組みよりもずっと大きな石を使っていたのが、良く分ります。



この先はドゥオーモ広場、ドゥオーモですが、今回のご案内はここでお終いとし、
最後は橋の付近で見かけた、かっての共同洗濯場・ラヴァトイオと、

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橋から見下ろす、どこかのお屋敷の庭の泉。 可愛い泉ですが、
これは大変な贅沢ですねぇ!

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そして、小さな教会だったと思われる建物。 今は廃寺かな。

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さて漸くにヴィテルボの2回目も何とか済み、次回は13世紀の教皇庁の建物と、
ちょっと驚いたニュースも! と、街のドゥオーモでヴィテルボのご案内もお終い。
やれやれ。 はぁい、どうぞお楽しみに!


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