暑い日が続きますが、皆さまにもお変わりありませんか?
夏も終わりに近づき、お仕事再開の方も多い事でしょう。
夏も終わりに近づき、お仕事再開の方も多い事でしょう。
こちらイタリアは最後の熱波襲来とかで、あと1週間酷暑が続く様ですが、
お陰さまで我がスコミーゴ村は、薄暗いゴキブリ生活でしのげる程ですので
文句は言えません。
お陰さまで我がスコミーゴ村は、薄暗いゴキブリ生活でしのげる程ですので
文句は言えません。
そんなこんなで、本格的にエンジンがかかるにはまだ馬力不足で、今回もう一度
緩やか発進で、と言うと、いつも緩やかだろうが、という声が聞こえそうですが、
ははは、聞こえないよぉ~だ、
緩やか発進で、と言うと、いつも緩やかだろうが、という声が聞こえそうですが、
ははは、聞こえないよぉ~だ、
もう一度トリエステの爽やかな陽射しを。 そして思いがけない発見もあり、追々と。
街の地図は先回載せておりますので、そちらをどうぞ。
という事で、今日は三題話で写真が多くなりましたが、ごゆっくり!
という事で、今日は三題話で写真が多くなりましたが、ごゆっくり!
写真は、鉄道駅から港への道を行く途中、港の反対側、街に入り込む大運河。
奥に見えるのは、サンタントーニオ・タウマトゥルゴ教会・S.Antonio Taumaturgo.
奥に見えるのは、サンタントーニオ・タウマトゥルゴ教会・S.Antonio Taumaturgo.

教会前広場に、トリエステに住んだジェームス・ジョイスの像がある様ですが、
まだ見ておりません。
まだ見ておりません。
すぐ右手にトリエステ湾の眺めが広がり、かっての大きな頑丈そうな船舫いが
並びますが、現在はヨットが何隻か。


海の眺めにはつきもののカモメたちも勿論!

そして見えてくる突堤アウダ―チェ・Molo Audace.

岸からの眺め。

突堤アウダーチェ。 アウダーチェという言葉は、大胆な、勇敢な、という意味なので、
単純に、戦争中の何か逸話を意味するのだろうと考えていましたが、
船、それも駆逐艦の名に由来する事を知りました。
元々のこの突堤の名はサン・カルロ・San Carloで、1740年に岸に近い位置で、
この名の船が沈没したのだそうで、残骸を新しい突堤の基礎として、建設。
この名の船が沈没したのだそうで、残骸を新しい突堤の基礎として、建設。
ただし当初の突堤は95mと短く、岸とは木製の小さな橋で連絡していたのが、
その後1778年、1860年と長くされ、現在の長さ246mとなり、岸とも接続。
その後1778年、1860年と長くされ、現在の長さ246mとなり、岸とも接続。
当時のこの突堤は乗客用、商船共に大いに使用され、大賑わいだった様子の
スケッチが残っておりますが、現在はご覧の通り、市民の散策、観光客、
そして不定期の観光船発着となり、
大型貨物、大型クルーズ船、フェリーなどは他の突堤に。
スケッチが残っておりますが、現在はご覧の通り、市民の散策、観光客、
そして不定期の観光船発着となり、
大型貨物、大型クルーズ船、フェリーなどは他の突堤に。
突堤にもあるトリエステの街灯の電球デザインは、こんな風に漁網をかぶせた様な
感じで、ガラスに鉄線が入っているのかも、街のレトロな雰囲気に良く似合い、

突堤から、ウニタ広場・イタリア統一広場の方を。

爽やかな風の吹きぬける突堤の上を、嬉しく走り回るワン君、

皆思い思いのスタイルで、遥かに海を眺め・・、

ガイドブックかな、を広げる観光客、釣り糸を垂らす地元の人もいて・・。

こちらは文字が見やすいように写真の向きを変えましたが、2枚上の写真で
若者たちが寄りかかっている盤で、
風向きを示すローザ・デイ・ヴェンティ・Rosa dei venti と呼ばれる物。
若者たちが寄りかかっている盤で、
風向きを示すローザ・デイ・ヴェンティ・Rosa dei venti と呼ばれる物。

北西風がマエストロ・Maestro 北東風・グレーコ・Greco
アフリカからの東南風・シロッコ・Scirocco ここでは見えませんが、
南西風が・リべッチョ・Libeccio
そして、グレーコの下に見えるのがトリエステ名物のボーラ・Bora.
とりわけ冬に北東から吹き下ろす台風並みの冷たい強風。
で、この青銅盤に刻まれている文字ですが、
APPRODÒ
A QUESTO MOLO
LA R.NAVE
AUDACE
PRIMA
COL VESSILLO D'ITALIA
III NOVEMBRE
MCMXVIII
APPRODÒ
A QUESTO MOLO
LA R.NAVE
AUDACE
PRIMA
COL VESSILLO D'ITALIA
III NOVEMBRE
MCMXVIII
この突堤に、イタリア海軍アウダ―チェ号が
最初にイタリアの軍旗を掲げて接岸した
1918年11月3日
最初にイタリアの軍旗を掲げて接岸した
1918年11月3日
つまり当時北イタリアはオーストリア治世下にあったのが、第一次大戦終戦直後、
この戦争はイタリアにとってはオーストリアからの独立戦争でもあったのですが、
終戦直後にこの港に、イタリア海軍として初めてアウダ―チェ号が着岸した、
という記念碑なのですね。
で、この出来事を記念して、1922年に名前も「突堤アウダ―チェ」となったのだそう。
この戦争はイタリアにとってはオーストリアからの独立戦争でもあったのですが、
終戦直後にこの港に、イタリア海軍として初めてアウダ―チェ号が着岸した、
という記念碑なのですね。
で、この出来事を記念して、1922年に名前も「突堤アウダ―チェ」となったのだそう。
私は気がつかなかったのですが、横にご丁寧に、
この碑は、敵の青銅を鋳造して作った、と説明があるそう!
この碑は、敵の青銅を鋳造して作った、と説明があるそう!
そうなのでした、単なる戦争の勇者を讃えての「勇者の突堤」という名では
ないのを知ったという訳ですが、実はもひとつ驚きの発見を!
こちらが駆逐艦アウダ―チェ号で、日本語版ウィキにも説明がありまして、

なんと本来は、大日本帝国海軍が駆逐艦江風(かわかぜ)として、イギリスに
発注したものなのだそう! 当時としては新型機関のディーゼルエンジンを
搭載する予定が、第一次大戦の影響でドイツからの減速装置が入手出来なくなり
タービン・エンジンのみの搭載となり、日本海軍は欲しがらず、
1916年進水直前にイタリアに譲渡されたのだと。
ここではshinkaiが付いて行ける範囲のご説明で、
詳しくお知りになりたい方はウィキぺディアにどうぞ!
詳しくお知りになりたい方はウィキぺディアにどうぞ!
トリエステの突堤の名から、遥々「大日本帝国海軍」に行きついた時は、
驚いて笑いました。 なんと世界は狭い事!
驚いて笑いました。 なんと世界は狭い事!
こちらは、現代の大クルーズ船。 この角度だと、道の上にぐっと舳先が
飛び出してる様に見えますが、いえぇ、舳先はきっちり海の上にありましたです。

ウニタ広場、正式にはイタリア統一広場・Piazza Unita d'Italia.
広い広い、海に向かって開けた広場で、正面は市役所。
広い広い、海に向かって開けた広場で、正面は市役所。

イタリア統一広場という名は、第2次大戦後敗戦国となったイタリアで、
トリエステ一帯は国連の統治下に置かれ、2分割もされていたのが、
漸くに1954年にイタリアに返還された事を記念しての広場。
トリエステ一帯は国連の統治下に置かれ、2分割もされていたのが、
漸くに1954年にイタリアに返還された事を記念しての広場。
ローマ期以前よりの古い歴史を持つ土地ですが、国境の町にありがちな何度も
統治者が変わる複雑な土地で、東欧側に残ったままの以前のイタリア領もあります。
統治者が変わる複雑な土地で、東欧側に残ったままの以前のイタリア領もあります。
トリエステの夏の写真は、紫外線が強い為か、
この広い広場を写すと、気をつけていても暗く写り、と言い訳。
この広い広場を写すと、気をつけていても暗く写り、と言い訳。
正面市役所の塔の部分のアップで、

写真を見ていて、鐘付き男が2人いるのに初めて気が付きましたが!
実はこの後高台にあるお城に行った時に、オリジナルの大きな像があり、
きちんと衣類をつけたこの鐘付き男はどこの?と、
・・ヴェネツィアの鐘付き男は、短い毛皮だけですものね、
一瞬湧いたままだった疑問が、ここで解決したのでした。
はい、shinkaiも歩けば棒に当たる、ですねぇ、ははは。
トリエステの大きな建物類はバロック様式が多いのですが、こんなアール・デコ調の
柄モザイクも施されたりで、こちらは広場の北側を占める県庁の壁。

向かいにあるこれも大きな建物、上部には・・、

こんな群像があり、ロイド・トリエスティーノと読めますが、それ以前は
オーストリア船舶会社だったそうで、現在は州庁が置かれていると。
オーストリア船舶会社だったそうで、現在は州庁が置かれていると。

広場の中途から脇道に入り、曲がってボルサ広場・Piazza della Borsa
に出る途中の眺め。
正面の建物の壁、窓、色が、なんともレトロで良いでしょう?
に出る途中の眺め。
正面の建物の壁、窓、色が、なんともレトロで良いでしょう?

この辺り一帯、車の出入り禁止ですので、こんな素敵なカフェが道に次々と。

こちらがボルサ広場・かっての証券取引所・ボルサがあった事の名の由来ですが、
こちらは広場の東側で、ここも広々と、人々がのんびりと歩ける広場。
こちらは広場の東側で、ここも広々と、人々がのんびりと歩ける広場。
左奥にネプチューンの泉が見えますが、

その奥に立つ円柱上のこの人物は、神聖ローマ帝国王にして、ボヘミア、
ハンガリー王でもあるレオポルド1世(1658~1705在位)だそうで、

なぜにこににお出でかと言いますと、跡を継いだ息子ヨーゼフ1世がトリエステを
自由港にし、これがこの街の繁栄の元となったのだそうで、はい。
自由港にし、これがこの街の繁栄の元となったのだそうで、はい。
そうそう、このレオポルド1世の最初の妃が、ベラスケスの描いた有名な皇女
マルゲリーテ・テレジアで、彼女は母方の従妹でもあり、姪でもあるのだそうで!
夫婦仲も良かったのが、お気の毒に22歳の若さで没。
マルゲリーテ・テレジアで、彼女は母方の従妹でもあり、姪でもあるのだそうで!
夫婦仲も良かったのが、お気の毒に22歳の若さで没。
広場の西側部分、ネプチューンの泉が見え、写真左にちらと見える円柱の建物が
かっての証券取引所・ボルサで、

現在は商工会議所となっており、こちらは上部の飾り。

広場の北西角、ここにもBORSAと入った建物が見えますが、この優雅で
豪壮な建物も素敵ですねぇ。
豪壮な建物も素敵ですねぇ。

広場は歩行者のみなので、あちこちにお喋りの輪が固まり、カフェのテラス席もあり、
皆のんびり気分ですが、中に彼のみ、ご主人のお喋りに断固背を向け、
半ば無念無想で広場の彼方を見つめ・・!
皆のんびり気分ですが、中に彼のみ、ご主人のお喋りに断固背を向け、
半ば無念無想で広場の彼方を見つめ・・!

さて漸くに三題の内二つが済みまして、
我ながら、少し詰め過ぎかと反省しつつ書いておりますが・・、
まぁ、もうちょっとのご辛抱でございます、皆さま、ははは。
我ながら、少し詰め過ぎかと反省しつつ書いておりますが・・、
まぁ、もうちょっとのご辛抱でございます、皆さま、ははは。
ボルサ広場から北に通りを一つ抜けた、サン・ニコロ通りの30番、
南北に横切るダンテ通りに近く、古書店ウンベルト・サバがあります。
南北に横切るダンテ通りに近く、古書店ウンベルト・サバがあります。

小さい扉を開けた正面に見えるのが、このサバの写真。
ウンベルト・サバについては須賀敦子さんが書かれ、サバの詩も訳しておられるので、
そちらでご覧頂くとして、ここでは割愛しますね。
そちらでご覧頂くとして、ここでは割愛しますね。

上の写真の右下部分、本棚の前にはあれこれサバを描いた絵があり、

間口の狭い店ですが、天井は高く、奥にも高い本棚が並び、

こちらは左手の書棚。

現店主のマリオ・チェルネ氏・ Mario Cerne.

2か月前にも一度店にお邪魔しましたが、その時も今回も、こちらが日本人と見ると
さっと奥の本棚からこの書店の載った各雑誌、そして須賀さんの「トリエステの坂道」を
取り出して来て見せてくれます。
さっと奥の本棚からこの書店の載った各雑誌、そして須賀さんの「トリエステの坂道」を
取り出して来て見せてくれます。
須賀さんの本に書かれているご自分の名前のマリオ氏の部分に、鉛筆でくるっと
丸が書かれ、それを指さしながら、ちょっと自惚れで、と自己紹介されるのですが、
店には次々と見物客が入れ替わり立ち替わり。
そつなく応対しながら、あれこれとお喋りをし、訊ねられた事に応えていく、
須賀さんが描かれた彼の様子、「観光コースの一環のような応対ぶり」、
まさにその通りで、これで一体店が成り立つのか、と他人事ながら気になる程。
丸が書かれ、それを指さしながら、ちょっと自惚れで、と自己紹介されるのですが、
店には次々と見物客が入れ替わり立ち替わり。
そつなく応対しながら、あれこれとお喋りをし、訊ねられた事に応えていく、
須賀さんが描かれた彼の様子、「観光コースの一環のような応対ぶり」、
まさにその通りで、これで一体店が成り立つのか、と他人事ながら気になる程。
観光客はマリオ氏を見て喋り、店の写真を撮り、彼を撮り、
そして何も買わずに出て行く。
私にはその辺りが見ていて少し腹立たしく、せめてにもと、
そして何も買わずに出て行く。
私にはその辺りが見ていて少し腹立たしく、せめてにもと、
先回行った時に買ったのが、この、サバと書店について書かれた本。

全部は読めておりませんが、今回このブログ書きで拾い読みし、
サバの書店にその人生を捧げたカルロ・チェルネ氏・Carlo Cerne、
サバが「カルレット」と親しく呼んだマリオ氏の父親の事も少し知りました。
サバの書店にその人生を捧げたカルロ・チェルネ氏・Carlo Cerne、
サバが「カルレット」と親しく呼んだマリオ氏の父親の事も少し知りました。
サバが鬱状態に落ち込んだり、ユダヤ人排斥運動のあおりを受け、パリやローマ、
フィレンツェ、ミラノで逃亡生活を送る間、書店主となり店を、サバを支え続けた
カルロ氏は、サバが亡くなった後書店の所有者に。
フィレンツェ、ミラノで逃亡生活を送る間、書店主となり店を、サバを支え続けた
カルロ氏は、サバが亡くなった後書店の所有者に。
日本のどなたかが、書店についてか、サバについてかな、本を出される準備中と
お聞きしましたが、
お聞きしましたが、
無料の観光地の様に出入りする方用にも、店に日本語で書かれた物を
是非置いて欲しい、と余計な事も考えました。
そしてたとえイタリア語は読めずとも、日本の方には、薄い小冊子でも良いので、
店を訪れた記念の想い出としてでも、何か買って欲しいもの、
というのが、部外者shinkaiの思いです。
店を訪れた記念の想い出としてでも、何か買って欲しいもの、
というのが、部外者shinkaiの思いです。
サン・ニコロ通りのすぐの突き当たり、交差するダンテ通りに、このサバ像が。

足元の碑には、「岩だらけの山と煌めく海に挟まれた美しい街を持っていた」
1944年、亡命中の望郷の想い。
1944年、亡命中の望郷の想い。

ダンテ通りの突き当たりには、詩の通りに山が立ちはだかり、
夏はどこまでも明るく爽やかなトリエステの街。
夏はどこまでも明るく爽やかなトリエステの街。

須賀さんが訪れ描かれたトリエステには、いや、トリエステのみではなく
ヴェネツィアにもミラノにもですが、今のイタリアとは少し違う空気が漂い、
実際の姿よりも、心に沁み込む美しさで迫ります。
それは文学の、そして須賀さんの大きな魔法かも!
最後に、サバの詩「トリエステ」の一節を須賀さんの訳でどうぞ。
トリエステには 乱暴な
優しさがある たとえば
硬い実のようで 欲ふかい無骨な少年に
似ている 眼が碧くて
花束を捧げるには 大きすぎる
手をした-------
嫉妬まじりの
愛にも似ている
優しさがある たとえば
硬い実のようで 欲ふかい無骨な少年に
似ている 眼が碧くて
花束を捧げるには 大きすぎる
手をした-------
嫉妬まじりの
愛にも似ている
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