ロンバルディアの州都ミラノの中心から北東に約19キロ、
街境のみで言うと約8キロの近くに位置するモンザ・Monzaの街。
街境のみで言うと約8キロの近くに位置するモンザ・Monzaの街。
日本ではモンザのサーキット場で有名だと思うのですが、古のロンゴバルト族の
首都でもあるモンザのご案内、と言ってもほんのちょっぴりの中心、
美しい聖堂と、そのお宝である鉄の王冠に付いてご覧ください。
首都でもあるモンザのご案内、と言ってもほんのちょっぴりの中心、
美しい聖堂と、そのお宝である鉄の王冠に付いてご覧ください。
ずっと”モンツァ”と思い込んでいたのですが、改めて友人にも尋ね、
発音を聞いてみると"モンザ”ですので、そのように書く事に。
さてバスを降りた所から見える、奥に続く並木道。
昨年の春4月半ば新緑の候、なんとも清々しい公園の道でしたが、
後で分ったのは、奥に見える白い壁は王宮の建物の壁。
発音を聞いてみると"モンザ”ですので、そのように書く事に。
さてバスを降りた所から見える、奥に続く並木道。
昨年の春4月半ば新緑の候、なんとも清々しい公園の道でしたが、
後で分ったのは、奥に見える白い壁は王宮の建物の壁。

地図をどうぞ。 モンザの街の中心は、下に囲った中に見えるうっすらの菱形辺りで、
四角い点を打った所に聖堂があり、赤丸点を打った場所が上の写真の位置。
北に広がる広大な公園の中にサーキット場があり、Villa Realeとあるのが王宮。

ですから今回歩いたのは、公園の南の端から中心の聖堂辺りまでの往復、
そしてほんのちょっぴり聖堂の脇から川の辺りまで、という事に。
バスを降りた公園の端辺りは既に中心街の外れで、なかなか雰囲気の良い
お屋敷街という感じ。

街中に入り、この道を中心に向って行きますが、美しく整備された家並みが続き、
やはり中世からの建物保存である事が分かります。

今回は街中の写真を殆ど省略してますが、これはサン・ピエトロ・マルティレ教会前
広場の、モンザ出身の画家モゼ・ビアンキ・Mosè Bianchi(1840-1904)の像。

実はこの旅行の少し前に、このモゼ・ビアンキと言う画家の作品をサイトで見て
大変に達者な画家で驚いていたので、あれ、彼なんだ、とすぐ分った次第。
という事で今回分家の絵のブログに彼の作品を少し集めましたので、ご覧下さいね。
モンザの画家 モゼ・ビアンキ
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20160310-1.html
モンザの画家 モゼ・ビアンキ
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20160310-1.html
春らしい花が咲く横の小路も眺めつつ、

これはサンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ教会

散歩中のすべすべ毛並みのお高いワンちゃんにも挨拶し、ははは、
ねぇ、よだれが垂れてるよ!

歩いて行く先にこんな中心の塔が見えて来て、

塔の先と時計、そして建物の西側なんですがぁ、



肝心の全体像を撮っておりませんでしたので、サイトより拝借、へへ。
はい、こんな風に建物の下がロッジャになっている、
ラレンガーリオ・L'Arengarioという13世紀の市庁舎。
はい、こんな風に建物の下がロッジャになっている、
ラレンガーリオ・L'Arengarioという13世紀の市庁舎。

我々は写真の向こう側から近づいてきた訳で、
こちらの2階に見えるテラス、かってはここから施政者が市民に話したテラスで、
塔は後の時代に建設された物と。
建物はご覧の通り長方形で、30,3x12,4mで、現在は展示会場に使われ、
ローマ広場と呼ばれるこの広場から道が放射線状に走り出すと。
ローマ広場と呼ばれるこの広場から道が放射線状に走り出すと。
上のラレンガーリオから小路を辿るとすぐに、ドゥオーモ広場で、
車が入らないここは市民の憩いの場でもあり、

広場の南面にこの素晴らしいドゥオーモ、
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ聖堂・San Giovanni Battista.
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ聖堂・San Giovanni Battista.




オリジナルの聖堂は6世紀末の物で、現在のは14世紀から建設が始まり17世紀に
完成したもの。 白と薄いブルーの石の縞模様に、細かい細工が施された美しい物!!
完成したもの。 白と薄いブルーの石の縞模様に、細かい細工が施された美しい物!!
正面扉上の張り出し部に、聖堂が捧げられたサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・
洗礼者ヨハネ像があり、左手の上には羊、右手の人差し指で天を指します。
洗礼者ヨハネ像があり、左手の上には羊、右手の人差し指で天を指します。

扉上部の半円ルネッタ部の彫像群。 下段中央左にサン・ジョヴァンニ・バッティスタと、
右に洗礼を受けるキリストですが、

・・作者は水の表現に苦労したのでしょうねぇ、大変にユニークで、
気がついて笑いましたぁ、失礼、ははは。
扉上の張り出し部分の横に突き出す動物の飾りと、細かい細工、でも大変に
彫りが深いしっかりした美しさ! そしてどこかまだ中世風を感じる部分も残り、
新しい彫像も加わっていますね。


聖堂内の様子、豪華でしょう?! わぁお~と見蕩れましたっけ。


天井画と、入り口上のステンド・グラス。


実は上の聖堂内写真はお昼解散前にさっと撮った物で、またじっくり中が見れるもの
と思っていましたら、そのままになり、内部の写真はこれだけになり、残念・・!
と思っていましたら、そのままになり、内部の写真はこれだけになり、残念・・!
この聖堂には大きなお宝、聖遺物とされる物がありまして、
それがこれ、鉄の王冠・Corona Ferrea・コローナ・フェッレアと呼ばれる物。

内側真ん中に輪が見えますね、これがキリストの磔刑の時に使用された
鉄の釘という事で、それを叩き延ばし、
その周囲に、
この様な、金と宝石の飾りの金属板を6つ取り付けたもの。
現在は直径15cm 高さが5,5cm 重さが535g.
現在は直径15cm 高さが5,5cm 重さが535g.

聖堂の左側の礼拝堂で実物を拝む事が出来ましたぁ!
礼拝堂内に我々が入りますと、入り口の扉は鍵で閉められ、
小さな金庫の扉が鍵で開けられ、中から引き出した箱の鍵を開け、
そしてその中にガラスの箱に入っていた様な・・。
つまり2重の鍵+入り口扉、という厳重さであり、
小さな金庫の扉が鍵で開けられ、中から引き出した箱の鍵を開け、
そしてその中にガラスの箱に入っていた様な・・。
つまり2重の鍵+入り口扉、という厳重さであり、
少人数づつが台の上に上がり、覗き込んで見れた、という・・。
現在は飾りの金属版が6枚と書きましたが、実際は8枚あったそうで。
この王冠は過去にあちこちに持ち運ばれているのですが、1324-45年には
フランスのアヴィニョンにまで行っており、
その際に盗まれ、2枚の金属板が消え損傷を受けたのだそう。
この王冠は過去にあちこちに持ち運ばれているのですが、1324-45年には
フランスのアヴィニョンにまで行っており、
その際に盗まれ、2枚の金属板が消え損傷を受けたのだそう。
その後修復されたものの、2枚の装飾板が無い為に円周が小さくなり、
現在の直径になっているのだと・・!
現在の直径になっているのだと・・!
この王冠が聖遺物というだけでなく、なぜ大事なのかですが、
かってはこの王冠がイタリア国王の戴冠に用いられたのですね。
ジェルサレムでキリスト磔刑の際の十字架を発見したのは、皇帝コスタンティーノ1世の
母であるエーレナであるとされ、その際に十字架に付いていた釘も発見されたと。
其の内の1本が王冠状の飾りとなりコスタンティーノ1世の兜の上に付けられていたのを、
ロンゴバルド王であるテオドージオ1世・Teodosio I がミラノに持ち帰り、
その後コスタンティノーポリに・現イスタンブル、またイタリア・モンザにと変遷し、
兜の半球として保持されていた様子。
ロンゴバルド王であるテオドージオ1世・Teodosio I がミラノに持ち帰り、
その後コスタンティノーポリに・現イスタンブル、またイタリア・モンザにと変遷し、
兜の半球として保持されていた様子。
6世紀、時の教皇グレゴーリオ1世がロンゴバルドの王妃テオドリンダ・Teodolindaに
釘の1本を贈り、それに対し夏の住まいをモンザに持っていた彼女は、
595年、隣に聖堂を建設したといい、これが現在の聖堂の前身となりますが、
テオドリンダは贈られた釘を入れた王冠を打ち直し、装飾の金属板を付け加えた
円の形(王冠)に作ったのだと。
釘の1本を贈り、それに対し夏の住まいをモンザに持っていた彼女は、
595年、隣に聖堂を建設したといい、これが現在の聖堂の前身となりますが、
テオドリンダは贈られた釘を入れた王冠を打ち直し、装飾の金属板を付け加えた
円の形(王冠)に作ったのだと。
皆さん、お読みになっていて分りますか?
なにせ書いているshinkai自身がどこまでがどうなのか良く分らずで、ははは、
多分こうなのだろうと推察も交えて読み書きしておりまして・・!
・・気を取り直し、
こうしてロンゴバルド王がこの王冠を用い、カルロ・マーニョが775年に受け継ぎ、
以後19世紀までイタリア王の戴冠に用いられるようになった、というもの。
なにせ書いているshinkai自身がどこまでがどうなのか良く分らずで、ははは、
多分こうなのだろうと推察も交えて読み書きしておりまして・・!
・・気を取り直し、
こうしてロンゴバルド王がこの王冠を用い、カルロ・マーニョが775年に受け継ぎ、
以後19世紀までイタリア王の戴冠に用いられるようになった、というもの。
王冠が小さくなった後は頭にかぶる事が出来ませんので、いわゆる形として
頭に手で支えて載せた様子で、
この形で有名なのが1805年ミラノで行われたナポレオン・ボナパルトの戴冠式!
頭に手で支えて載せた様子で、
この形で有名なのが1805年ミラノで行われたナポレオン・ボナパルトの戴冠式!
ですがイタリア統一後に国王となったサボイア家は、この王冠を用いていないとの事。
1993年にこの王冠は科学的検査をされ、多分1345年に破損箇所が修復された折に
使われたと思われる金属で、鉄ではなく銀であると・・!
つまり釘そのものも盗まれた、というような、ちょっと神話伝説まがいの謂れにも
聞きとれる鉄の王冠のお話でしたぁ、お疲れ様!
ドゥオーモの背後にはドゥオーモ博物館も整備されてあり、
なかなか素晴らしかったのですが、なにせここも写真禁止でして・・。


これはドゥオーモの脇にある回廊部分。

ここから地下に降りる階段が見え、案内写真の表示もあったのですが、
地下の有名なフレスコ画の見学は無しで、残念!
こうして外に出ると、すぐ脇の道がいかにも中世風の通りで、

振り返ってみるドゥオーモの鐘楼、1592年建設

通りの横に見える、かっての街の門と塔。

モンザの中心を通り抜けるランブロ川・Lambro.
サイトで見た写真には、満々と水をたたえた写真が何枚もありましたが、
なんとこの時は、まるで干上がっており・・!

川を渡った所で曲がって引き返すヴィットリオ・エマヌエレ通り。
奥の突き当たりに見えるのが、ローマ広場のラレンガーリオ。

通りに並ぶちょっと高級品店のウィンドウに見つけたのがこれ、
ドッグ・フィーバーとあって、ネックレスや指輪の人間様用も見えますが、

このお値段の高いこれ、これなんでしょうかぁ?! 上の写真の右下には、
陶器製のもっとお高いのも見えるのですが・・。 指輪? ナプキン・リング?

という事で朝到着した広場に再び戻って来て、正面左に奥に続く並木道。

我らは再びバスに乗り、レッコのホテルに向ったのでしたが、
道を走っていて見えたこの藤の花盛り、右側にもっと長く続き、
道を走っていて見えたこの藤の花盛り、右側にもっと長く続き、

角を曲がって見えたのがこの建物。 あれあれ、と思う間なく、

こんな広大な建物が見え、王宮と知りました。


上からの眺めをどうぞ。 広大でしょう、建物も庭園も!
王宮と書きましたが、実際は王家のヴィッラ・Villa realeなんですね。

1777年、当時北イタリアを統治していたオーストリアの皇妃マリーア・テレーザが、
ミラノに滞在していた4男フェルディナンドの、夏の滞在と狩の為に建設した豪儀な物!!
庭園のほうは徒歩で入れ、建物中央も修復が済むと見物できる様子。
という、典雅なモンザのちょっぴりご案内でしたぁ。
という、典雅なモンザのちょっぴりご案内でしたぁ。
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