・ n.3 リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の1

リミニのご案内3回目、いよいよ最後の大詰めとなりましたが、はは、
うまく纏まる様に頑張ってまいりたいと思います。

今回のご案内の主たるものはタイトル通り、「リミニの狼・ルーポ・ディ・リミニ」
と呼ばれ恐れられた、15世紀のロマーニャ周辺一帯の領主
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ・Sigismondo・Pandolfo・Malatesta.
彼の事をもっとよく知りたい、の好奇心はもう何年来もの宿題でした。

ですが何せ相手が大物で、当時の情勢も知らぬままあれこれ読んでも
笊で水をすくうようなもので、 ははは。
それでもあちこちで彼の名に出会うたびに少しずつにじり寄り、
少し前のグラダーラのお城のご案内の時に遂に覚悟を決め、・・大げさなぁ!
       
まずは彼の墓所であるテンピオ・マラテスティアーノ・Tempio Malatestino
のご案内をしつつ、ご紹介したいと思います。

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彼についてはサイトでの日本語情報が余り無く、それも一方的なもので、
武人としては優秀でも残忍冷酷で妻殺し、などという事ばかりですが、
あれこれ読みだんだんに分かってきた事は、詩も書き、芸術家達のパトロンでもあり、
政略結婚の妻を、しかも2人!殺した様ですが、ははは、と笑うと不謹慎ながら、

見初めた3番目の妻にはぞっこんで、当時の武人としては珍しく政治的条件抜きで
結婚し連れ添う、という、大変に純情直情な、可愛い男でもある様な・・!

彼をご贔屓のshinkaiとしては、時代の波にもまれ消えていった、15世紀の
一領主のそんなこんなをご披露したく存じますので、よろしくお付き合いのほどを! 

上の写真はテンピオ・マラテスティアーノの正面、左奥に鐘楼が見えるのをご覧頂こうと。
今回掲載の写真も例により、ブログのサイト名が入っていないのはサイトからの拝借で。



テンピオ・マラテスティアーノに行く前に、やはりリミニに残るシジスモンドの城、
要塞であり居城でもあったカステル・シスモンド・Casrel Sismondoをどうぞ。
この写真は城の裏側のもので、

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正面側はこんな感じ。

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行った時はちょうど印象派絵画の展覧会開催中で、威圧感ある要塞の壁に
大きな印象派のポスターが、しかも女性像なんかが下がり、何となしがっくり、ははは、
おまけに周囲はご覧のように大駐車場となっていて足元も見えず・・!

チャンスを見て出直し、内部も見たいと思っていますので、本来はこれらの周囲を
城壁が取り囲む、大規模な物だったようで、お城のご案内はまたいつかの事に。



街の中心の地図をもう一度。 左下に城があり、先回ご案内の博物絵画館は
真ん中上に。そこからまっすぐ東南に辿ると、テンピオ・マラテスティアーノ。

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この道はそう広くもなく、街外れの感じのある道。 今見えるアーチは15世紀の
お屋敷があったのが、第2次大戦で爆撃されたそうで、内部は何もなしの草地で。

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道の先にテンピオが見えてきた時。 道はまっすぐ行き、テンピオは脇にあるので、
こんな風に半分が先に見えます。

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テンピオ・マラテスティアーノの正面。 通称テンピオと呼ばれていますが、
地元ではドゥオーモで通り、正式にはバジリカ・カッテドラーレ・サンタ・コロンバ・
Santa Colomba.

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検索をかけましたら教会のサイトが出て、にっこり司教様の写真やミサの時間等で
一瞬泡を食いましたが、ははは、まさに現在も教会で博物館ではないのでした。



正面扉の上部と円柱の柱頭、マラテスタ・パンドルフォの名も見えます。

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元々9世紀の教会があり、12世紀にゴシック様式のサン・フランチェスコ教会に、
が建物も小さく、14世紀初頭からマラテスタ家の墓所となっていたのを、
15世紀半ばにシジスモンド・パンドルフォが壮大な霊廟とすべく、当時の著名な
設計建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ・Leon Battista Albertiに
設計改築を依頼し、内部の装飾にも当時の一流芸術家を招いたというもの。



内部、入り口から内陣に向かって。

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祭壇奥にかけられた、ジオット・Giotto作と言われる十字架。

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内部はご覧のように一廊式で、両側に4つずつの礼拝堂。 こちらは左側。

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そして右側。

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右側一番奥に、

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はい、こんな形で、シジスモンド・パンドルフォの姿。 フレスコ画は
ピエロ・デッラ・フランチェスカ・Piero della Francescaの作、1451年。

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聖シジスモンドの前に跪く、シジスモンド・パンドルフォ、というタイトル。

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こちらでは毎日のカレンダーにその日の守護聖人の名が書かれていて、別の日に
生まれてもその聖人と同じ名を持つと、オノマスティコ・onomasticoといい、
その聖人の日におめでとうを言ったりするので、同名の聖人に守護を願う姿でしょう。

聖シジスモンドとはどんな人かと調べると、ブルグンド族!フランス東南部に行った
ゲルマン民族の6世紀の王で斬首され殉教、蛮族として聖人となった最初の王らしい、
というのだけ何とか分かったのですが・・!
どういう経過なのかも読んでも何も分からず、ははは、と力なく・・、
左手に持っている球も何を現すのか、まるで分からず・・、
どなたかの、クリスさんあたりかな、ご教授をお待ちいたします!

* 追記 * 
クリスさんより、聖シジスモンドが手にしているのは、王の象徴である杖と宝珠 
と教えて頂きました。 有難うございましたぁ!
       


ルーヴル美術館所蔵の有名なシジスモンド・パンドルフォの肖像画と、
あちらはテンペラ画で後ほどご覧頂きますが、同じ画家の手とはいえ、そっくり!
ですが今回、後頭部の膨らみが直されているのに気が付きました!

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全体図を見ると、当初の背景は濃い色、黒かそれに近い色で埋められていたのが
分かりますから、となると、この手直しは一体誰がぁ? というミステリー!
まぁ、白い背景の中、白に近い衣装となると、この頭の大きさでちょうどバランスが、
とは思いますがぁ・・。



背景の丸窓の中に見えるカステル・シスモンド。

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そしてその手前に交互の向きで座るワン君2頭。 手前の白いワンちゃんの、
本当に美しい姿!これだけしか描いていないのに、しっかり肉が詰まっている!!

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ピエロ・デッラ・フランチェスカはフレスコ画の下描きに、原寸大下図を作り、
線に沿って小穴を開け、タンポンで叩いて下塗りに印をつけた様で、
白い方のワンちゃんの延ばした首から肩、手前の前足、肘、背中の流れ辺りにも
しっかりポツポツが見え、なんとなし、こういうのはちょっと嬉しい発見!



実はこのテンピオには、お昼休みで閉まる直前に飛び込み、ピエロの絵はしみじみと
眺めたのですが、他は写真を殆ど撮る暇が無く、おまけに管理人が話しかけて来て、
コネリアーノ?! あそこはプロセッコが旨いよね、とか・・!
   
という事で、サイトで見つけた写真で細部をご覧ください。
象の姿はマラテスタ家に所縁があるのだそうで、白い大理石に金と青の手の込んだ
素晴らしい装飾。 諸所に散らばって見える、SとIの組み合わせ紋にご注目を。

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建物の設計はルネッサンス期の著名な建築家のレオン・バッティスタ・アルベルティ
によるもので、大変に荘厳ですっきりした正面壁をご覧に入れましたが、
結局このテンピオは未完のままに・・。

アルベルティは美術にも古典にも法学にも数学にも秀でた人文主義者。
レオナルド・ダ・ヴィンチよりも半世紀ほど前に生まれ、その多方面への才能の発揮で
「万能の人」と呼ばれた最初の人で、建築以外の実作品が残っていないのが残念。

内部の装飾はマッテオ・デ・パスティ・Matteo de' Pastiの設計や、大理石の
浮き彫りなどはアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ・Agostino di Duccioの手になると。

このテンピオは1447年シジスモンド・パンドルフォが改築を決め、シジスモンド・Pは
(以下この様に省略を・1417-1468)当時30歳、
2度目の妻ポリッセーナ・スフォルツァ・Polissena Sforzaが1449年に死亡した後、
その2年前から関係のあったイゾッタ・デッリ・アッティ・Isotta degli Attiとの
事実を公にし、ここを2人の墓所とすべく・・。

上の写真に見えたS・シジスモンドと、I・イゾッタの頭文字を組んだ紋が至る所に、
はぁ、至る所に見え、・・この一途さ!



教会はその後も増改築を重ねますあ、これが古い往時の様子。

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第2次大戦の爆撃でこの内後陣部は破壊され、現在はジオットの十字架のみで。

マラテスタ家代々の墓所教会といいますが、買って戻ったガイドブックと、検索して
読んだものとちょっと違い、私もしっかり現場で見ていませんので、
どの礼拝堂が誰のとご説明できませんで、ご容赦を。



さてこちらが、ピエロ・デッラ・フランチェスカ描く所のルーヴル蔵の、
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ像。

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1451年頃の作といいますから、フレスコ画製作と同時期ですね。      
酷薄そうな鋭い目と薄い唇が特徴の顔ですが、1417年に、先回見て頂いた
濃い赤の胴着・ファルセットの主であるパンドルフォ3世の次男として、
父親の愛人アントーニア・ダ・バリニャーノ・Antonia da Barignanoとの間に誕生。

時に父親47歳、シジスモンド・Pより6歳上の兄と、こちらはまた別の愛人との子
とも言われ、はぁ、一つ下の弟との3人兄弟で、
1427年シジスモンドが10歳の時父親が亡くなります。

こうしてリミニの伯父カルロの元で育ち、伯父は何とか教皇に3人の実子認可を貰い、
1429年の伯父の死後、シジスモンド・Pの兄ガレオット・ロベルト・マラテスタ・
Galeotto Robertoが後を継ぎますが、1432年僅か20歳の若さで亡くなり、
こうして15歳でシジスモンド・Pがリミニの領主に。

早くから軍事に才能を発揮し認められ、1435年には教皇軍の隊長として名が載り、
槍騎兵隊長としてデヴュウを。



彼の肖像としては、上でご覧頂いたピエロの横顔が有名ですが、フィレンツェの
メディチ・リッカルディ宮の有名な礼拝堂にあるベノッツォ・ゴッツォーリ・
Benozzo Gozzoliの壁画にも登場しているのを知りましたので、どうぞ。

有名な「マギの礼拝」のフレスコ画のこの場面の左隅最前列、

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一番左がシジスモンド・P、右の白馬がミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・
Galeazzo Maria Sforza.

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壁画が描かれたのが1459年、シジスモンド・Pが42歳 ガレアッツォ・M.Sが14歳。
それ以前に画家が見た記憶、または聞いた話、想像で描いているのでしょうが、
皆さんどなたもが可愛いお顔で・・!

殊に画中真ん中のにっこり美男貴公子がロレンツォ・イル・マニーフィコと言うので、
まぁ、物凄いヨイショというか、ははは。
     
ガレアッツォ・マリーアは、スフォルツァ家に変わって2代目のミラノ公で、最後の
ヴィスコンティ家のフィリッポ・マリーアの庶出の娘ビアンカ・マリーアと
フランチェスコ・スフォルツァとの子。 大変残忍な性格で、結局暗殺され・・。

メディチ・リッカルディ宮 ・ フィレンツェ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464156876.html

n.1 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464968600.html

n.2 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464968932.html

n.3 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464969065.html

n.4 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464969267.html



さてこちらも有名なピエロ・デッラ・フランチェスカ描く所の
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロ・Federico da Montefeltro.

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フェデリーコ・M(1422-1482)はすぐ南隣マルケ州ウルビーノの領主で、
シジスモンド・Pとは積年の宿敵。

フェデリーコ・Mはほぼ一貫して教皇側で、つまり教皇側の傭兵として働きますが、
シジスモンド・Pは国を治め、敵のフェデリーコ・Mと戦う為にも、自領を整備美化
するにも大資金が必要で、傭兵隊長としてより多く払ってくれる側と契約し戦い、
鮮やかに勝ちを収める、それがまた逆に憎しみを買った部分もありそう。

日本で読み知っていたフェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロの姿は、軍事にも優れ、
ルネッサンス文化をウルビーノに持ち込んだ宮廷文化とか、芸術文化のパトロンで、
という様な優れた武人の説明が多く、shinkaiもそれを鵜呑みにしていましたが、

こちらであれこれ読み知ると、なかなかそんな生易しい物、人物ではありませんで、
当時の教皇領の一部である自領を収め収益を図り、傭兵隊長として戦に出かけ
勝つことでまた教皇との関係を図っていく、という中で、
かなりあれこれきわどい事もし、第一にまずウルビーノの領主となる為に腹違いの弟、
彼は庶出の生まれで弟は嫡子が、行い粗暴の嫌われ者であったようですが、
その弟を殺害し領主に、という経緯もありで。 

今日はご説明しようと思う事が大きすぎ、単なる人物伝となっても詰まりませし、
なぜ彼シジスモンドの評判が悪くなったかをご説明したく、奮戦中ですが、はは、
長くなりましたのでここで一応お終いとし、シジスモンドのその2として続けますね。


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