トレンティーノ・アルト-アディジェ州において最大の要塞城である
カステル・ベゼーノ・Castel Besenoのご案内を。
カステル・ベゼーノ・Castel Besenoのご案内を。

古代からアルプスを越えての北の国と南欧のイタリアを繋ぐ幹線道を見張る
格好の地にあり、中世にこの地に城が築かれて後は、幾度かの
凄まじい攻防戦の舞台となったこのカステル・ベセーノ。
15世紀には居城ともなり、いくらかの壁画も残っておりますが、
何よりも実戦に備えた要塞城である姿を、ご覧下さいね。
何よりも実戦に備えた要塞城である姿を、ご覧下さいね。
カステル・ベゼーノはどこにあるか、地図をどうぞ。
ヴェローナから北上し、ロヴェレート・Roveretoから約10分ほど、
ボゼネッロ・Bosenelloという町の丘の上に。

3年ほど前トレントに行った際、国道筋からもその威容が良く見え、皆がおお!と
どよめいたのでしたが、今回実際に見れるチャンスがあり、喜んで参加。
如何にもかっての町の見張り所といえる姿があり、

丘の上の城まで運んでくれる小型バスを待つ間に見る民家も、
きちんと整備はされていても、まさに中世からの形そのもの!
きちんと整備はされていても、まさに中世からの形そのもの!

お膝元のボゼネッロの町から見上げる城! 城の左下にチラッと白い物が見えますが、
あそこの駐車場まで小型バスが3往復して我らを運んでくれました。

駐車場からかなりきつい坂道を歩いて城に向かいますが、これが第1の門。

坂道の角を曲がる所から見えるこの姿!! 威圧!

そして、その先に見える第2の門。
ほらね、かなりの人数が既にへたっているでしょう、ははは。

第2の門を内側から見た所。

車が止まっている辺りに左に抜ける門があり、
抜けた所に広がる広場、練兵場とでも。

素晴らしい広さで眺めも良く美しく、現在夏にはここで様々な中世的催しがあると。
一見緩やかな緑の坂が続き、城壁、そして半月の要塞が見え、

shinkaiが、映画に出てくるシーンの様ね、と言うと、ホントホントと周囲から。
騎乗の騎士がかっかっと馬を走らせる姿が思い浮かびます!
城壁から下を覗くと、谷間の集落とうねる道が見え、

奥に見える家々の姿も古い姿のままで、まるで時が止まっているかの様!

門内の道に戻り、坂道を上ります。

半円の要塞に見えた紋章。 この紋章はどの家系のか知りませんが、

きっと古くから見張り所があったこの地に要塞が築かれた最初の記録が12世紀。
この一帯を領有していたアッピアーノ公・Appianoの家臣である
ダ・ボゼーノ・Da Boseno家が住んでいた様子で、
その後アーヴィオの城を領有していたカステルバルコ家の元に。
13世紀グリエルモ・Guglielmo・カステルバルコとあり、カステルバルコ家が
歴史の表に名を出し始めての4代目、一番の隆盛を極めた時代で、
ヴェローナのサンタナスターシャ教会表の左側に、彼の棺があるのも知りました。
その後15世紀の半ば、マルカブルーノ2世・Marcabruno・カステルバルコという
逸材が出た時代に、北への領有をもくろむヴェネツィア共和国との間に、
1487年カッリアーノの戦い・Battaglia di Callianoが勃発。
逸材が出た時代に、北への領有をもくろむヴェネツィア共和国との間に、
1487年カッリアーノの戦い・Battaglia di Callianoが勃発。
この戦闘でヴェネツィア側は多大な死者と指揮者をも失う大敗を、という事も。
城塞自体は、時代と共に拡大し、備えも充実していった様子。
坂道を辿りつつ見る、中央の半月要塞と城壁。

城壁の中の道がかなりな上り坂である事が見えるでしょう?
ここで角を曲がり、

これが第3の門、城郭内への入り口の門。
跳ね橋が下りる様になっていて、右手前には警備兵達の詰め所があり、
その奥には、城壁外を巡る警備路が続いているのが見えました。

門はその都度開閉され、通る人物を時間をかけて鑑定し、
警備兵もかなりの数が詰めていたと。
警備兵もかなりの数が詰めていたと。
勤務は厳しいとはいえ、警備が暇な時間もあるわけで、はぁ、
石の椅子の座に刻まれた番目と、転がす鉄のサイコロ、トゥリオ・trioという
遊びをしていたらしいのが、城塞の修復の時に見つかったそう。
石の椅子の座に刻まれた番目と、転がす鉄のサイコロ、トゥリオ・trioという
遊びをしていたらしいのが、城塞の修復の時に見つかったそう。
じっと大人しくガイドさんの話を聞かず、何か見えるとつい横道にそれるshinkai、
これも横に見えた戸口から入ってみた、警備路の一部。
左にずっと城壁内の道が続いておりました。
左にずっと城壁内の道が続いておりました。

平面図を探しましたが見つからず、この写真で内部の様子が分かりやすいかと。

下左に見える道が駐車場から上ってくる道で、第2の門を入り、練兵場があり、
右の半月要塞の下に城郭内への門。
半月形の要塞は3ヶ所、入口、中央と、一番奥にあり、最初の半月要塞と
一番奥のは巡邏兵のパトロール道を通る事が出来ました。
ちょうど中程に、右奥に塔のある広い四角な広場が見えますね、
その手前に第4の門があり、広場の向こう奥にある部分が居住部で、
一番奥のは巡邏兵のパトロール道を通る事が出来ました。
ちょうど中程に、右奥に塔のある広い四角な広場が見えますね、
その手前に第4の門があり、広場の向こう奥にある部分が居住部で、
一番奥の半月要塞部に一段と高く見えるのが、古い城と呼ばれる部分。
全長250m、幅約50mの威容を誇ります。
城郭への入口である第3の門の中は、こんな風にカーヴを描いており、
ガイドさんの話によると、内部の様子が即見えない為の配慮と。

門の内側はまた中央が狭まり、広場の奥が見えない仕掛けですが、
この辺りはまだまだ、ずっと上り坂!

広場の奥に辿り着くと、左手に見える巡邏道入り口からぐるりと最初の半月要塞の
上も回って、戻って来れるコースが。

パトロール道から見る麓のボゼネッラの町、そして北への道。
次々と谷に山が張り出し、そこに連絡の見張り所、要塞があったという訳で、
お天気でなかったのが残念!

葡萄畑の棚つくりが見事に広がります。

広場の括れ部に見えるのは水はけの道で、真ん中に排水溝が見えますが、
あれは地下に天水の貯水槽があり、井戸水として使っていたのだそう。

真ん中と奥に黒々と見えるのは天然の岩場で、それを生かし城壁も造っていると。
半月要塞上のパトロール道から。

途中にあった銃眼、覗き窓から見る下の草地。下から見上げると細い狭い窓が、
実際はかなり広い部分が見えるのを発見!

奥の広い四角い広場と塔が見えます。

おっ、広場に寝そべる猫ちゃん、発見!


艶つやとした太めの猫ちゃんで、広場のバールが家の様で、我らが帰る時に
既に閉まったバールの前で、誰か開けてぇ、と待っており、親切shinkaiが
試みましたがダメ。 残念ねぇ、あんた今夜は野宿だよ。
既に閉まったバールの前で、誰か開けてぇ、と待っており、親切shinkaiが
試みましたがダメ。 残念ねぇ、あんた今夜は野宿だよ。
さて、第4の門を潜り、

四角い大きな広場に。 角に立つ塔の上は物見所であり、知らせの塔でもあり、
ここからインディアン式に、知らせが次々の塔に発せられたそうで、
またお天気が良いと、インスブルックからもこの塔が見えたと! 本当かや?!

地図で見る直線距離で約167kmと出ましたがぁぁ、う~ん、この城の塔が
見えるかなぁと、疑うshinkai。 皆さん、どう思われます?!
単眼鏡の出来たのは何年位でしたっけ?
そしてこの城塞の凄いのは、普通は外側の城壁にある敵に対して攻撃したり、
熱い液体を流したりする窓や落下口が、広場の中に向っても備えられている事!
ここまで敵が侵入して来ても、絶対交戦の構えなのですね。
熱い液体を流したりする窓や落下口が、広場の中に向っても備えられている事!
ここまで敵が侵入して来ても、絶対交戦の構えなのですね。
広場の外、城壁の外を巡る道。

広場からの門を潜ってくると、

ここは居住区として、16世紀の火事のあと再建され修復されたもので、
壁にはルネッサンス期の壁画も残りますが、


この角の部分や他も、これは単に年数を経て崩れたのではなく、
税金を払わずにいて、打ち壊しになった跡なのだそう!
税金を払わずにいて、打ち壊しになった跡なのだそう!

これには皆が、当時にも居たのかと笑いましたが、税金というよりも、
領主に払う年貢金でしょうか、払い逃れは許されなかったのですねぇ!
領主に払う年貢金でしょうか、払い逃れは許されなかったのですねぇ!
この一帯は大きな広場になっていて、多分公的行事の広場でもあり、
ご覧のように右にも左側にも建物が続いていて、
右の大きな建物上部には、多分城の歴史を見せる常設展会場が。

こんな兜なども見れた様子ですが、残念。

右側に井戸の部屋があり、これは城内にあった2つの井戸の1つで、
左上から広場などの雨水が流れ込み、濾過して手前の井戸に。
水が溢れる時は左の口から流れ落ち、壁際の排水溝にという仕組み。
左上から広場などの雨水が流れ込み、濾過して手前の井戸に。
水が溢れる時は左の口から流れ落ち、壁際の排水溝にという仕組み。

こちらは向かい側の建物にあった台所内の、パン焼き釜。

そして再び狭い通路と城壁の間を通り、

傍らには天井の低い牢の跡もあり、一列に見える四角い穴の跡が天井の高さ。

そして、最後の南側の半円要塞跡に。 広すぎて全部カメラに収まらず!

この部分が古い城と呼ばれる城郭跡。 多分一番最初は、この部分のみが
城塞だったのでしょうね。

ここの城塞パトロール道から見た下の平野の眺め。

これでヴェネツィア軍が攻め寄せた時いち早く発見され、次々と知らせが発せられ
ティロルの援軍が到着。 敗走して逃げる途中に、舟を繋いで作った
アディジェ河の橋が決壊、
指揮者のロベルト・サンソヴェリーノ・Roberto Sansoverino d'Aragonaも
落下して溺死、何千に及ぶ兵士が死亡、または捕らわれの身という、
ヴェネツィア側にとってまさに大敗の戦だったと。
ティロルの援軍が到着。 敗走して逃げる途中に、舟を繋いで作った
アディジェ河の橋が決壊、
指揮者のロベルト・サンソヴェリーノ・Roberto Sansoverino d'Aragonaも
落下して溺死、何千に及ぶ兵士が死亡、または捕らわれの身という、
ヴェネツィア側にとってまさに大敗の戦だったと。
またこの戦において、ランツクネヒトと呼ばれる、スイス傭兵を教師に編成された
ドイツ傭兵の集団が、初めてイタリア兵を相手に戦った、のだそう。
ドイツ傭兵の集団が、初めてイタリア兵を相手に戦った、のだそう。
この後も18世紀末には、ナポレオン軍相手の激烈な戦いがあり、
一旦は落ちた物の数日後にオーストリア軍援軍が到着という・・、
平和の世になり城の意義が薄れ19世紀には放棄という幾多の変遷を経て、
最後の持ち主であったトラップ家・Trappから1973年に自治県である
トレント県に贈与され、改修の後、一般公開されるようになったと。
一旦は落ちた物の数日後にオーストリア軍援軍が到着という・・、
平和の世になり城の意義が薄れ19世紀には放棄という幾多の変遷を経て、
最後の持ち主であったトラップ家・Trappから1973年に自治県である
トレント県に贈与され、改修の後、一般公開されるようになったと。
毎年夏には、様々な教育的回顧的催しもされる様で、

サイトはこちら https://www.buonconsiglio.it/index.php/Castel-Beseno
https://www.visittrentino.it/it/guida/da-vedere/castel-beseno_md_2626
https://www.visittrentino.it/it/guida/da-vedere/castel-beseno_md_2626
開館 5月から11月初めまで 10時から18時
冬季は土、日、または3月末から火曜~日曜 9時半から17時
冬季は土、日、または3月末から火曜~日曜 9時半から17時
訪問前にはサイトでお確かめを。
https://www.buonconsiglio.it/index.php/it/Castel-Beseno/informazioni/orari-e-biglietti
https://www.buonconsiglio.it/index.php/it/Castel-Beseno/informazioni/orari-e-biglietti
いやぁ、下から見上げた姿も素晴らしい威容でしたが、如何にも実戦配備の
大要塞で、訪問の価値ありでした!!
トレントに行かれるチャンスには、是非寄り道を。
大要塞で、訪問の価値ありでした!!
トレントに行かれるチャンスには、是非寄り道を。
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◆ ご案内 ◆
11月22日から27日まで、広島三越7階三越画廊での個展がせまり、
DMが出来てまいりました。
DMが出来てまいりました。


どうぞ、秋の良い日に広島、宮島観光も兼ねてお出かけ下さり、
ご覧頂けます様、ご案内ご案内申し上げます。
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それもご了承下さいませ。
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