日中はまだ陽射しが強く暑いものの、朝夕はすっきりと涼しく、秋めいて。
少しは写真の整理に励まないとと思い出し、昨年9月の末に行った、ははは、
フィレンツェを眺めています。が、
なにせ撮る時は狩と同じで、下手な鉄砲数撃ちゃ当る式に撮っていて、
いざ開くとその枚数だけにも恐れをなし、ははは、
漸くにドゥオーモの朝の様子と内部を纏めました。
いざ開くとその枚数だけにも恐れをなし、ははは、
漸くにドゥオーモの朝の様子と内部を纏めました。
宿がドゥオーモから2,3分の所にあり、時間はちょうど7時5分ほど、
街中も閑散とし、まだ観光客はおらず、ドゥオーモの足元も見えます!
街中も閑散とし、まだ観光客はおらず、ドゥオーモの足元も見えます!

空がここでも既に秋の空っぽいでしょう?

サンタ・マリーア・デル・フィオーレ聖堂、正面。

9年前に出かけた時の写真を眺めながら、自分なりにあれこれ
頭の中に構成していた地理と、再会して見た時の聖堂周辺の広さが、
随分違うのに我ながら驚きました。
つまり、実際にこのドゥオーモのある周辺がとても狭いのに、
聖堂が大きいので尚の事思ったのかも知れませんが、
その狭い地に、びっしりと詰まっている美の凄さに驚いたのでした。
聖堂が大きいので尚の事思ったのかも知れませんが、
その狭い地に、びっしりと詰まっている美の凄さに驚いたのでした。
花のサンタ・マリーア大聖堂正面 ・ フィレンツエ
聖堂前の階段上も、綺麗に水で洗われ掃除がすみ、

向かい正面にある洗礼堂にぴったり付いて撮っても、これでいっぱい!

まさにサンタ・マリーア・デル・フィオーレ・花のサンタ・マリーア聖堂の名に
相応しい美しさ! 尼僧さん達が何度か通り過ぎて行き・・、
相応しい美しさ! 尼僧さん達が何度か通り過ぎて行き・・、
正面扉。 漸くに観光客2人登場。

そして上部。

向かい側にある洗礼堂は、昨年秋は修復ですっぽり覆われていて、
これが大いに目算を外れたのでしたが、
ちょうど8年前の9月末の朝に撮ったのがありますので、それをどうぞ。
北側斜め前から。
北側斜め前から。

正面。 そうですね、本当に壁が汚れていたのですね。

洗礼堂の東の門ですが、「天国への扉」とも呼ばれるのは、
この扉に嵌めこまれた中央10枚+他の化粧版の美しさからで、
1401年のコンクールで選ばれたロレンツォ・ギベルティ・
Lorenzo Ghibertiの作品によります。

今回撮ったものの内から、下から2段目の右、ジェリコの壁の陥落

左、十戒を受けるモゼ。

扉の真ん中に並ぶ2人の頭部、左が作者のギベルティで、
右が息子でもあり協力者でもあったヴィットーリオ・Vittorio.

ですが、ここにあるのはコピー作で、ギベルティが1424年から28年間
精根傾けて作った本物は、ドゥオーモ博物館に。
精根傾けて作った本物は、ドゥオーモ博物館に。
洗礼堂の北側の扉の化粧版も彼の作というのですが、
チラッと見ただけで記憶に残らず、次回またのチャンスに。
チラッと見ただけで記憶に残らず、次回またのチャンスに。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 ・ フィレンツェ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466187077.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466187077.html
少しずつ明るくなって来ていますが、

聖堂の北側下部には、まだ暗さが残ります。

7時半前か右の扉が開き、警備員が現れ掲示板を出しますが、
観光客の入場は向って左の扉なので、また閉まり、

ふと気づくと、鐘楼の角に朝日があたるのが見え、

カルツァイウオーリ通り・Calzaiuoliの角の建物にも。
手前角は、ロッジャ・デル・ビガッロ・Loggia del Bigallo.

朝日を浴びる鐘楼。

聖堂南側から見るクーポラと、

朝日に煌く聖堂の頂上にある十字架。

南側の壁、余りにも広く大きいので、どう撮っても傾斜がつき・・。

朝日を浴び浮かび立つ、なんとも美しい鐘楼!

この撮っている位置の後ろに救急病院があり、救急車の係りの女性も
一緒に眺めていて、本当に美しいね!と言い合った事でした。
一緒に眺めていて、本当に美しいね!と言い合った事でした。
ではちょっとサンタ・マリーア・デル・フィオーレ聖堂に付いての基本を、
モンダドーリのガイドブックから。
モンダドーリのガイドブックから。
番号順に、
1. 中央入り口 常の観光客は左の扉から。
2. ネオ・ゴシック式の大理石のファッチャータ・正面。
ジョットーの鐘楼風模様ですが、装飾建築は1871~1887年に。
3. 鐘楼 ジョットーにより設計された85mの高さで、ドゥオーモより6m低い。
4. ブルネレスキ設計建築の丸天井。 当時に於いてかってなかった
大クーポラを、伝統の木製足場なしで建設。 頂上まで463段の
階段で上る、別の一回り小さな内側のクーポラを造り、
それが外側を支える仕組み。

4-2. クーポラの頂上。 素晴らしい街の景観が見られる。
5. 様々なサイズの煉瓦、曲面煉瓦とヘリンボーン(杉綾模様)を
組み合わせた方法で、ブルネレスキはローマのパンテオンを見て発見。
6. 内部の「最後の審判」のフレスコ画、ヴァザーリ作。
7. 大理石の床。 クーポラに上りながら16世紀制作の床の模様を
見ると、迷路風になっているのが分ります。
8. クーポラへの入り口、とありますが、現在入り口は反対側の北にあり、
ここは出口。
9. クーポラの真下の聖所、八角形。
10. クリプタ・地下への入り口があり、ここには現在の聖堂以前の、
4世紀に遡るサンタ・レパラータ教会の遺構が残ります。
5. 様々なサイズの煉瓦、曲面煉瓦とヘリンボーン(杉綾模様)を
組み合わせた方法で、ブルネレスキはローマのパンテオンを見て発見。
6. 内部の「最後の審判」のフレスコ画、ヴァザーリ作。
7. 大理石の床。 クーポラに上りながら16世紀制作の床の模様を
見ると、迷路風になっているのが分ります。
8. クーポラへの入り口、とありますが、現在入り口は反対側の北にあり、
ここは出口。
9. クーポラの真下の聖所、八角形。
10. クリプタ・地下への入り口があり、ここには現在の聖堂以前の、
4世紀に遡るサンタ・レパラータ教会の遺構が残ります。
聖堂の起工式が行われたのは、1296年9月8日。
その時にサンタ・マリーア・デル・フィオーレ・花のサンタ・マリーアと命名、
なんとも素晴らしい名前ですねぇ!
以前この場所にあったサンタ・レパラータ教会・S.Reparataの遺構は、
現在地下博物館として見学できますが、
その何倍もの大きさに、しかも2度に渡る計画変更で拡大され、
途中の中断も経ながら1380年に身廊が完成、
1418年にはクーポラを残すのみにまでに進行します。
で、この当時はこの大クーポラを如何に架けるかが問題だった訳ですが、
ブルネレスキ・Filippo Brunelleschiが解決、1434年8月30日に
頭頂部が閉じられます。
ブルネレスキ・Filippo Brunelleschiが解決、1434年8月30日に
頭頂部が閉じられます。
その後の頭頂部の上の明かり取り部分の完成は1461年、
そして天頂の球、金色ブロンズ製が取り付けられたのは1468年、
レオナルドの師ヴェロッキオ・Verrocchioに依ります。
そして天頂の球、金色ブロンズ製が取り付けられたのは1468年、
レオナルドの師ヴェロッキオ・Verrocchioに依ります。
つまり170年程の年月が掛かった訳ですが、
現在に残るルネッサンスの素晴らしい聖堂ですね。
現在に残るルネッサンスの素晴らしい聖堂ですね。
別の日の午後、ドゥオーモの内部に。

以前は左の扉から入ると、中は自由に行き来出来たのですが、
今回は、正面扉から奥にいわば3角形に入れない空間が作られ、
その分、逆に聖堂内が広く感じられました。
脇の床模様。

奥に進むにつれ、クーポラ内部の壁画が見えて来ます。
そう、ヴァザーリの「最後の審判」。


クーポラの真下の聖所、いわば内陣部分。

脇の壁に見えたダンテ像、「神曲」を手に持ち、
背景は「神曲」の図解とフィレンツェの街。

真下から見るクーポラ内部のフレスコ画。

今回はクーポラの上まで上がりましたので、写真整理が出来次第、
頂上からの街の眺め、近くからのこの壁画もご覧戴きますね。
内陣付近から見る、天井部と入り口扉周辺、そして床。

正面上のこの24時間時計がずっと好きだったのですが、
今回これはパオロ・ウッチェッロ・Paolo Uccelloの作品と知って、
嬉しくなりました、単純、ははは。


フレスコ画で出来ていて4,7m四方、1443年の作。
記録された支払額は、1443年の2月22日に時計周囲の頭部に
10リレ、4月2日に時計全体の装飾に、これの金額が分りません。
記録された支払額は、1443年の2月22日に時計周囲の頭部に
10リレ、4月2日に時計全体の装飾に、これの金額が分りません。
左の扉入り口付近にある、右の騎馬図もパオロ・ウッチェッロ作の、
フィレンツェの為に働いた傭兵隊長ジョン・ホークウッド・John Hawkwood
の記念騎馬図、1436年の作、8,2x5,15m.

当時大売れっ子で忙しかったウッチェッロは、3ヶ月で仕上げたのだそう!
最初はブロンズの騎馬像にするつもりだったのが予算不足となり、
ウッチェッロに依頼し、ブロンズ像らしい効果を狙ったと読んだ記憶あり。
で、現在見える周囲のグロテスク模様のエレガンテな額縁は、
1524年に修復したロレンツォ・クレーディ・Lorenzo Crediがつけたものと。
1524年に修復したロレンツォ・クレーディ・Lorenzo Crediがつけたものと。
左は、アンドレア・デル・カスターニョ・Andrea del Castagno描く、
ニッコロ・ダ・トレンティーノ・Niccolò da Tolentinoの記念騎馬図、
1456年作。
このニッコロ・ダ・トレンティーノという傭兵隊長は、ウッフィッツィ美術館の
ウッチェッロが描いている有名な「サン・ロマーノの戦い」の、
フィレンツェ側の隊長だったそう。
ニッコロ・ダ・トレンティーノ・Niccolò da Tolentinoの記念騎馬図、
1456年作。
このニッコロ・ダ・トレンティーノという傭兵隊長は、ウッフィッツィ美術館の
ウッチェッロが描いている有名な「サン・ロマーノの戦い」の、
フィレンツェ側の隊長だったそう。
で、この「サン・ロマーノの戦い」について、大変興味深い話のTV番組を
見ましたので、また纏めてみたいと思っていま~す。
見ましたので、また纏めてみたいと思っていま~す。
こちらもガイドブックの写真から、

上はドゥオーモの裏というか、クーポラのある東の外側の様子。
3つの飛び出した後陣が、内部にはそれぞれ5つの礼拝堂を持ちますが、
15世紀のステンドグラスは、ギベルティを初めとする他の作家の作と。
3つの飛び出した後陣が、内部にはそれぞれ5つの礼拝堂を持ちますが、
15世紀のステンドグラスは、ギベルティを初めとする他の作家の作と。
下の写真は、ドゥオーモの内部の床模様。
午後の半ばの、ドゥオーモの北側。

身廊から後陣部分がちょっと飛び出す手前に、
この扉があり、ここが現在クーポラへの上り口。

午後半ばに行くと長蛇の列、で翌朝8時半過ぎに行きすんなりと。
が、階段部分は何とかかんとかOKでしたが、へへへ、
薄暗いのが、目に故障を持つ身にはきつかったです!
入り口前の掲示板。

聖堂の図の赤点が現在位置で、切符売り場は洗礼堂の向かいに、
オープンは、月~金は8時半から午後6時20分
土曜は8時半から午後5時、 日曜祭日は上れません。
最後は、聖堂前にいたライオンみたいなワンちゃん!
一体何種だろ?! お母ちゃんが浮気したとか・・、ははは。

楽しんで頂けましたように!
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