さて漸くに写真の整理を済ませまして、へへ、2年越し、
今日のご案内はヴォルテッラの町の中心のプリオーリ広場・Piazza dei Prioriの
様子と、広場に面して立つ13世紀のプリオーリ宮・Palazzo dei Priori、
現市役所の内部見物を。
今日のご案内はヴォルテッラの町の中心のプリオーリ広場・Piazza dei Prioriの
様子と、広場に面して立つ13世紀のプリオーリ宮・Palazzo dei Priori、
現市役所の内部見物を。
写真はプリオーリ広場の東側と南側。東の建物に見える塔の名はちょっと面白く後程。

こうして眺めると表面は古い建物の面影を残しているのですが、外側にはたくさん
雑草も生えていて、ははは、内部は近代になって住居に改装されたり、
たくさんの事務所が入ったりしている様子で、ちょっと調べても建物の名前も出ません!
雑草も生えていて、ははは、内部は近代になって住居に改装されたり、
たくさんの事務所が入ったりしている様子で、ちょっと調べても建物の名前も出ません!
プリオーリ広場一帯の詳しいサイトを見つけましたが、建物の歴史と名前と共に、
町の歴史に関わる一族、人物の名がずらずらで、手に負えませんのでパスです!
町の歴史に関わる一族、人物の名がずらずらで、手に負えませんのでパスです!
東側の大きな建物と、その装飾。 内部はあれこれ公共の事務所に使われた事も
あるそうですが、こういう外はそのまま、というのも古い建物保存には素敵ですよね?!


こちらは広場の西を占めるプリオーリ宮、現市役所。 1208年に建設が始まり、
13世紀中頃に完成したもので、リッカルド・ダ・コモ・Riccardo da Comoの作と。

こうして見ると、フィレンツェのヴェッキオ宮に似ていると思われません?
が逆にヴェッキオ宮がこれをモデルにしたと言われ、確かにヴェッキオ宮が建設に
が逆にヴェッキオ宮がこれをモデルにしたと言われ、確かにヴェッキオ宮が建設に
かかったのは1299年、完成は1314年とヴォルテッラのよりも遅く、
トスカーナ全体で、政庁としての建設物ではこれが一番古いのだそう。
13世紀にはこのプリオーリ宮のみならず、町にたくさんの家々、塔を持つ家や貴族の
要塞風の住まいも作られた様子で、町の経済の発展もあったのと同時に、
13~14世紀にかけてはこの町も他と同様、皇帝派(ギベッリーニ)と
教皇派(グエルフィ)との抗争も激しかったと。
トスカーナ全体で、政庁としての建設物ではこれが一番古いのだそう。
13世紀にはこのプリオーリ宮のみならず、町にたくさんの家々、塔を持つ家や貴族の
要塞風の住まいも作られた様子で、町の経済の発展もあったのと同時に、
13~14世紀にかけてはこの町も他と同様、皇帝派(ギベッリーニ)と
教皇派(グエルフィ)との抗争も激しかったと。
そして1472年ヴォルテッラが自由都市からフィレンツェに下り、このプリオーリ宮も
大きな改修がされたそうで、どうやら手前にロッジャ、集会所があったのも打ち壊され、
右側にあった2つの入口も潰されたそう。
右側にあった2つの入口も潰されたそう。
上に見える塔は最初は木製だったそうですが、15世紀に今の形に、
そして建物上階のレース飾りも同時に。
そして建物上階のレース飾りも同時に。
右に切れてチラッと見える白黒の縞模様は、この背後にある聖堂への入り口がここに。
正面の壁にたくさん架かる碑、紋章は、この町の行政長官の物。


プリオーリ宮と呼んでいますが、プリオーリとは行政長官たちの事で、建物のまたの名は
カピターノ・デル・ポーポロ宮・Capitano del Popolo・民衆の長官といい、
やはりフィレンツェから派遣された行政長官を指します。
カピターノ・デル・ポーポロ宮・Capitano del Popolo・民衆の長官といい、
やはりフィレンツェから派遣された行政長官を指します。
建物の左右に位置するライオン像、右側は古く、左は新しいですね。


が、いずれもライオンはフィレンツェ領有のシンボル。
広場の北側はこの建物ですが、現在はヴォルテッラの銀行の建物に。

プリオーリ宮の前で演奏していたカップル。 お2人ともカッコ良いでしょう?!
でもね、演奏は下手だったんすよ。
でもね、演奏は下手だったんすよ。

広場の南にある建物には、この町特産のアラバスター・雪花石膏の展示会場があり、
その看板がかかります。
その看板がかかります。


アラバスターは大理石に透明度を加えた、という感じの石で、白さが輝く大変美しい物。
町の小路を歩いていてふっと見ると、窓の中に小さな工房があり、作品作りをしている
職人さんも見かけましたっけ。
町の小路を歩いていてふっと見ると、窓の中に小さな工房があり、作品作りをしている
職人さんも見かけましたっけ。
さて、ではプリオーリ宮の見学にどうぞ!

入り口を入ると交差ヴォルト・穹窿の天井にフレスコ画装飾で、
周囲の壁には所狭しとかっての行政長官たちの紋、碑が。

奥の隅には井戸も見えます。

この天井装飾の柄はshinkaiが大好きな物で、他の建物でも何ヶ所か見た記憶が
ありますから、案外当時のお決まりの文様だったのかも。


上階への階段を辿ります。

壁にある聖母像。

ここが大会議室・Sala dei Maggior Consiglio.
大変美しい装飾ですが、19世紀に改修されたものの様子。


これは部屋の後ろ側半分で、実は写真禁止と出ていたような気がしますが、
部屋の入り口にいた切符売り場の男性が、私の前にいたカップルとなんだかんだと
話しているのを良い事に、ははは、パシャパシャとやった次第。
部屋の入り口にいた切符売り場の男性が、私の前にいたカップルとなんだかんだと
話しているのを良い事に、ははは、パシャパシャとやった次第。
こちらが前半分で、きっと現在も何かの会議には使用されるのでしょう。

正面の「受胎告知」は14世紀のイヤーコポ・ディ・チョーネ・オルカーニャ・
Iacopo di Cione Orcagnaの作と言いますが、
積年の変遷で傷みが激しく、これは剥がされてキャンバスに移された物だそう。
Iacopo di Cione Orcagnaの作と言いますが、
積年の変遷で傷みが激しく、これは剥がされてキャンバスに移された物だそう。
右に見えるのは「カナの結婚」16~17世紀の僧侶・画家ドナート・マスカーニ・
Donato Mascagniの油彩と。
Donato Mascagniの油彩と。
部屋から見下ろす広場の様子、東南の隅。

確か隣の部屋も見れた気がしますが、記憶に残る物は無く、上の塔に上りに行きます。
が、階段の手前に赤いロープ、通行禁止のロープが張ってあり、どう行くのかと
切符売り場の男性に聞きに行くと、まださっきのカップルと喋っていてね、まったくぅ!
紐を外して通ってくれ、って!
が、階段の手前に赤いロープ、通行禁止のロープが張ってあり、どう行くのかと
切符売り場の男性に聞きに行くと、まださっきのカップルと喋っていてね、まったくぅ!
紐を外して通ってくれ、って!
そうそう、それで思い出しましたが、さっきのカップルは、確か入場料をまけろ!
というのがお喋りの発端だったと、ははは。
あの会議室は下から上ってきて覗いてみるのは無料で、入って見て上の塔に上がるのは
5エウロなんですね。 それで階段の手前に、そのまま無料で上がらぬ様にと
あの会議室は下から上ってきて覗いてみるのは無料で、入って見て上の塔に上がるのは
5エウロなんですね。 それで階段の手前に、そのまま無料で上がらぬ様にと
赤いロープがね!
上に上がると広い部屋で、見張りの若い男性が一人いて、
塔の上は狭いのでと、先の見物人が降りるのを待って、どうぞと。
塔の上は狭いのでと、先の見物人が降りるのを待って、どうぞと。
さて塔の上から、先ほどの広場の東南角の建物と、塔。
屋根が見えると、建物の厚みも分かりイメージが違いますね。

ほら、塔の上部に何か見えるでしょう?
何だろ?!と撮ったのがこれ! 子豚ちゃん!

もっとも「子豚」と分かったのは下の部屋の男性に訊ねてで、なぜ子豚が
ここにいるのかは、未だに疑問です。
今回これを書くのに、覚えていたのが確かなのか探し回りました!
上記した様に物凄く詳細なサイトが見つかり、確かにこの塔は男性が言った通り
「子豚の塔・Torre del Porcellino」と呼ばれているのも間違いなく、
上記した様に物凄く詳細なサイトが見つかり、確かにこの塔は男性が言った通り
「子豚の塔・Torre del Porcellino」と呼ばれているのも間違いなく、
しかも持ち主だった一族の名はトーピ・Topi・ネズミ(複)と判明!!
ですが1224年9月14日に、コムーネ(市)に売っている事も分かり、
売主はジュゼッペ・ディ・エンリーコの妻ゲラルデスカ・Gherardescaで、
続きのあれこれは省略し、トーピ・ネズミたち、という姓はエンリーコの妻の姓で、
この塔の家はきっと結婚の持参金だったのだろうと推察。
この塔の家はきっと結婚の持参金だったのだろうと推察。
ネズミの家に子豚?! 豚はネズミを食べちゃうから?!
歴史の片隅を突き、今回出てきましたのは、ネズミと子豚ちゃん!
ははは、中世は何が出てくるのか分からずで楽しいのですね。
ははは、中世は何が出てくるのか分からずで楽しいのですね。
mitsuさんからコメントを頂き、改めて「豚」に付いて調べましたら、捨てる所が無い、
と言われるほど有用な豚は、多産、肥沃、豊かさのシンボルである事が分かり、
なので、ネズミ家としても、一族子孫繁栄を願って子豚ちゃんの像を塔になのかも。
と言われるほど有用な豚は、多産、肥沃、豊かさのシンボルである事が分かり、
なので、ネズミ家としても、一族子孫繁栄を願って子豚ちゃんの像を塔になのかも。
広場南の建物の角とその奥の古い家並み。

南側。

奥の林の向こうに見える丸い塔は、
これ、メディチ家の要塞。

プリオーリ宮が改装されたのは、ヴォルテッラがフィレンツェに下った1472年と
書きましたが、それまでもヴォルテッラの町はフィレンツェに付くか、それとも
シエナやルッカと連携するかと、様々に揺れていた様子で、
それに最終的な断を下したのは、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、
偉大なロレンツォ・デ・メディチ・Lorenzo de' Medici,
彼は当時まだ23歳のフィレンツェのシニョーレ・領主。
彼は当時まだ23歳のフィレンツェのシニョーレ・領主。
その2年前にヴォルテッラ近郊で明礬鉱が発見されましたが、当時のフィレンツェで
盛んだった高級羊毛染色の色止めに必要な明礬は、国外からの高価な輸入品のみ
だったのが、近郊で採掘できるとなるとほって置く筈がなく、
盛んだった高級羊毛染色の色止めに必要な明礬は、国外からの高価な輸入品のみ
だったのが、近郊で採掘できるとなるとほって置く筈がなく、
当初ヴォルテッラ貴族間で争いの種となったのに、ロレンツォは一貴族インギラーミ・
Inghiramiの肩を持つ風を装い、割り込みます。
その命を持ち町にやって来たのが、フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロ・
Federico da Montefeltro、そう、ウルビーノにルネッサンス風宮廷を作り、
文化保護の代名詞みたいに伝えられるお方ですが、ははは、
Inghiramiの肩を持つ風を装い、割り込みます。
その命を持ち町にやって来たのが、フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロ・
Federico da Montefeltro、そう、ウルビーノにルネッサンス風宮廷を作り、
文化保護の代名詞みたいに伝えられるお方ですが、ははは、
報酬次第でどこででも働く傭兵隊長である彼は7000の兵を率いており、
町を鉄と火で破壊、残酷きわまる略奪をし、殆どの塔の家(貴族、金持ちの家)を
町を鉄と火で破壊、残酷きわまる略奪をし、殆どの塔の家(貴族、金持ちの家)を
打ち壊し、町を完全に統御する為に、メディチ家は大きな要塞を造ったという訳。
この後ヴォルテッラの町はフィレンツェの元に下り、フランス軍の下に入ったり、
またフィレンツェ大公国の元に。16~17世紀にかけ経済の落ち込みやペ
またフィレンツェ大公国の元に。16~17世紀にかけ経済の落ち込みやペ
ストの2度の襲来、旱魃と続き、人口がぐんと落ち込みますが、
19世紀になって岩塩の工業化、そしてアラバスターの仕事と漸くに繁栄を見て
19世紀半ばには、人口が1万1千人に。
19世紀半ばには、人口が1万1千人に。
現在も1万人ちょっとの人口の様ですから、あまりね・・!
塩田・サリーネ という名の町 ・ ヴォルテッラ近郊
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465893835.html
塩田・サリーネ という名の町 ・ ヴォルテッラ近郊
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465893835.html
再度塔の上からの眺めに戻り、 北から北西への眺め。


先日見て頂いたサン・ジミニャーノからの行程は、この眺めになるわけですね。



西に。 すぐ背後の聖堂と鐘楼、洗礼堂、そして西の眺め。


下の写真の中ほどに見える小さな町が、塩田・サリーネの町。
塔の天井には鐘が下がっていまして、

一人が通れるほどの狭い階段の上り口の周囲も、ご覧のように狭く、

それでも高上がり大好き人間は、上ってしまったらこっちの物よ!とばかりに、ははは、
あっちにこっちに喜んで撮っていましたら、
あっちにこっちに喜んで撮っていましたら、
下から「プリーズ! プリーズ!」と声がするのです。 でもまさか英語で呼ばれるのが
自分とは思わず、ははは、 暫くしてハッと時計を見て12時なのに気がつき、
そうか!!と階段を下りようとした途端、頭のすぐ上で「ガーン! ガーン!」と鐘の音!
正午の鐘が鳴るのを知らせてくれていたのでしたぁ。 ははは。
自分とは思わず、ははは、 暫くしてハッと時計を見て12時なのに気がつき、
そうか!!と階段を下りようとした途端、頭のすぐ上で「ガーン! ガーン!」と鐘の音!
正午の鐘が鳴るのを知らせてくれていたのでしたぁ。 ははは。
さてプリオーリ宮を出て、広場の東南角からの通り、プリジョーニ通り・
Via delle Prigioniを少し辿ります。
Via delle Prigioniを少し辿ります。

プリジョーニというのは監獄の意ですから、何かあるかと探しましたが、見つからず、
でもどこかこの通りに監獄があったはずですね。
でもどこかこの通りに監獄があったはずですね。
通りの名に相応しくない、はは、優雅で可憐な街灯と、

お高そうなワンちゃんの写真で、今回はお終いです。

ヴォルテッラの町は、鉄器時代には既に移殖が始まったといわれ、優に3千年を超す
歴史を持つ町で、取り分け名高いのはエトルスク文化の宝庫の町として。
歴史を持つ町で、取り分け名高いのはエトルスク文化の宝庫の町として。
ここのエトルスクの博物館は今回も訪問しましたが、収容品の素晴らしさもあり、
撮り過ぎ、いまだ写真整理が・・。
ご説明できるほどエトルリア文明に詳しくありませんが、
折角ですので何とか頑張って、ご案内したいと思っています。
次々回くらいにはなんとか・・、お時間を下さいませませ。
折角ですので何とか頑張って、ご案内したいと思っています。
次々回くらいにはなんとか・・、お時間を下さいませませ。
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