今日のご案内はトスカーナはヴォルテッラ・Volterraのテアトロ・ロマーノ・
Teatro Romanoです。
Teatro Romanoです。

ヴォルテッラの町は、シエナからポッジボンシを通って西に約54km、
約1時間の距離にあり、
約1時間の距離にあり、
町の地図をどうぞ。 緑の線で囲った中心部、そして町の北側、
中世に建設された市壁の門外に出た傾斜地に位置します。
中世に建設された市壁の門外に出た傾斜地に位置します。

テアトロ・ロマーノの隣の門の名はポルタ・フィオレンティーナ・Porta Fiorentina、
町の有名なエトルスクの門・アルカ・エトルスカは町の南側に、
エトルスク博物館は町の東側に。
町の有名なエトルスクの門・アルカ・エトルスカは町の南側に、
エトルスク博物館は町の東側に。
町に到着しホテルにチェックインした後、中心部を通りぬけ、このテアトロ・ロマーノに
来た時は中に入らず、上の道側から覗く形だったのですが、
ちょうど夕暮れ時の陽が射しこみ、素晴らしかった!
来た時は中に入らず、上の道側から覗く形だったのですが、
ちょうど夕暮れ時の陽が射しこみ、素晴らしかった!
上からの眺めはほぼ全体が見れる高さで、真ん中からこちら半分がテアトロ・ロマーノ・
ローマ期の劇場跡で、向こう側はその後に造られた浴場跡。
ローマ期の劇場跡で、向こう側はその後に造られた浴場跡。



現在残るローマ期の劇場跡では、大変に保存の良いもののひとつだと。
翌日改めて見学に出かけました。 23年前に一度来た事があり、その時の印象が
強く残っていたのはやはりこの遺跡で、わぁお、ローマ遺跡がある!と
無知度が大きかったshinkaiはひどく驚いたのでした。
なにせローマ遺跡が残っているのはローマだけ、という程度の認識でしたし・・、ははは。
以前の訪問時はまだ整備されておらず、入場料もなしでしたが、はは、
今回はちゃんと切符売り場もあり、5エウロ、道を辿って入っていくとこの様に。
少し曇り空で、写真の発色が悪いのが残念。
今回はちゃんと切符売り場もあり、5エウロ、道を辿って入っていくとこの様に。
少し曇り空で、写真の発色が悪いのが残念。

観客席の傾斜はギリシャ期の劇場のように、自然の土地の傾斜を利用したもので、
その観客席の上側に13世紀町の城壁が建設され、市壁の向こうに町の家並み。
その観客席の上側に13世紀町の城壁が建設され、市壁の向こうに町の家並み。
平面図を見つけましたのでどうぞ。
1.いわば天井桟敷に当たる部分。観客席に連絡する11の入り口から行けたそう。
2. 観客席 上等席は下から10列、並席は上の9列で、
座席の石はいずれもピニャーノ・Pignanoという当地産の凝灰岩。
3. オーケストラ席 が、このヴォルテッラでは町の著名人達がここを占領していたそうで、
オーケストラと合唱隊は説教壇、と書いてあるので舞台横にでも押込められた様子。

4.舞台前部
5.La fronte-scenaとあり、どう訳したら良いのか分からず、
後ほど復元予想図をご覧頂きますね。
6. 柱廊 これは劇場背後の両側に後に建設された物で、後陣部が飛び出した形。
7.浴場部分
5.La fronte-scenaとあり、どう訳したら良いのか分からず、
後ほど復元予想図をご覧頂きますね。
6. 柱廊 これは劇場背後の両側に後に建設された物で、後陣部が飛び出した形。
7.浴場部分
遺跡内部には入り込めず、観客席の上側の通路から見渡す感じで、移動します。

今見える左の建物の壁と円柱の2階建て部分が、上の説明5の部分で、
右側は崩壊していますが、回収した石材で再建可能とか。
右側は崩壊していますが、回収した石材で再建可能とか。
その手前に舞台前部4があり、その手前真ん中に白と茶の石の部分が少し見えるのが、
ここがオーケストラ席なのが、ヴォルテッラでは町の権力者達が居座ったという、ははは。
ここがオーケストラ席なのが、ヴォルテッラでは町の権力者達が居座ったという、ははは。
舞台部で残っている上部と、右側の遺跡部、
舞台部の高さは15,5m、前面の長さは35,98mあるそう。



こうして見るだけではピンと来ませんが、復元予想図を見つけましたので、どうぞ。


素晴らしいですねぇ! というか、素晴らしかったのですねぇ!!
観客席の上に見える布製のテントは、座席全部を覆える事が出来る様だったのが、
支え部分の発掘で分かっているそうで、観客席は全部で1800~2000人収容できたそう。
イタ版ウィキには、最高で3500人と書いてありましたが。
この大きさの劇場としては、トリエステにあるのとほぼ同じと。
支え部分の発掘で分かっているそうで、観客席は全部で1800~2000人収容できたそう。
イタ版ウィキには、最高で3500人と書いてありましたが。
この大きさの劇場としては、トリエステにあるのとほぼ同じと。
この劇場が造られたのは、紀元前1世紀から紀元後42年に存在した、この町の
有力なカエチナエ・Caecinae家の2人、いずれも執政官であったアウロ・カエチナエ・
セヴェーロと、ガイオ・カエチナエ・ラルゴの意思による物だそうで、
ローマ皇帝で言うと、ちょうどアウグストとティベーリオの時代に当ります。
有力なカエチナエ・Caecinae家の2人、いずれも執政官であったアウロ・カエチナエ・
セヴェーロと、ガイオ・カエチナエ・ラルゴの意思による物だそうで、
ローマ皇帝で言うと、ちょうどアウグストとティベーリオの時代に当ります。
が、3世紀の終わりになって劇場の方が放棄された後に、後部に浴場施設が
造られたのだそう。
造られたのだそう。
観客席上部。

観客席上部の後ろを通る通路。 この上に13世紀に町の市壁が造られた訳で。

遺跡の草原に咲く野草。

劇場背後に広がる浴場跡、楕円の部分にはモザイクも見え、そして円柱の並び。
柱廊状に円柱が並んでいるので、浴場は内庭にあったのですね。



この遺跡が発掘されたのは1950年代、町の考古学者であるエンリコ・フュゥーミ・
Enrico Fiumiが指揮したもので、当時の町の精神病院の入院患者が
幾人か働いたそうで。
Enrico Fiumiが指揮したもので、当時の町の精神病院の入院患者が
幾人か働いたそうで。
市壁の上から覗く観光客。 ただ見だぁ! ははは、shinkaiも昨日しましたけど。

夜のテアトロのイルミネーションを。

この遺跡の舞台を使っての国際フェスティヴァルが毎年夏に行われるそうで、
興味深い事でしょうね。
興味深い事でしょうね。
テアトロ・ロマーノの開場は
3月14日から11月1日まで 毎日 10時半から17時半
11月2日から3月13日まで 土曜と日曜、祭日の10時から16時半
3月14日から11月1日まで 毎日 10時半から17時半
11月2日から3月13日まで 土曜と日曜、祭日の10時から16時半
ところで、このテアトロに付いて調べていて、関係者達はさぞや小躍りしてるであろう、
昨年7月の新発掘のニュースを見つけました。
昨年7月の新発掘のニュースを見つけました。
場所はテアトロ・ロマーノの横に位置する町の門から下って行った北にある、
町の墓地に近い場所で、なんとローマ期のアンフィテアトロ・円形劇場、闘技場と
見られる楕円形の遺跡の壁が見つかったのだそう!
町の墓地に近い場所で、なんとローマ期のアンフィテアトロ・円形劇場、闘技場と
見られる楕円形の遺跡の壁が見つかったのだそう!
歴史に完全に埋没していたこの発見は、偶然にもこの土地で水道工事をしていて
見つかったもので、80mの長さの壁と2つの椅子。
工事の手法はテアトロ・ロマーノと同じもので、剣闘士たちの闘技場と見られ、
この100年間における最重要な再発見と見られると。
さて、これからどの様に発掘するか、どの様に資金を見つけるか、
さぞ関係者達は大変でしょうが、ははは、水道工事の方はどうなりますか?!
工事の手法はテアトロ・ロマーノと同じもので、剣闘士たちの闘技場と見られ、
この100年間における最重要な再発見と見られると。
さて、これからどの様に発掘するか、どの様に資金を見つけるか、
さぞ関係者達は大変でしょうが、ははは、水道工事の方はどうなりますか?!
所でテアトロ・ロマーノのすぐ横にある中世の市壁の門ポルタ・フィオレンティーナも
一緒にご案内しますね。
一緒にご案内しますね。
城壁が造られた13世紀に一緒に造られた門で、外からの様子はこんな感じで、


続く城壁はこういう様子。 背は高いのですが、門の壁をご覧になっても分かるように、
この時代の中世の壁はそんなに厚くありません。

最後はテアトロの背後の城壁上から見渡す北の平野を。
夕陽を浴びて、谷にうっすらと靄が湧いているのです。


丘の向こう、平野の端にたつ教会サン・ジュスト・エ・クレメンテ・
San Giusto e Clemente.
San Giusto e Clemente.

ヴォルテッラに行くのにサン・ジミニャーノからの道を行き、ちょうどこの教会の
裏手を通り、教会に迫って切り立つ崖があり、その年の春の大雨で落ちたのかと
気になったのでしたが、
ウィキのサイトに写真がありましたので、追加を。
これです、凄いでしょう?!
これです、凄いでしょう?!

この一帯はバルツェ(複)・Le balze・崖、絶壁と呼ばれる独特の地形で、
雨が粘土の層まで浸み込みやすく崩れるのだそう。
現在の教会はサン・ジュスト・ヌオーヴォ・新サン・ジュスト教会と呼ばれもする
18世紀の物だそうで、それ以前の教会は17世紀のバルツェで飲み込まれたのだそう!
という事なども知りましたが、
雨が粘土の層まで浸み込みやすく崩れるのだそう。
現在の教会はサン・ジュスト・ヌオーヴォ・新サン・ジュスト教会と呼ばれもする
18世紀の物だそうで、それ以前の教会は17世紀のバルツェで飲み込まれたのだそう!
という事なども知りましたが、
いやぁ、こういう土地に再再建するというのも、キリスト教社会というのは凄いなぁ、
と思った事でした。
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