・ サン・ガルガーノ修道院 

今日のご案内は、トスカーナはシエナの街から南西に約35kほどの位置、
平野に聳えるサン・ガルガーノ修道院・Abbazzia di San Galganoを。

サン・ガルガーノ修道院の名を覚えておられずとも、この大きな廃墟風教会の
写真はどこかでご覧になられていると。
そう、タルコフスキー監督の映画「ノスタルジア」にも登場した、あの大聖堂です。

ちょうど訪問した日は生憎の雨、しかも本格的な降りでして、
少しでも乾いた写真をと、はは、wikipediaから拝借のもの。

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今回は少し写真が多くなりましたが、ごゆっくりどうぞ!



地図をどうぞ。
盆地風のメルセ平野・Merseに位置し、西に見えるキュズディーノ・Chiusdino
の町が最寄で、ここで修道院に名を冠された聖ガルガーノが生まれています。

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南東にチラッと見えるモンタルチーノ・Montalcinoの町の南には、
これも有名なサンタンティモ修道院・Abbazia di Sant'Antimoが。

サンタンティモ修道院 ・ Abbazia di Sant'Antimo
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461363897.html

サンタンティモ修道院再訪 ・ Abbazia di Sant'Antimo n.1 
http://www.italiashiho.site/archives/20170414-1.html

サンタンティモ修道院再訪 ・ Abbazia di Sant'Antimo n.2
http://www.italiashiho.site/archives/20170415-1.html



さて当日は朝からかなりの降りの中をちょっと山越えをし、平地のこんな道に、

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近くのアグリトゥリズモの横に駐車し、糸杉並木が続く修道院への長い道を。



正面の扉と、そのアップ。

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そして円柱と柱頭飾り。 シトー派修道院独特の、簡素な装飾。

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正面脇の2つの扉の位置からは中が覗けるのですが、覗こうと近づいた所で、
草むらの水溜りで既にびちゃびちゃとなり・・!

もう一度聖堂を見晴らす感じに道を辿り、

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正面の南に延びる建物、往時の威容も忍ばせます。

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切符売り場の横に広がるカピートロの間・Sala di Capitolo.
質素なフレスコ装飾ですが、この廃墟風の中で見ると、少しホッとする感じで・・。

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カピートロというのは、本の章とか節の事を言い、この部屋に毎日修道士達が
集まって修道院の会則の一章を読み、様々な話し合いもされたのだとか。

       

これは隣接の部屋で、面会所・Parlatorioなんだそう。

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他にもスクリプトリウム・scriptoriumという筆写室も見れたようなのですが、
見逃し残念! 2階には修道士達の個室と礼拝堂があるのだと。

一体全盛期には何人程の修道士達が居たものでしょうか?
今回数字が見つけられませんでしたが、またのチャンスに。


    
もう一度建物の外にでて、聖堂に向いますが、窓の飾りが残っている部分も見え、

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入り口脇にあった平面図で、奥行き71m 幅21mの3廊式、
並ぶ円柱は左右に8本ずつ。 右横に見える1の部分が上のカピートロの間。

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聖堂内に入った途端、目に入る水溜り、雨だれ!! ああ!
そうだった、ここの天井は抜けているんだったっけ・・!

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左に見える鉄柵部分が入り口で、左の側廊側を入り口に向き、
       
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写真手振れご容赦! 傘を傾けて撮るのに、やはり焦ったようで、
今回はピンが甘いと思っても、雨が降るのが写っていたりで・・、



聖堂内入り口付近の、唯一天井が残っていた部分。 アーチの組方も良く見え。

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はい、ここだけ地面が乾いていたのですが、ここに引っ込むと何も見えず、撮れず。

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内陣部分から、最初に見た入り口を振り返り。
見事に主廊部の天井が落ちていて・・。

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このサン・ガルガーノ修道院が建設に取り架かったのは1218年で、
完成したのが1288年。

名が冠されている聖ガルガーノは、上記した様にすぐ近くのキュズディーノの貴族の出、
騎士で、正確な姓も記録には無い様ですが、ガルガーノ・グイドッティ・Guidottiと。
1148年頃に生まれ、1181年11月30日に没。

彼の時代はトスカーナ一帯に抗争が絶えず、このキュズディーノ周辺はヴォルテッラの
司教の下にあり、当時はシエナ共和国とのいわば境界線で、争いも絶えなかった事と。

こんな時代に青年期を過ごしたガルガーノが、放埓で自堕落な我が身を恥じ、
夢のお告げに導かれ隠者の生活に隠遁した後、亡くなったのですが、

ヴォルテッラの司教がすぐに1185年頃に礼拝堂を建設、この司教の後継
イルデブランド・パンノッキエスキ・Ildebrando Pannocchieschiが修道院建設を。

ガルガーノは既に生前シトー派との繋がりがあったようで、計画は大きな弾みがつき、
シエナのたくさんの貴族たち、フランスのシトー派教会からの直接の参加もあり、
1201年には既に修道士たちの最初の活動が。

建設も迅速に進み、1227年にはすぐ傍らの山の上の教会と、これは後ほどご覧に、
下の教会も出来、1228年には病室が、翌年には修道士達のの部屋も終了という、
一大修道院の発足でした。



逆に入り口扉近くから、内陣方面を。

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廃墟に相応しい雨の風景、と思ってやって下さいまし。



内陣部にある祭壇部分かな?

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見上げる主廊部分の壁。
この高さ、この荘厳さ! 当時の威容を想像します。

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南仏のセナンク修道院もシトー派修道院ですので、
内部の厳格で簡素な様子が少しでも偲ばれるかと・・。



大きな疑問は、これだけ素晴らしい見事な大聖堂が、
どうしてこれほどな廃墟になったのか、と言う事ですが、
読んでみると、意外にこの聖堂の命が短かった事を知りました。
       
1262年に殆どの工事が終了し、1288年には聖別式も。

修道院に集まるたくさんの修道士達の働き、財産の寄付、神聖ローマ帝国
皇帝のエンリコ5世、オットーネ4世、続くフェデリコ2世からも大きな贈与が続き、
13世紀の半ばにはトスカーナにおけるシトー派の最大の修道院となったと。

沼地を開拓し、川の流れを利用した水車を持ち、毛織物の縮絨機も、
製鉄所も修道院内に。
建築家彫刻家のニコラ・ピサーノと契約を結び、シエナのドゥオーモの説教壇を作ったり、
シエナ共和国との結びつきも深くなり、修道士がカメルレンゴ・camerlengo・
この場合は財政管理者と、に指名されるようにまで。

14世紀に入り、事情悪化が始まります。
まず1328年の飢饉に続き、1348年のペストの蔓延と修道院の発展が止まると共に、
当時一帯の修道院や荘園がそうであったように何度も略奪され、

現在フィレンツェの花の大聖堂に騎馬像の肖像があるジョン・ホークウッドなど、
ご丁寧に2度も侵入を!

こうしてこの世紀の末には、8人の修道士が残るだけになったと。
15世紀に入っても状態は好転せず、修道士達はシエナに建物を建設し引越し、
修道院を放棄する事に。

ですがまだ建物類は健在ですから、その所有権を巡りシエナ共和国と教皇との
抗争が始まり、1506年には教皇より聖務停止を命じられますが、
平常通りの聖務遂行で粘るシエナ共和国。

が1503年より修道院を預かっていた僧の一人が、悪辣にも屋根を覆っていた
鉛を引っぺがし売り払うという・・!
これで一挙に建物自体の衰退が始まり、1576年には修道院に住むのは、
僧服もつけていない修道士が1人だけとなり、窓のガラスはすべて割られ、
僅かに病室のあたりのみに残る有様に。

衰退はどんどん進み、1781年にはアーチが崩れ始め、1786年には稲妻に
やられた後に鐘楼が崩れ、13世紀からの残った大鐘は、溶解され青銅として売られ、
遂に1789年、最終的に教会としての神聖を失う結果に。

まさに失礼な言い方なれど、あがきは長かったものの、
これだけの聖堂が活動したのは、僅か2世紀間なのでした。



側廊側のアーチと、円柱角柱と柱頭飾り。

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壁側の柱の足元。

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外に出て、後陣の後ろ側からの眺めと、

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ウィキから拝借の写真で、後陣の上空から。

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19世紀の終りから保存への研究も始まり、1926年新しい建設はせず
残った部分を保存、という修復が始まり、現在に至っているとの事。



後陣の後ろから見える上の教会、通称ロトンダ・Rotondaと呼ばれる
モンテシエピMontesiepiのエーレモ・eremo・隠所。

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ぬかるみの道を、半ばやけくそで、ははは、岩に刺さった剣を見たさに、
も一つ頑張って、ははは、上ります。



ぐるっと後ろを回る感じで辿りつくと、なんと車が止まっているではおまへんかぁ!
なんだぁ、車で来れたんかいなぁ!!

いや、中世の巡礼さの謙虚さを見習い、
はい、こちらが山の上のエーレモ、ロトンダでございます。

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下の聖堂の建設様式にも、シトー派の様式に則った上にエトルスクやケルト、
テンプル教団の匂いがある、というのですが、ここもまさにその象徴なのだそう。



円形の主体に、今右奥に人が見える玄関の張り出し部分、そして私のいる
手前奥に張り出した四角い礼拝堂があり、真ん中に見える透明の覆いの中に剣!

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実際はかなり暗く、写真を見て初めて、あ、猫ちゃんが居たんだ、と気が付き残念。



ぐるぐるとバウムクーヘン式の天井! 色は煉瓦の赤茶と石の白。 
正面下に祭壇用のテーブル。

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サン・ガルガーノが岩に突き刺したと言う剣。

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彼は大天使ミケーレのお告げに導かれ、このモンテシエピに辿りつき、ここを隠所に
定めますが、十字架にする木が無く、岩に己の剣を突き刺し十字架に見立てた、
というのが、1180年のクリスマスの日の事。

ですから、神に誓いを立て隠者の生活を始めて後、僅か1年ほどで亡くなった事に・・。

伝承によると、彼を妬む仲間が留守の間に引き抜こうとするもダメで、
その悪さの報いは彼ら3人に下り、川に溺れ、稲妻に撃たれ、狼に腕を食われたり!
戻った彼は折れた剣を見て悲しむものの、お告げにより繋ぐとピッタリと合い、
また一本の剣になったのだとか、はい。
      


傍にあった小さな説明には、
 このモンテシエピの頂上にあった岩に、1180年ガルガーノ・グイドッティが
 平和と贖罪のシンボルとしてあるように剣を打ち込んだ 

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サン・ガルガーノのあれこれの逸話を読みながら、やはり騎士道物語で有名な
アーサー王や、裕福な商人の家に生まれ、騎士になりたかったものの転向した
サン・フランチェスコとの共通点を思います。

中世に在って、騎士道に疑問を感じる人々も多かったでしょうし、案外ガルガーノの
選んだ道は内心密かに賞賛され、この聖堂の発足が大変順調だったというのも、
その辺りからの援助も大きかったのかなとも思いました。
       
ところでこの剣の実証がパヴィア大学の教授によって行われ、12世紀の武器で
ある事が証明されたのだそう。
で、その下に小さな字で、
  1924年頃まで、この剣は岩の割れ目に突き刺されており、抜く事ができた、と!  
  ワシャ知らん。



円形の主体から左奥に突き出す形の小礼拝堂、

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ロレンツェッティの礼拝堂と呼ばれているのだそうで、暗く、
目いっぱい露出を上げて撮ると、こんな天井画。

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左に多分聖母に聖人達の祭壇画があるのでしょうが、
アンブロージョ・ロレンツェッティの作とは知らず、故障持ちの目では到底見れず・・!



ぐちゃぐちゃに濡れた足で、戻りは車の通り道を。 距離は長いものの歩くのは楽で、
      
畑の向こうの聖堂を見つつ、

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道脇の畑に穂を持つ作物、これは何でしょうか?
雨に煙る風景の中、畝の間に咲く黄色い花が鮮やか。

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さて、正面近い位置から、煙る聖堂をもう一度。

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聖堂・修道院は毎日オープン、9時から19時、
冬季11月から3月は 9時半から17時半 だそう。



最後はサイトから拝借の写真で、月夜の聖堂をどうぞ。

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長いお付き合い、有難うございました!

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