・ n.3 ポンペイ遺跡 ・ パン屋、ルパナーレ、フォーロ

ポンペイ遺跡のご案内3回目、今日のメニューは、まずパン屋さんを、
そして皆様お待ちかね(であろう)ルパナーレ、はは、
はい、ポンペイの代名詞にもなりそうな有名な娼家を。

そして、町の政治経済活動の中心広場で、庶民の集会場でもあった
フォーロの周辺あれこれを。では、ごゆっくりどうぞ!

写真は、フォーロの北側にある円柱の並び。
こうして見ると、北イタリアはフリウリのアクイレイア、ローマ遺跡ではローマに次ぐ
規模、と言われるアクイレイア・Aquireiaにもそっくりなのがありましたっけ。

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アクイレイア・Aquileia と グラード・Grado
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463998126.html

アクイレイア ・ ローマについで栄え、そして衰退の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462970421.html
       
n.2 アクイレイア と、 アルティーノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462970554.html



地図をどうぞ。 先回は、40.公衆浴場スタビアーネまでご覧頂きましたが、

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38.パン屋・Panificio
39.ルパナーレ・Lupanare 娼家
6.フォーロ・Foro
8.エウマキアの建物・Edificio di Eumachia
9.ヴェスパジアーノ神殿・Tempio di Vespasiano
11.市場・Macellum
12.ジュピター神殿・Tempio di Giove
13.穀物倉庫・Granai del Foro
14.公共計量所・Mensa Ponderaria
69.名誉門・Arco Onorario



日常生活に欠かせないパン屋さんですが、これはアッボンダンツァ通りで見かけた
小さなパン屋。 手前に見える砂時計型が粉挽き臼で、右後ろにパン焼き窯。

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こちらはパン屋の想像図。38.パン屋・Panificioの写真に重ねた物で、

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経営者は多分Popidius Priscusという人物で隣の家に住み、
解放奴隷を使ってパン屋を営業していたと言い、これが当時は普通で、
ポンペイの町に34軒あったそう。

以前は小麦粉をそのままお粥式に食べていたものが、紀元前2世紀頃
パンがローマ人の間に普及したのだそうで、窯は薪を燃やす現在とほぼ同じ形。
ですが、粉はパン屋で挽いていたのですね。 見える砂時計型のが粉引き臼で、
下の基礎部分は地面に埋め込まれ、上から小麦をいれ、見えている穴に
横棒を通し回す仕組み。

臼に使われた石の材料は溶岩で大変固く、小麦を引いた時に臼自体の石が
破片を出す事は無いのだそう。

このn.38のパン屋には、品を売るカウンターが無いので、多分大口の顧客に
売っていたか、または解放奴隷の徒歩販売を使っていたのだろう、と。

当時のパンの形は、想像図の右の籠の中に見える、丸くて8等分に
分け目が入った形で、実際に炭素化したこの形のパンが発掘されているそう。



で、40.公衆浴場スタビアーネの西角の道を北に辿りますが、
これは壁に嵌め込まれていた飾り。 単なるレンガ壁にしておかない美意識
というか、こんな細工を頼める余裕があったというか・・。

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この道は、横断歩道の石も2つと少し狭めですが、それでも建物脇の歩道は
ちゃんと設えていますね。
で、この道の名は、ルパナーレ小路・Vicolo del Lupanareで、

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39.ルパナーレ・Lupanare・娼家でございます。
近年修復されたという事で、2階部分もきちんしていますが、見学は1階のみ、

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これはサイトからの写真で、入り口部分からの様子。 写真に見えるよりも狭く、
見学は入り口から奥への一方通行で、左奥の扉から外に。

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部屋数は一階に5部屋とトイレ、2階にも5部屋あり。 



部屋の上部分に描かれている絵が、メニュー代わりと言われる、有名な物で、

最初は写して来たのを全部見て頂こうかと思ったのですがぁ、はは、
・・まぁ、絵の保存も良く、良く写ったのを3枚どうぞ。

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女性がブラジャーというか、ビキニの上を着けているのが興味深いですね。    
「ルパナーレ」の名の由来ですが、ルーパ・雌狼が、ラテン語で売春婦を
意味するそうで、

ポンペイの町には、約25の娼家があったと言いますが、人口約12000の
町にしては数が多いといい、う~ん、私めには多いかどうか見当が付きませんが、
まぁ、人の往来の多さもあったかも知れず、
きちんと届を出していた、という事かも知れず・・。

大概が食堂の裏や2階の一部屋が充てられていた規模だそうで、
ここのは、きちんと組織された物なのだそう。
経営者の名も分かっていて、アフリカーノ・Africanoとヴィットーレ・Vittore、
2人で運営するこの宿は大変繁盛していたそう。



小部屋の中の様子をどうぞ。

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狭いのと、2枚目のなんぞは体の筋でも違えそうな狭さ! と、絵にある様な
柔らかそうなベッドではなく、壁と同じ様に石造りなのに驚き!
で、この上にマットレスを置いていたそうで、

部屋の木の扉には、女性の名と、メニューの値段、そして現在使用中、
の札があったそうで。

働く女性たちは奴隷身分の、多くはギリシャとか中近東からで、そして自由民の
売春婦もいて、ここの2階の部屋は、狭い外階段で直接テラスに上り、
そこから各部屋にという造りになっていて、部屋も下よりも広く、メニューの絵もない、
つまり1階より少し高級な貸し部屋になっていたのだそう。

で、そのお値段ですが、2~8アッシ・assi だったと言い、ワイン1杯が1assiと言い、
・・あのう、値段安すぎませんかぁ?!と言いたくなりますが、
おまけに奴隷身分で、稼ぎは全て主人の懐に入ったのだそうで・・。

アッシという貨幣単位ですが、先回簡易食堂テルモポーリオの所で、
カウンターの壺の一つが売り上げの金庫代りにされていて、
683セステルツィ(Sesterzioの複)入っていたと書きましたら、
ophthalmosさんが、1セステルツィオが大体現在の価値で400円程度、
最上級のワインが1杯飲めたそう、と教えて下さり、
       


アッシ(asseの複)との関係を調べましたら、サイトにこんな分かりやすい図が。

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ウィキペディア様、いつも有難うございます!
次回にも、僅かながら寄付をさせて頂きますですです。

貨幣価値はその時代によってずいぶん違うにせよ、
ローマ貨幣の価値関係は、4アッシが1セステルツィという事で、
普通のワイン1杯が1アッセで、最上級が1セステルツィオ、というのも納得。
が、それにしても女性の値段が安すぎる気がしませんかぁ??!!



そして有名な落書きですが、これもサイトからで、勿論ルパナーレの壁の物!

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少し訳してサイトにあるのを読んでいると、まったくもう、いつの時代の男性方も
変わらぬなぁと率直な感想で、ははは、大いに笑わせて頂きました。

確認されたのが134もあるそうで、中にはジュリアス・シーザー並みに、
「俺は来た、やった、帰った」という知的なのもありますが、ははは、
「俺の値段に、全部の男のも含めやがって」という文句もあったり、ははは、
中には、その落書きにまた応えるのがあったりだそうで・・。

まぁ、落書きでうっぷんを晴らせた、というのは、読み書き出来た、
ということの証明でもありますね。



最後のこれは、通路の奥にあったおトイレ。 下に桶でも置かれ、
洗濯屋がリサイクル回収にね!

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という所で、すっきりの青空、深呼吸をどうぞ! ははは。
6.フォーロ・Foroに参ります。

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ガイドブックより、フォーロの南側より全体を。

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そして、その想像図。

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正面奥が12.ジュピター神殿・Tempio di Giove.
これは紀元前2世紀に建設の、町で一番大きな重要な神殿で、基礎部が高く、
石段を上る様な造りになっていて、

ローマ征服後もカピトリウム・Capitoliumと呼ばれ、ジュピター、ユノー、
ミネルヴァの神殿となったものの重要な価値は変わらずにいたのが、
62年の大地震で大きな被害を受け、まだ修復中だったと。

フォーロ・Foroはまさに町の行政経済、市民の集まる一番の中心広場で、
38X142mの広さを誇り、周囲を円柱が立ち並ぶ回廊が取り囲み、

その外側には、



これは今回の最初に見て頂いた円柱の並びですが、
右奥、東側にある建物は11.市場・Macellumで、

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中はこんな様子。

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手前に見える丸く12本の柱が取り囲んだ部分は、円錐形の屋根のあった部分、
東屋風かな、

写真は入り口部から右奥を見ていますが、あの右奥で肉や魚を売っていたそうで、
反対側の左奥は、いわゆる皇帝に敬意を表しての宴会、皇帝が出席したか、
またはその名においての宴会が開かれた場所の様。

で、この今撮っている場所の左手前に、建物部分があり、



そこにこんな壁画が残っておりました。

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この下には、ガラスのケースに入った所謂人型、石膏を流し込んで取った、
という人型があり、私の感覚としてはブログに載せたくないので、失礼を。



こちらはフォーロの東南端にある、8.エウマキアの建物・
Edificio di Eumachiaの美しい入り口の浮彫。

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このエウマキアというのは、巫女で洗濯場の持ち主だったそうで、洗濯組合の名で
建物が紀元後に建てられ、ここも62年の大地震で被害を受け修復中だったと。

入り口や内部にも職業柄からか、皇帝家に繋がる彫像とか置かれていたそうで、
内部には円柱の立ち並ぶ回廊があり、建物は羊毛や布の倉庫に充てられ、
また洗濯組合の事務所があったそう。
という様な記述から、巫女さんでもお金持ちの事業家であり、
職業による組合もあった事が分かりますね。

そうそう、入り口右側に壺が埋め込まれていて、小用が足せるようになっていたと。
ここのが74年にヴェスパジアーノ帝(ウェスパシアヌス)の作ったと言われる
有料の公衆トイレなのかどうか・・?

所で有料というのは現在の有料とは違い、つまり使用者が払うのではなく、はは、
安心されましたか?! ・・いや、昔は良かったと現実に憤慨かな? あはは、
脱線。
集めた液を洗濯業者に有料で売っていた、という事でお間違いなき様、
はい、貴重なこの液は漂白に脱脂に、大いに有効なのだそうで。
             


こちらはフォーロ南西側に残る円柱の様子で、この後ろ側に4.アポロ神殿
がありますが、この神殿については、また次回にご案内を。

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14.計量所・Mensa Ponderaria、フォーロの西にあり、市場にも近く、
公共の計量所。

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ここは見ておりませんで、写真もサイトからですが、
前2世紀の終わり頃より活動している計量所だそうで、それぞれの窪みが
示された分量に適確し、計った物は下にある穴に移すようになっていたそう。

イタリアの古い町の市場がある、あったという広場横には、中世の計量基準
みたいな物が彫り込まれているのを見かけますが、
こういうのが紀元前からあったというのに、まぁ当たり前かもですが、少し驚き。



こちらはフォーロの広場の東端にある69.名誉門・Arco Onorarioの
北側からの眺め。

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フォーロの北を占める主たる神殿・カピトリーナを挟み、名誉門は西と東に2つ
あったのだそうで、皇帝家を寿ぐために建てられ、こちらはアウグスト門、
西にはネロ門が。

が、ネロ門の方は、68年に皇帝が亡くなった後、後ろからの道の眺めを塞ぐ、
とかいう理由で取り壊されたと。

こちらのアウグスト門の方には泉があり、門の上にはティベリオ帝騎馬像が
上に載っていたそう。

で、この門の北側を行くと、メルクーリオ通りにもひとつ門がありますが、
近くからカリギュラ帝の騎馬像が見つかったそうで、カリギュラ門と呼ばれているそう。



最後は、名誉門と奥にカリギュラ門が重なって見える、
フォーロの東側からの眺めをどうぞ。

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