・ n.2 ポンペイ遺跡 ・ 野外闘技場と、店あれこれ

今春見て来ました、ポンペイの遺跡のあれこれをご案内しておりますが、
今日ご覧頂くのは、野外闘技場と剣闘士のお話、
アッボンダンツァ通りの飲み屋とクリーニング屋、そしてパン屋さん、
・・と庶民の生活レベルを想像しつつ、よろしくお付き合い下さいませませ!

写真は、サイトから拝借の野外闘技場・アンフィテアートロ、

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ここは実際に見ておらず、位置とその大きさ等調べた事を、地図と共にどうぞ。

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建設されたのは紀元前80年から70年にかけてと見られ、正確な記録は
残っていないものの、ローマ期に建設された野外闘技場の最古の物と見られると。

大きさは長さ135m、幅104mで、闘技場は土間の叩きというのか、
打った地面のままで、ローマのコロッセオに見られるように他の闘技場には
地下室がありますが、このポンペイのにはありません。

観客は、西側の外階段から中に入れる様になっており、上からすり鉢状の
闘技場までは6mの高さ。

楕円形に長い南北に2つの出入口が見えますが、片方は剣闘士たちの
登場する扉で、もう片方は死者や負傷者を運び出す出口なのだそう。

闘技場の周囲と観客席の境には約高さ2mの仕切り壁があり、
先回ご紹介の大小の劇場同様、下の最前列は町の政治家や有力者用、
中央は一般庶民用で、最上階は女性用になっていたと。

収容者数は16000~20000人と見られ、夏の厳しい陽射し、そして雨に備え、
建築物全部を覆うテントが備えられていたそう!

で、この闘技場で59年に死者も出る大喧嘩が発生。
ポンペイよりも南、現在のサレルノ県に含まれるノチェーラ・Noceraの住民と
ポンペイの住民との間の事件で、ノチェーラが植民市に昇格し、ポンペイに
含まれていた土地がノチェーラ側に渡る事になり、これが不満の元となった様子。

闘技が済んだ後、最初は悪ふざけ式に始まった物が石が投げられ、刃物が
持ち出され、何せポンペイ人の数が優勢、相手方の住民の多くが惨殺されたと。

で、議会はこの闘技場を10年間閉鎖する事、喧嘩を引き起こした者数名は
所払いに処されたとか。
ですが、3年後に大地震が起こり、その後の庶民への娯楽提供の必要もあり、
この処置は取り消しになったそう。 

地図の野外闘技場の西側に大きな広場61.が見えますが、
これは真ん中にプールのある大運動場・Palestra Grandeで、
2000年前に、こういった設備が充実していたという事実に、まったく驚くばかり!

地図に打った番号を、お目にとめておいて下さいね。 野外闘技場の北に
真っ直ぐ東西に抜ける広い道がアッボンダンツァ通り・Via dell'Abbondanzaで、
      
野外闘技場、運動場の上辺りに見える番号なしの緑の印、ここに昨年崩壊した
「剣闘士の家」があった様子で、今日ご紹介したい店は、この通りの並びにあります。



これらは出土した、剣闘士たちの兜。

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彼らが奴隷の身分であったのは、映画などで既に皆さん良くご存じと思いますが、
剣闘士にするかどうかの目利きの選抜を経て、多分体格的にも優れている
若者達が選ばれたでしょうし、彼らが命をかけて戦いの技を磨き、
闘技場に登場する訳で、

残っているたくさんの落書きなどからも、奴隷ではあっても一種のスター、
アイドル的存在で、女性たちも熱い眼差しを注いでいたのが、分かるのだとか。
これは良く分かりますよね?!



こちらは、こうであったろう、という想像図を実際の遺跡の写真に重ねた物ですが、

剣闘士たちのパレードで、野外闘技場での戦いを終え、大劇場の近くにあった
彼らの宿舎に戻るのに、このアッボンダンツァ通りを通ったのだそう。

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通常20組の戦いが行われたそうで、こうして宿舎に戻れるのは何人いたのか、と
彼らの悲惨な生活に想いが行きますが、
市民たちが大いに熱狂した娯楽であり、熱い市民の声援を受けて、という状況も・・。



こちらが現在のアッボンダンツァ通りの様子。 ご覧の様に通りの両脇に
広い歩道が付いていて、町の東西を抜ける長い通り。

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上の剣闘士たちのパレードにも見える、通りの中の3つの置き石が、今、舗装道を
歩くカップルの後ろにちょっと見えますが、これがポンペイの有名な横断歩道。



この写真は別の道なのですが、分かりやすいと思いここに。
石の隙間を荷車が通った、轍の跡も残っていて、

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家の脇を通る歩道が道より一段高く、歩道の高さのまま道を渡れるように、       
多分雨振りの時にも足が濡れぬよう、そして、多分道路が下水の役も
果たしていたのかもで、足を濡らさぬよう、というのは納得ですね。

そして道の両脇、歩道脇が少し低いのは、道の水はけを良くするために、
という役割なのかも。



もう一枚の地図をどうぞ。 真ん中を通るのが、アッボンダンツァ通りで、
次に見て頂く場所を、
67.酒・簡易食堂、煮売り屋・Termopoli del Larario
52.洗濯屋・Fullonica(detta)di Stephanus
53.ララーリオ・ディ・アキッレの家・Casa di Larario di Achille
   ここは閉っていて、玄関先からの写真を1枚。

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40.公衆浴場スタビアーネ・Terme Stabiane
39.娼家ルパナーレ・Lupanare
こちらは見ておりませんが、何があるのかのご案内に、
49.ギタリスタの家・Casa del Citarista
50.チェイイの家・Casa dei Ceii
51.メナンドゥロの家・Casa del Menandro


       
では、67.酒・簡易食堂、煮売り屋・Termopoli del Lararioを、
現在の様子の上に加えた想像図でどうぞ。

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現在のスナック・バーとか、ファースト・フード店に当たる簡易食堂は、ローマ期の
町のどこにもあったようですが、ここポンペイでは大変に繁盛していて、
全部で89店を数えるのだそう!

この様に店先にテラコッタの壺を埋め込んだカウンターがあり、最初にこれを見た
おっちょこちょいshinkaiは竈と思ったのですが、

壺の中に飲み物と調理済みの食べ物が入っていて、客はこんな風に立ち食い、
立ち飲みをするか、時に奥で、または店の表にベンチがあったりで、
座って食べたり休んだりできるようにも設えられていたとか。

Termopoli・温かい食べ物 という呼び名はギリシャ語からで、同様の店が
ローマ期の他の町では、ポピーナ・popinaとかカウポーナ・caupona
と呼ばれていたのが、実際ポンペイの中でこの名で残っている店を見つけましたが、
テルモ―ポリというのが一番流行っていたとか。
       


この店は正式には、Thermopolium di Vetutius Placidusという様で、
呼び慣らされているLararioというのは、
カウンター奥に見える祈祷所を模したフレスコ画からで、     
       
こんな様子。

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描かれている神々は私には特定できませんが、家の守り神であるラーリ・Lari、
複数形でサイトの説明にあるので、2人描かれているのかも、
商業の神のメルクーリオ(マーキュリー)、ワインの神ディオニソスとの事。

下に見える2匹の蛇は、他の家の壁画でも見ましたが、災厄を防ぐ印、だそうで、
奥の部屋の壁の赤色がちらっと見えますが、こじんまりとした家主の家ながら、
洒落た壁画があるのだそう。



こちらはサイトで見つけた写真で、ポンペイではなく、同じ様にヴェスーヴィオの
噴火で埋まったエルコラーノ・Ercolanoのテルモポリウムの写真ですが、
カウンターの壺の状態が良く分かるので、どうぞ。

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こんな風に、飲み物や食べ物がカウンターの壺の中に保存されていた訳ですね。

所でポンペイの上の店ですが、こうして埋め込まれていた壺の一つが、
売り上げの金庫代りに使用されていたそうで、
中には683sesterzi(単位が分からず、残念!)残されていたそう!

◆追記を。
ophthalmosさんがコメント欄で教えて下さった所に因ると、
1sesterzioが大体現在の価値で400円程度との事で、
となると683X400=273200円?!
高額ではないですか?! ええ、食べ物商売は流行ると大きいと言いますが・・!



こちらは同じアッボンダンツァ通りにあるテルモポリウムの一つ、ここは修復で
閉めておりましたが、壁に書かれた、選挙用のスローガンで有名なのだとか。
まるで読めず分からず、残念!

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53.ララーリオ・ディ・アキッレの家・Casa di Larario di Achille
ここは閉っており、玄関先からの写真を1枚。
中には素晴らしい壁画がある様子です。

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入った所に見える掘り込んだ池ですが、その部分の天井が開いていますね。
で、ここから振り込む雨水を池に貯め、使用していたのだそう。
       
そしてそのまた奥に内庭が見え、間口はそう広くなくとも奥が結構長く続き、
そんなポンペイの家の造りについては、また別の機会にご説明を。



こちらは家の名が分かりませんが、やはり上と同じ様な造りで、
手前に貯め池、部屋があり、そしてその奥に内庭と。

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さてここから、52.洗濯屋・Fullonica di Stephanusで、

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以前あった家を改装し、1階部分は洗濯の仕事場に、2階部分が住居と、
洗濯物の干し場に充てられていたと。
   


1階の中庭部分にかなり大きな天水用水槽があり、周囲の壁に赤色が見えますが、
この水槽も装飾されていて、
最初は、工房に置かれた水槽に装飾? と少し驚いたのですが、

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左側の赤壁に装飾が少し見えますね、後ほど他の装飾と共に見て頂きますが、
この部分は仕事場というよりは住居部の内庭で、この水槽も家庭用という事なのかも。



水槽の中側はこんな風でかなり深く、底部分に傾斜が付けられているのが見えます。

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想像図をどうぞ。 但しこれは、染色屋も兼ねた店の様子で、

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当時のポンペイにあって、洗濯屋とその関連業はかなり活発な経済活動をしていた
職業だそうで、生の羊毛を洗う工房が13、紡織と織りに携わる業者が7、
染色が9つ、そして洗濯屋が18軒あったと。

アイロンはまだ無かった時代ですから、圧搾して絞り、干していた様子で、
食べ物に関してもそうでしたが、まだこの当時、大きな洗濯物は
家庭内では大変だったのでしょうね。



で、このステファヌスの洗濯屋ですが、中庭の奥に大小一連の水槽類が
備えられており、あっち側からとこっち側と両方ご覧下さいね、

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この水槽内の水とソーダを混ぜた液の中に浸け、足で踏んだ様ですが、
当時はまだ石鹸は存在せず、ソーダ、またはなんと「おしっこ」を使用していたと!
含まれるアンモニアが油脂分除去に効果的なのだそうで、

この「貴重な液」を収集するのには、ははは、食堂とか公衆建物の前に、
それ用に桶かな、壺かな、を備え、それを集めたのだそう。
ええ、まぁ、公衆衛生にも役立つエコロジー作戦、リサイクル活用ではありますねぇ。



ここからの何枚かは、この洗濯屋ステファーヌスの家の壁で見つけたフレスコ画で、
大変に洒落た美しい物。

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ポンペイの壁画の種類は、4種類に分類出来るそうですが、
それもまた秘儀荘の時にでも、という事で、ここでは、先ずご覧下さい。

シンプルな装飾から、神話的人物像、そして鳥、動物、植物と、
その装飾性と色に驚きます。

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こちらは、アッボンダンツァ通りに面してあった顔。
案内板の字の大きさと比して、小さいのがお分かりでしょうが、
何を現わすのか、なかなかユーモラスでしょう?!

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これは、40.公衆浴場スタビアーネ・Terme Stabiane.
閉じられていて、こうして広い中庭越しに。

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中庭で運動した後、さっぱりと汗を流し、マッサージを受け、という
当時の生活だったそうで、 ・・う~ん、今より快適さを享受していたかもですねぇ!



パン屋さんが次回送りになりましたが、
最後に皆様お待ちかね(であろう)ルパナーレ、これも次回送りになりますので、
申し訳に、はは、かの娼家の案内板をちらっとね。

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「ルパナーレの訪問は、1度に10人以上は入れません。
 訪問者は、どうぞ順番をお待ち下さい」

・・部屋数も、確か1階2階ともで10部屋だった筈で・・、
これはユーモアかなぁ?! ははは。 
ともかく、現在は中が立て込んでおりますゆえ、ははは、
もう少しお待ち下さいませ、ませぇ。

いつも有難うございます、お世話様です。

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