・ n.1 ポンペイ遺跡  ・ 劇場二つ

今日から何回かに分け、世界遺産にも指定されているポンペイ遺跡を
ご覧頂く予定で、今の所3回分と考えておりますが、4回になるかもで・・。

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あの日一日中歩き回り撮ったにも関わらず、自分が持ち帰った写真と、
地図やガイドブックを付き合せて見ると、当たり前とはいえ、
午後の陽が傾く頃には、頭の中も満杯状態だったですが、
あの広い広い遺跡の中のほんの少ししか見ておらず・・。

周辺のエルコラーノ・Ercolanoなども含めて世界遺産指定、
全世界からの観光客が集まる考古学遺産では、世界で2番目、
2010年度の訪問者は230万人を超す、という有名な遺跡ですが、
皆さん、遺跡の写真だけではピンと来ませんよね?!
なにせ2000年もの時の隔たりがありますし・・、
       
という事で、以前買って手元にある1冊のガイドブック、現在の遺跡の
写真の上に、かってはこうであったろう、という再構築画の透明フィルムを
重ねて見れる、という、
まぁ、小中学生向けにぴったりのガイドかもしれませんが、ははは、
shinkaiなんぞ、ははぁ、こうだったのか、と大いにとっつきやすく感じたので、
この写真も時に混ぜながら見て頂こう、と思います。
どうぞよろしくお付き合い下さいませ、ませ。

トップの写真は、ヴェスーヴィオ山・Vesuvio の火口口。
この写真はガイドブックの航空写真ですが、
噴火口が、まるで金属の切り口の様に見えません?!



こちらはサイトからの、ヴェスーヴィオ噴火の想像図、
ポンペイ・Pompei最後の日となったのは、西暦79年8月24日の事。

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この日付については、学者で軍提督、この火山爆発により亡くなった
大プリウスの甥が書き残しており、これが定説となっているのですが、
近年研究が進むにつれ、もっと後の秋になってではないか、それも、
ブドウの収穫が済み、ワインが発酵状態になっていた時期、
という見解も出ているのだとか。

この17年前、西暦62年にこの一帯を大地震が襲い、大被害を受けた町は
ただちに修復に取り掛かったものの、まだ全部済んでいない状態だった様。

明け方、ヴェスーヴィオの上に大きな煙が立ちあがっているのが見え、
朝の10時に突然大爆発が起こり、火山礫が破片となってすさまじく
ポンペイの町に降りかかり、その上に雨と火山灰が太陽を覆い隠す程に濃密、
そして有毒ガスと、
・・こうして、この町は僅か1日にして壊滅状態に。

追記:ヴェスーヴィオ山の噴火日については、つい最近新しい発掘で
   見つかった落書きから、
   「10月24日」という日付けが改めて確定されたとの事。
   こちらをどうぞ。 http://italiashinkai.seesaa.net/article/464163929.html



この一帯の被害を受けた範囲の様子を、サイトからの図で。

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町を襲った火砕流は6mを越す高さで町を覆い尽くし、当時12000人程だったろう、
と言われる町の人口の約2000人ほどが一瞬にして亡くなったろうと。
火砕流の早さは時速100Kmを超え、温度は300~600度に達したろうという事で、
その凄まじさをご想像下さい。
       
こうして埋もれたままに時を経て忘れ去られた町が、16世紀になって
近くの運河の建設を発端として、石碑や家が発掘され、町が埋まっている事が
知られますが、実際に発掘が始まったのは1748年。

この時はまだ秩序だった科学的な発掘では無く、家が発掘されると
その装飾品などは掘り出し、また埋め直すという・・
19世紀イタリア王国となって後、漸くに組織的な発掘が行われ、
この時に犠牲者の姿形を、石膏を流し込んで取る、という事も行われ、
一つの町が一瞬にして消え去る、という類を見ない大災害の証人として、
歴史に再登場した訳ですね。

実際、古いローマの町が2000年前の火山爆発時のまま、家、建物から、
家具調度から装飾品迄一切合財、まるで時が止まっていたかの様に再出現
した様子で、訪問して受けるインパクトたるや大変な物!

今回の訪問の一番の印象は、その存在の強固さ、それも規模の大きな、でした。



町の地図をどうぞ。 ご覧頂くと、かなり計画的に造り上げられた町の様相で、
通りが縦横に碁盤の目の様に通り、周囲を城壁が取り囲んでいるのがお分かりと。

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町自体は紀元前7世紀頃から起こったようですが、ギリシャ人、エトルリア人とが
交互に支配しつつ発展、遂に紀元前89年にローマの元に、
前87年自治市、前80年には植民市に昇格、

日本語の字面だけを見ると、自治市よりも植民市の方が格が上、というのが
不思議に思いますが、
自治市・municipiumというのは、ローマ市民ではあるものの選挙権なし、
植民市・coloniaがローマ市民と対等の扱いを受ける、のだそう。
この下に同盟市・sociiというのがあり、市民権も自治権もなく、
軍役、納税義務が負わされた町との事ですが、
この辺り勉強不足で、上手くご説明出来ず申し訳ないです。

ポンペイは当時は海に面しており、港を活用したローマへの中継の商業都市として、
大いに発展を遂げた様です。
実際に現在も見る事の出来る家の素晴らしい装飾、舗装された道、そして
立ち並ぶ店の跡なども見ると、かなり猥雑で、活気ある賑やかな町だったろう、
という印象を強く受けました。
・・で、そんなこんなを、順に見て頂こうと。
       
今回は下の、緑の印を付けたPiazza Esedraの入り口から入りましたので、
まず下に見える番号44. 45.辺りのご案内を。
43.大劇場・Teatro Grande
44.Quadriportico dei Teatri・劇場の四角なポーチ、とでも
45.小劇場・Teatro Piccolo
60.野外劇場



この地図だと、上からの形と大きさが見えますので、想像しやすいかと、
両方共に見て頂くつもりですが、
6.町の中心広場のフォーロ・Foro
22.悲劇詩人の家、先回玄関先の犬のモザイクを見て頂いた家
39.ルパナーレ・Lupanare  はい、かの有名な娼家はここに。

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では、参りましょうか、
まずは、44.Quadriportico dei Teatri・劇場の四角なポーチ、
四角な草地が広がり、周囲を円柱が囲むのが見えますが、
ここは背後に2つ並ぶ劇場のロビーとして使われた様子で、 

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1枚目と3枚目の写真のバックに階段状の物が見えますね、
ここが大劇場なのですが、こちらは野外劇場なので、雨の時の避難や、
幕間の散策に使われたのであろうと。
ですから当然、回廊は円柱の並びに屋根付きだったのですね。

で、回廊に囲まれた内の広場は、若者たちの体操場や文化的な催しにも
使われたと言い、長さが40m、 幅30mの広さ。


 
こちらは、この四角い回廊の南面を占める建物。
62年の大地震の後に、剣闘士たちとその指南者の住居に充てられていたと言い、
18世紀の発掘の際には、剣闘士たちのパレードに使われたと見られる盾や槍、
兜が出土したと言いますから、この広場も彼らの訓練場だったのでしょう。
       
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昨年、「剣闘士の家」が崩壊という大きなニュースがありましたが、
この家は町の東端にある60.野外劇場、に近いヴィア・デル・アッボンダンツァ・
Via dell'Abbondanza、地図に緑の点々で示した通り、にあり、
多分62年の地震で被害を受け、使われずに放置されたまま、
野外劇場から遠くにはなるものの、こちらに引っ越しをして来ていた様子。



回廊の柱に残る色。 劇場の観客のロビーがわり、というので、
きっと美しく装飾されていた事でしょう。

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こちらは45.小劇場・Teatro Piccoloの、舞台から見上げる観客席。 

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上から見るとこういう形ですが、中程奥にアーチのトンネルが見えますね、
あそこが入り口で、隣の回廊からすぐに続いていて、

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現在は写真の上奥に隣の回廊や広場、剣闘士宿舎も見えますが、
かってのこの劇場は音響効果を考えた屋根付きで覆われており、
音楽やパントマイム、詩の朗読などが上演されていたと。

舞台を囲み、最初の4段がゆったりのすべらかな石の座席で、ここは元老委員や
参事委員用、そして10段ほどが急傾斜ながら良く見えそうな座席、
そしてそのまた上にと、当時の身分階級による座席の仕分けがなされているのが
良く分かります。      
       


正面の壁の石組み、さいころ石が斜めに組まれた物で、このポンペイの壁の
あちこち見られましたが、ローマ期の古い石組み方法だそうで、
また調べてお知らせいたしますね。

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これは上の段の石の座席で、座ったら痛そうですが・・。

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そしてここの石段も、ヴェローナの野外劇場もそうなのですが、
一段毎がとても高いのですよ!
上るのに、よいしょよいしょと頑張るほどの急傾斜と高さで、当時の人の元気さと、
足の長さを、ははは、想像させられます。

でもね、通路に当たる部分には、途中に段が増やされているでしょう?!



劇場の上段がどれほどの高さになるのか、書いたのが見つかりませんでしたが、
周囲がこんな様子で見渡せます。

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劇場の東横を南北に通るのが、地図に赤点々を付けたスタヴィアーナ通り・
Via Stabianaで、北に行くと名が変わりますが、町の中心を抜ける通りで、
きちんと舗装されているのが良くお分かりと。

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屋根が全て無くなっていますので広々と見え、住居の間取り、
道の通り具合が地図の様に分かりますね。

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石を組み、煉瓦を積み、壁を継ぎ足し・・、

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こんな風に道に面してのカウンターの跡、多分煮売り屋、食堂だったと
思うのですが、これが本当に多くあるのが目につきました。

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ローマ期にはまだ貧しい一般庶民は、住む家の事情からも各家では
火を使う炊事を余りせず、多分労働者たちもこうした安易に飲食できる
立ち食い立ち飲みの店を大いに利用した事でしょうし、お持ち帰りも多分ね。
まさに当時の人々の生活が偲ばれるようで、大変興味深かったです。

最初は、竈の跡、と思ったのですが、この部分にはテラコッタの壺を埋め込み、
飲み物を入れていた事を知ったのと、
店では確かに調理済みの食物を売っていた様ですが、ここのは竈ではなかった事を、
追記させて頂きます。



屋根が無い家や建物の並ぶ町というのは遺跡とはいえ、見るのに少し寂しく、
ヴェスーヴィオ噴火前の町の想像図をどうぞ。

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ローマの一都市とはいえ裕福で、ギリシャの文化も受け継ぎ、
かなりの歴史も持つ、賑やかだったろう町をご想像下さいね。



引き続いて、小劇場の上階からの眺めですが、これは、南隣の
四角い回廊の端にある石段。

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と、その横に見える、43.大劇場・Teatro Grandeの西側部分。
なんで近く迄見に行かなかったのか、我ながら不思議!

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ですが、初っ端から遺跡の広大さ、凄さに驚き、小劇場を見ただけで、
その上から広がる遺跡を見ただけで、もうこれは到底全部は見きれない、と
満足方々諦めの境地だったのかも!



という事で、ガイドブックからの写真で大劇場の現在の様子と、

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こうであったろう、という想像図を。

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この大劇場は天然の傾斜地を利用して造られたもので、小劇場同様に
下方の座席は大理石で、元老院や町の重要人物用。
舞台やその上は彫像で飾られ、屋根の無い屋外劇場ですが、
必要に応じ、張り出しのテントで覆われたそう。

約5000人収容可能で、上演はカンパーニャ地方の笑劇、仮面劇、
そして喜劇やパントマイム、音楽ダンス付きのパントマイムも。



小劇場の下の通路から見える大劇場側。 通路から階段が上の階に
連絡しているのも見え、壁に壁画の跡も見え、美しく飾られていた事でしょう。

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これは小劇場の最下段の、重要人物用席の入り口にある翼を持つグリフィン・
伝説の鳥の足元と、上は一般市民用の席で、奴隷像、かな、

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で、下の通路を抜け、町の中心を南北に抜けるスタビアーナ通りに出て、
北に向かいます。

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という所で今回はこれでお終いにして、次回に。
余り殺風景な遺跡風景ご案内にならぬよう、考えておりますが、
楽しんで見て頂けると嬉しいです。


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