・ n.2 サン・フランチェスコ聖堂 ・ アッシジ

アッシジのサン・フランチェスコ聖堂のご案内2回目の今日は、
上の聖堂内、身廊の中段両脇を囲む28面の壁画、ジョット作といわれる
「サン・フランチェスコの生涯・Le Storie di San Francesco」
のご案内を。

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上の聖堂内に限っても、内陣奥と両翼部分、そして今日ご案内の壁画の
上部にもたくさんの画家による壁画があるのですが、
到底全部は無理ですので、一番有名な壁画に絞る、という事で
よろしくお願いいたします。
   

    
写真は、上の聖堂の入り口部分から。
床の美しい大理石模様が良く見えるのが見つかりましたので、どうぞ。
      
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今日ご案内の壁画は、下から2段目に描かれている物で、
一番下は壁に布が掛けられた様子の柄。



「サン・フランチェスコの生涯」の28画面ですが、この位置図をどうぞ。
下が入り口部分、奥のピンクが内陣で、周囲を囲むブルーの色、
右奥の65から始まり手前の77、そして入り口扉の両脇に78、79、
左に移り手前の80から92までの28面で、

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今回この図を拝借したのはウィキぺディアのイタリア版からで、
左奥の90~92番の色が紫になっていますね。

下の色分け凡例によると、ブルーは「ジョット?とその工房」
紫は「マエストロ・デッラ・サンタ・チェチーリア(ローマの」とあり、
既に「ジョット?」という疑問形が用いられ、最後の3枚は別の作家と
している事が分ります。

実はこの上の聖堂の「ジョット作」と長年言われてきた作品に、随分前から
色々と疑問が呈されていたのは知っておりました。
が近年とみに議論が活発になり、別の画家の名が挙がっている事などなど、
シニョレッリさんがコメントに書いて下さった事がきっかけで改めてあれこれ読み、
知る事が出来ましたので、それらもご案内いたしますね。



が、まずはどんな画面で何を現しているのか、・・聖堂内で見るのとは
まるで趣が違いますが、現地ではなかなか詳細まで見る事が難しいのも事実で、
サン・フランチェスコの生涯の逸話の理解も含めて、ご覧下さいね。

頭の数字は上の図の番号にしたがいますが、作品シリーズとしては1番からで、
画面の大きさは230x270cm 入り口両脇のが270x200cm。

65.質朴な男からの献呈
   いまだ宗教生活に入る前のフランチェスコが歩む前に、彼の将来を
   見抜いた一見質朴な男が布を広げたというもの。
   
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66.フランチェスコが自分のマントを貧者に与える
   騎士(貴族)に出会ったとき、落ちぶれて衣服も貧しいのを見て、
   哀れみを覚え自分のマントを差し出す。

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馬と端の円柱が黒く見えるのは、当時使っていた白の粉絵具が鉛白であった為、
長年の湿気に対し化学変化を起こし黒くなったものと。

下の聖堂のチマーブエの磔刑図でも、まるで写真の陰画のように黒く変化を
起こしているのもあり、それがまた素晴らしい効果に見えるのも・・。



67.武器の夢
   夢の中で、素晴らしい邸宅に男達が甲冑や十字のついた紋章を
   運びこむのを見たフランチェスコに天からの声。
   誰に仕えたいのか、仕える男達にか、それとも主にか?

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68.サン・ダミアーノ教会での祈り
   サン・ダミアーノ教会の十字架の前で祈っていたフランチェスコに、
   十字架から繰り返し3度の声。
   フランチェスコ、廃墟になりつつある私の家を修復しなさい。
          
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69.フランチェスコ、地上での富を放棄
   公衆の見守る中で、すべての衣服を脱ぎ父親に戻し、
   我が父は天にいる我らの父、と決別を告げ、清貧の生活に。
  
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画面は2分割され、左は俗世、右はこれより後のフランチェスコが属する世界で、
彼は天の神の手に応え。



70.インノチェンツォ3世の夢
   夢の中で教皇インノチェンツォ3世は、貧しく身分の卑しいフランチェスコが、
   ラテラーノ聖堂(当時教皇庁のあった)を自分の肩で支える夢を。

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71.インノチェンツォ3世、フランチェスコ派の会則を認める
   自分の元に集った仲間とローマに赴き、教皇から宗派の会則を承認され、
   神の言葉を広める宗教活動のため、
   剃髪(頭の頂上の剃髪)をする事も認められる。

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72.火の馬車に乗ったフランチェスコ 
   アッシジの町の郊外(リヴォトルト・Rivotorto)の納屋で、
   仲間と一緒に過ごしていた夜、フランチェスコ一人が火の馬車に乗り
   野原を駆け回っている姿を見て、驚き恐怖に駆られる仲間達。 

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73.玉座の幻
   空色の幻を見た修道士。 それにはたくさんの天国の椅子があり、
   一つは素晴らしいもので、聞こえた声によると、
   この椅子は慎ましいフランチェスコの為に用意されていると。

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74.アレッツォの街から悪魔を追い払う
   アレッツォの街の上で羽目を外して暴れまわる悪魔を見たフランチェスコは、
   弟子の一人に「行って悪魔を追い払いなさい、主ご自身に命令された様に」
   こうして街の門から大声で叫ぶと、悪魔達は即座に逃げだし街に平和が。

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75.エジプトのスルタン、アル=カーミル・al-Malik al-Kāmil前での火の試練 
   スルタンからの高価な贈り物を断り、燃え盛る火の中を無事で通りすぎ、
   神の保護を受けた身である事を示そうとするも、
   会見の場に現れたスルタン側の大勢が驚愕に陥ったと。

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で結果、本当に火の試練を受けたのか否や、書いてあるのが見付かりませんで。
フランチェスコはオリエントにまで神の教えを説きに!
エジプトのスルタンではありますが、会見の場はバビロニアだった様子。    



76.フランチェスコの法悦
   熱狂的に祈るフランチェスコの姿は、弟子達から見ると、
   光り輝く雲に取り囲まれ、腕を差し伸べ全身が地面から浮き・・。

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77.グレッチョでのプレゼーペ
   グレッチョ・Greccioで、キリストの生誕を人形で表現する
   現在のプレゼーペ・Presereを、初めてフランチェスコが行った。

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貧しい文盲の人々に聖書が語る物語を如何に知らせるかが問題で、
教会の壁画は「絵解き」になっているわけですが、

キリスト降誕のお話をフランチェスコは、藁を敷き、牛やロバもつれて来て祈り、
兵士の一人は本当に子供のキリストを見たと。

グレッチョでという事になっていますが、画面の中ではアッシジの下の聖堂を
想わせる環境になっている様子。



78.湧き水の奇跡
   フランチェスコが病み、貧しい男のロバの背に乗り山道を上っていた時、
   この男が喉の渇きに飢えているのを見て祈ると、
   岩の隙間から湧き水が迸り出た。その前にも後にも湧き水は無かった。
         
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79.小鳥達への説教
   フランチェスコがべヴァーニャ・Bevagnaに行く道筋でたくさんの小鳥達に
   お説教をしたが、小鳥達は皆嬉しそうに首を伸ばし、はばたき、嘴を開き、
   中にはフランチェスコの衣服をついばむものまで。
         
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80.騎士チェラーノ・Celanoの死
   フランチェスコが魂の救済を得た頃、騎士チェラーノがささやかな献呈の為、
   昼食にフランチェスコ達を招いた。 騎士は懺悔をし身の回りの整理をした後、
   皆が食べ始めた時に突然亡くなった。
          
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この項の意味づけが不信人者のshinkaiには良く分らないのですが、
フランチェスコから魂の救済を得て、騎士は安堵して亡くなった、
という事で良いのでしょうね?



81.教皇オノーリオ3世の前での説教
   枢機卿達、そして教皇オノーリオ3世の前で行ったフランチェスコの説教は、
   まさに密度の高い効果的なもので、その言葉も単なる人間の賢さからでなく、
   神から直接にインスピレーションを受けたと思われる物であった。

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82.フランチェスコ、アルル(南仏)のアントーニオの前に
   (聖)アントーニオがアルルの会議室で説教をしていた時、そこにいない筈の
    フランチェスコが腕を広げて現れ、皆に祝福を与えたので、
    修道士達は皆喜び、大いなる慰安を得た。

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後の聖アントーニオ・ディ・パドヴァ・Sant'Antonio di padovaと呼ばれる方は、
ポルトガルのリスボン生まれ、アゴスティーノ会派の僧でしたが後にフランチェスコ会派
に入られた方、1220年。 この逸話はフランチェスコのかなり晩年の物と。



83.フランチェスコ、聖痕を受ける
   ヴェルナ山の麓で祈っていたフランチェスコは、キリストが十字架上の
   熾天使の姿で現れた幻を見る。そしてキリストが処刑の際受けたと同じ場所、
   両手、両足、そして右肋骨に聖痕・stigumate・スティグマーテを受ける。

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これに付いて学者達は、フランチェスコが亡くなる2年前の1224年9月14日
の事であったろうとしています。

40日間の断食の後の事で、手と足の傷は釘などでの負傷の後起こる様に
肉の隆起が見られ、右脇の傷は槍の一撃による傷の様で、しばしば出血。
いずれにしてもフランチェスコは死に至るまで、これらの傷を隠そうとしていたと。
              
                    
                        
84.フランチェスコの死
   フランチェスコはとりわけ晩年様々な病に、視力の他に肝臓障害にも
   苦しみ、時に医者にも頼ったようですが良くならず、
   1226年6月コルトーナ・Cortonaで一夜苦しんだ後「遺言」を。
   この中で、会派が最初の精神から遠ざからぬ事を勧告していると。

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そしてノチェーラ・ウンブラ・Nocera Umbra近くの湧き水から、
「聖なる場所、ポルツィウンコラ・Porzuincola」に戻って死にたいと希望し果たし、
10月3日の夜、死が訪れます。
 
44歳の短くも長い生涯、父親と俗世との決別は24歳の時でしたから、
20年間に渡る厳しく激しい宗教生活だったわけです。



85.修道士アゴスティーノとアッシジの司教の死
   フランチェスコが亡くなったと同時に、修道士アゴスティーノは
   「待って下さい、一緒に行きます」と叫び、瞬時に亡くなり、
   一方アッシジの司教グイド・Guidoはフランチェスコの幻を見て、
   「私は天に行きます」と、まさに同じ時間に死を迎えたと。
          
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アッシジの司教グイドという方は、そう、フランチェスコが父親に着ていたすべての
衣類を渡し決別した時、彼をかばった司教でした。



86.貴族のジローラモ、フランチェスコの聖痕を確認する
   ポルツィウンコラで亡くなったフランチェスコの遺骸を、著名な医者文学者でも
   ある貴族のジローラモ・Girolamoが、
   自分の手で、フランチェスコの手と足と脇の聖痕を検める。

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近年列聖されたイタリアで有名なピオ・Pio神父という方がおられます。
この方も両手に聖痕を受けたとされ、様々な医学的な検証もあったのですが、
亡くなられた後には、傷は消えていたと言います。
  


87.フランチェスコにキアーラ・Chiaraが最後の挨拶を
   フランチェスコの遺骸は、大勢の人と木の枝とたくさんの灯された蝋燭に
   囲まれアッシジの町に向かい、キアーラと修道女達の最後の挨拶を受ける。

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この画面を見た時、葬列はどの道筋を通ったのだろうと考えましたが、
初期の宗教生活では一緒の仲間で、後に別々に活動していたキアーラに
最後のフランチェスコを会わせる為、キアーラのいた現在のサン・ダミアーノ修道院
まで遺骸を運んだのだそう。

後、現在のサンタ・キアーラ聖堂、当時はサン・グレゴーリオ教会だった、に、
フランチェスコは葬られます。
       


88.教皇グレゴーリオ9世によるフランチェスコの列聖
   1228年サン・グレゴーリオ教会の前において、教皇自身の列席のもと、
   様々な奇跡について念入りな討議の後、列聖される。

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教会カレンダーによるフランチェスコの日は、10月4日。          
       


89.グレゴーリオ9世の夢に現れるフランチェスコ
   フランチェスコの脇の傷についていささか疑いを持っていた教皇グレゴーリオの
   夢に現れたフランチェスコ。
   「空のガラス瓶を」と受け取り、脇から溢れる血で満たします。

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いささか不謹慎かもですが、この場面の説明には思わず笑いました。
教皇の疑いの念に、夢枕でガラス瓶を血で満たしてみせるフランチェスコ!
ほらね、だから聖痕だと言うのは本当なんですってば! とでも?! うぷっ。



これからの3場面は、最初の位置図で既にローマの作家の作品と見なされており、
図も小さいのが掲載で、逸話もフランチェスコの死後あちこちで奇跡を起こした、
という事ですので、ここでも簡単に。

90.スペインのジョヴァンニ・ディ・イェルダ・Giovanni di Ylerda
   のもとに現れ、ジョヴァンニは回復する。

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91.亡くなった女を生き返らせ、懺悔させるフランチェスコ。
   唯一の罪、懺悔をせずに亡くなった女は、懺悔を済ませ再び死ぬ。

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92.フランチェスコ現れ、異端の罪に問われていた
   ピエトロ・ダリーフェ・Pietro d'Alifeを自由の身に。

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という一連のサン・フランチェスコの生涯の逸話の画面でしたが、

さて、これらは今までずっと、というよりも現在も、
1295年から1299年にかけてのジョットの作品というのが通説。

ジョット・ディ・ボンドーネ・Giotto di Bondone、(1267年頃ー1337年)
画家、建築家であり、ビザンチン美術の硬さから抜け、空間表現の自然さ、
人物の自然さ、感情を描き「イタリア絵画の父」と呼ばれる画家です。

でいつからこの上の聖堂のこの一連の作品がジョットの物であるとなり、
誰が言い出したのかですが、
ジョルジョ・ヴァザーリ・Giorgio Vasari「ルネッサンスの著名な画家彫刻家列伝」
の初刊1550年には、ジョットが下の聖堂の殆どを描いた、とあるのが、
確かにジョットは1309年にはアッシジに滞在し、下の聖堂の2つの礼拝堂の壁画、
天井、右翼を描いています。

が同著の1568年刊には、「上の聖堂の、通廊の窓を越しての教会の両脇、
サン・フランチェスコの生涯の32場面、つまりファッチャータの16場面、を描き、
素晴らしい名声を得た」
・・正直言いまして、どなたかの通訳説明が欲しい程で・・!
つまりこれ以降、ジョットが描いた、というのが公式になったのだそう。
       
      
ですが20世紀の初頭からとりわけドイツやイギリスの研究者たちの間から、
ジョットの作品ではない、という声が上がり始めたと。
が既に1796年、イタリア自国のデッラ・ヴァッレ神父が、ジョット作に
疑いを表明していたのだそうです。

この疑問についての議論が活発になったのは、1997年修復家の
ブルーノ・ザナルディ・Bruno Zanardiが
「アッシジの作業場で・Il cantierre di Assisi」という本を出版、

長年フレスコ画の修復に当ってきた立場から、反ジョットを明確に打ち出し、
今までの学者達の「ジョットのスタイル論」ではなく、
画家の技術や色使いなどからの反論なんだそう。

この本の前書きをしているのがフェデリコ・ゼーリ・Federico Zeriで、
彼は反ジョットの最大の評論家なのだそう。


上の聖堂にあるジョットの描いた物で、上の位置図の緑色の部分の中の物と。

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こちらは上の聖堂の86の中の顔と、ローマのサンタ・チェチーリア・イン・
トラステーヴェレにある壁画の画家ピエトロ・カヴァッリーニの顔。

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よく似ている、というよりも、まさに同一画家の作品でしょうね。
      
      

このピエトロ・カヴァッリーニという13世紀後半の画家の作品は、今まで余り
知られていなかった、というのも存在する作品が少なかったからなのですが、 
ちょっと見難いですが、このローマの地図をどうぞ。

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1のSancta Santorumの修復が1995年に行われ、そして2の
S.Maria in Aracoeliでは、2000年に「バイロンの礼拝堂」と呼ばれる
壁画の一部が見つかり、これは大変アッシジの壁画に良く似ているのだそうで、

2のサンタ・マリーア・イン・アラコエリ教会の建設は1285年、
設計はアルノルフォ・ディ・カンビオ・Alnorfi di Cambioで、
内部装飾はピエトロ・カヴァッリーニ。

近年新しく見つかったこれらの壁画から、カヴァッリーニの作品が改めて見直され、
つまりアッシジのジョットの壁画についても見直しが。

ローマの1250年から1300年にかけては、たくさんの建設がされており、
ボニファーチョ8世が音頭を取った最初の聖年1300年の影響もあり、

ローマの4つの聖堂のすべて、そして最も重要な教会のすべての装飾が新しくされ、
トスカーナからの画家建築家もたくさんやって来て、
ローマ派の有名な画家達と一緒に働いていただろう事は易く想像できますが、
当時のフレスコ画はその後の世代毎の再装飾で、殆ど残らず。

ただ古代よりの新しい流れをローマ流にこなし、その名残が明確に残るローマ。
そしてそれを吸収しては新しい物を生み出し、生み出させたローマですから、
新しいイタリア風を生み出したのも、やはりローマ派の画家であったろう、

そしてアッシジのカヴァッリーノの作品を見たジョットがもっと大きく発展させ、
後のパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂壁画に、遺憾なく傑作を結実させたであろう、
というのが自然に読み取れる流れ、という事で、現在の不足は記録なんだそう。
       
スクロヴェーニ礼拝堂 ・ パドヴァ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463179334.html    
   
今回アッシジの壁画をこうしてじっくり眺めたのち、改めてスクロヴェーニの作品を見直し、
驚きました。 いくらこちらが後年の作とはいえ、アッシジ聖堂のとは作風の違いが
明らかなのがよくお分かりと思います。



用意していた写真は他にもあるのですが、今回も説明が多くなり、
省略せざるを得ず・・、

下の聖堂の祭壇部分と、

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下聖堂にあるshinkaiが大好きな、ピエトロ・ロレンツェッティの「夕陽の聖母子」
       
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で閉めさせて頂きます。
お付き合いくださり、有難うございました!!


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