・ n.1 サン・フランチェスコ聖堂  ・ アッシジ 

アッシジの春のお祭りカレンディマッジョを見て頂いてますが、ちょっと休憩、
サン・フランチェスコ聖堂・Basilica di San Francescoと、
大変有名なジョット・Giottoの壁画作品について、纏めてご案内を。

何度も聖堂の写真を見て頂きながら、中のご案内はしていなかった事に気がつき、
ジョットのかの有名な壁画についても最近あれこれ知りましたので、
そんなこんなを纏め、2回に分けてご案内を致します。

まず聖堂の写真。 坂道を上って来て、最初に目に入る姿。

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正式には、下の聖堂広場・Piazza Inferiore di San Francesco.
今正面に見えるのが下の聖堂・Basilica Inferioreの入り口で、
右上に見えるのが上の聖堂・Basilica Superiore.
つまり2層に聖堂が重なっているのですね。
       
30年前頃、この広場はまだ敷石されていなかった記憶が。



広場を囲むポルティチ、これは南側。

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町の地図をどうぞ。
町の西端に、サン・フランチェスコ聖堂・Basilica di San Francesco
その右下に、サン・ピエトロ修道院・Abazia di San Pietro
町の真ん中に、コムーネ広場・Piazza del Comune
右下町の東端に、サンタ・キアーラ聖堂・Baslica di Santa Chiare

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町から1.5kmほど離れて、サン・ダミアーノ教会・San Damiano
右上に、サン・ルフィーノ聖堂・Cattedrale di San Rufino
町の上に、ロッカ・マッジョーレ・大要塞・Rocca Maggiore
町を西と東から挟む形で、サン・フランチェスコ聖堂とサンタ・キアーラ聖堂が
向かい合っている、という形でしょうか。




聖堂に朝日が当る前と、徐々に陽が射しこむ様子をどうぞ。
5時55分から、6時半頃。

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いつ見ても、どの時間帯も、どっしりと美しく典雅な姿!!



今回は聖堂の建設について、上の聖堂の外部装飾、大好きな薔薇窓を、
そしてちょっぴり聖フランチェスコと、聖女キアーラについてご案内し、
次回はジョットの壁画についてと考えておりますので、よろしくお願いいたします。


下と上の聖堂が2層になっていると書きましたが、高低の差はこんな様子で、
上下どちらからでも中に入れ、聖堂奥に連絡の階段があります。

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下の聖堂の入り口全体の写真を昼間撮っておらず、へへ、
いつも入り口部分が混んでいて、で、様子をちょっと切り取ってみました。

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下聖堂の入り口上部。

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聖堂建設は1228年に下の聖堂から始まりましたが、これはフランチェスコが
亡くなって僅か2年後の事。

この年7月16日に教皇グレゴーリオ9世により列聖され、その翌日17日に
最初の基石が修道士エーリア・Elia da Cortonaによって置かれましたが、
これらはすべてその1年前に協定済みだったとの事。

この聖堂の位置については、フランチェスコ自身がここに埋葬を、貧しい人々の
為の教会をと希望したという事ですが、かって町の西外れのここは町の下の丘で、
無法者や処刑された者たちの埋葬地だったそう。
       
エーリア(1180頃-1253)という方は、法学の勉強を修めた後にフランチェスコの
元に集った最初からの1人で、対外的な重要な任務を授けられては果たした
重要人物で、それがフランチェスコや他の仲間とも対立をもたらした事もあった程と。
いわゆる大変な切れ者だったのでしょう。

修道会の副長を務めている時に、後の教皇グレゴーリオ9世の好感を得たといい、
フランチェスコの列聖の速さ、聖堂建設の速やかさも納得ですね。

サン・フランチェスコ聖堂の下の広場に至る坂道の名が、フラーテ・エーリア通り
というので、何をした人なんだろうと思っていたのでしたが、図らずも知る事が
出来たという訳です。



聖堂内部には昔2,3度入った事があるものの長らくご無沙汰。
いつも大変な人々の姿でパスしていたのですが、今回はやはり拝観して
置かないととという気持ちになり、朝早く出かけました。

陽射しが目に痛いほど煌く朝で、上の聖堂前に広がる芝の緑が目にしみます。

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もっと早い時間、朝日が当るのを撮りに来た時は、シュッシュッと5,6個の
スプリンクラーが回り、なるほど芝が綺麗な訳だと納得しましたが、
        
昔は生垣も無く、この芝の中に入り込んでペチャッと座り込み、
聖堂のスケッチをした想い出があり、懐かしい場所。



広場の上にある「フランチェスコの帰還」像。
裕福な布商人の息子であった彼が、ペルージャとの戦争に参加、
捕虜生活ののち意気消沈し、アッシジに戻って来た姿。
       
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広場上から見る、上の聖堂入り口。 あっという間に参拝客が増えていき、

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入り口前で、入って行ったマンマを必死に待つワン君。
彼の名を聞いたんだけどなぁ・・。 

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大きくて典雅で、大好きなこの薔薇窓! 

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薔薇窓を囲む形で四隅にいるのは、4人の福音者のシンボル像で、
左上、天使像のマッテオ・Matteo 左下、有翼のライオン像マルコ・Marco
右上、鷲 ジョヴァンニ・Giovanni  右下、雄牛 ルーカ・Luca 



煌く朝日の下で見つめ今回気が付いた事は、ずっと大理石の彫刻のみ、と
思い込んでいたこの薔薇窓が、実は黄金のモザイクで装飾されていた事!

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入り口前から見上げるとキラキラ光り、それで気が付いたのですが、こんな様子。
円形の中心部には、内側から見ると、黄色のガラスが入っており、
それがとても印象的でした。



周囲を囲む小円柱の捩じり部分にも!

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上部の円形には緑色の詰め物跡も見え、そう、ちょうどオルヴィエート大聖堂の
あのキラキラに似た感じがこの薔薇窓にもあったのですね。

オルヴィエートの大聖堂
       


以前薔薇窓を描きつつ、ん?と思っていた左上のマッテオ像、やはり首が
取り替えられていた、というのか、元々から顔部分の石は別色の石だったのか、
も改めて確認したというか・・。

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左下のサン・マルコ像のライオン君の尻尾が、両脚の間を潜り、
お腹から背中に回っている事も、ははは、



そして薔薇窓の下の2列になっている小さな彫像群!
何かくねくねした形がある、花かな何かな、と思いつつ描きましたが・・、     
 
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なんとこの列に、中世的動物像、人間の顔を持つのも、ひしめいているのを見て、
嬉しくなって笑いました!

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向って右端の鳥の下、一番端には雄牛まで!

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アッシジのこの聖堂には、余り中世的イメージの像が無いと思っていたのですが、
やはり在った! 潜んでいました! 見ていなかっただけ!

そうなんです、今回のアッシジ訪問の目的は、こんなあちこちの細部確認が
自分に欲しかったので、改めての発見がとても嬉しかったのです。



上の聖堂内部に入ったのは8時50分位だったか、
まだ内部には2人ほどの人と、管理の人が行ったり来たりだけ。

なんとも清々しく、細長く高い荘厳な空気に、ああ、来て良かった!
青色の印象がやはり強く目に見えましたが、外とは打って変わった静かな
薄暗い中にフレスコ画がひっそりと。

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内部は写真禁止ですのでサイトから拝借ですが、
どちらの写真もこの向きが、上の入り口から入った時様子。

ジョットの壁画と呼ばれる「フランチェスコの生涯」について、描かれたのは
両壁面に全部で28面、壁に埋め込まれた支え柱で区切られた空間に各3面ずつ。
それぞれの画面については、次回にご案内を。
      

 
上の聖堂のみの図をどうぞ。

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左下の図は1997年の地震により被害を受け落ちた天井部分を示しますが、
入り口部分と奥の祭壇部分が落ちたのでした。 

16万時間におよぶ修復についてのヴィデオを見つけました、イタリア語ですが・・。
https://www.youtube.com/watch?v=OTz7AFp7Z5c



一番奥に連絡階段があり、降りていくと中間のテラス部分に。
下の回廊が見え、テラスの右手にショップがあります。

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テラスから見上げる聖堂の後陣部分はこの高さ!

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上の聖堂は一廊式の細長い高い身廊に両翼が付いた形のみですが、
一般人は入れないものの実際の建物全体は大変大きな物で、

こちら、上の要塞からの朝の写真と、

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下から見上げる威容。      

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聖堂建設は、フランチェスコが聖人に列席された没後2年の1228年に
始まったと言われますが、下の聖堂の完成は多分1230年。

聖フランチェスコの遺骸が荘厳に運ばれ埋葬されますが、
盗まれるのを恐れ隠されます。

現在下の聖堂の地下にお墓、石棺がありますが、これは1818年に
見つかったのを埋葬しなおしたものと。

聖堂建設についての建築師の名は記録に無く、ヴァザーリがヤコポ・テデスコ・
Jacopo Tedescoという名を挙げているそうですが、憶測であろうと。

下の聖堂の大きさは、最初の予定では現在のよりも小さく、
フランチェスコ派教会式の長方形の素朴なものだったのが、
早い時期に変更、大きなものになります。

修道士エリーアが宗派の総長となった1232年には、聖堂をもっと大きく
2層のものとし、宗派の創始である聖フランチェスコの栄光を称える事を決定。

というのも、フランチェスコの没後2年の間に、彼の人間像、業績がキリスト教の
歴史において、最も重要で意義深いものとみなされるようになり、
民間信仰、巡礼の大きな広がりと増加もあり、
これを踏まえての教皇とフランチェスコ会派との強い結びつき等など、
最初のためらいを越え、ここに威容を誇る聖堂が出来上がります。

ゴシック様式への変更は、1241年に総長となったイギリス人のアイモーネ・
Aimone da Faversham(イタリア語読みで)の影響が大きかったろうと
見られるのも、彼がアルプス以北の親方衆を呼んだのだそうで。

これで上の聖堂の正面壁にロマネスク様式が残り、
内部の骨組みは違うのも納得ですね。

聖堂の完成は1253年とされ、聖別式も執り行われていますが、
やはり資金不足は続いており、内部の様々な完成は後々まで。

とはいえ、下の聖堂のフレスコ画装飾のいくつかは13世紀後半に、
そして上の聖堂の装飾も済んでいたであろうという事ですが、
この詳細については、次回に。



では現在イタリア国の守護聖人とされるサン・フランチェスコは、
どんな人となりで、どんな生涯をおくったのかをちょっぴり。

こちらが下の聖堂に残るチマブーエ・Cimabueが描く姿。
色々な聖人像があるのですが、これが一番良く似ている、といわれるもので、
余り背も高くない方だった様子。

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聖人賛美風は苦手ですので、簡単シンプルに。

カトリック教会が認めているのは、1182年9月26日生まれ、
父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーネ・Pietro di Bernardone
母親はフランス人のジョヴァンナ・ピカGiovanna Pica.

洗礼を受けた時の名はジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ベルナルドーネ・
Giovanniだったのですが、当時としては例外的に、父親は彼の名を
フランチェスコ・Francescoと変えます。
布商人として彼に幸運をもたらしたフランスに対してか、
はたまた妻のピカがフランス女性だったからか・・。

一応の教育を終えたフランチェスコは14歳から父親の仕事を継ぐべく働き
始めますが、彼の青春は裕福な家柄や貴族の息子達との享楽的な物だった様。

それに変化を齎したのがペルージャとの戦争で、1202年の戦争に参加し
捕虜となり、1年後に父親が身代金を払い、アッシジに戻ったものの重病に。
どうやらこの辺りで、彼の心の中に変化が起こり始め、自然の中に孤立して
過ごしたり、貧しい者達への哀れみの心が湧き上がって来た様子。
       
それでも再度1204年頃、南イタリアのレッチェ・Lecceの十字軍に参加すべく出発。
当時のヨーロッパにあって、騎士として十字軍に参加するのは
最高の名誉とみなされていましたし、彼も騎士になりたかったのですね。

所がスポレート・Spoletoに到着した所でまたもや病となり、
初めて深く回心したといわれ、アッシジに戻ります。

一番大きな逸話として語られるのが、1205年サン・ダミアーノ教会で祈っていた時
十字架が3度彼に語ります。
フランチェスコ、見るとおり崩壊している私の家を、修理しなさい、と。

この後父親の店から盗んだ布や馬をフォリーニョ・Forignoの町で売り払い、
その金を司祭に渡したりしますが、
激怒した父親は、罰を受けた息子の対応の変化を願いつつ、司法官に訴え、
       
1206年の1月、アッシジ全部が見守る司教館において父親が話し終わるや否や、
何のためらいも躊躇も無く、すべての衣類を脱ぎ父親に渡し、

「今までこの世においては父親と呼びましたが、これ以降は絶対の確信を持って、
天にいる父が我らの父。 なぜなら彼にすべての私を渡し、私の信頼と希望の
すべてを預けているからです」と別離を。 
フランチェスコ24歳のとき。

こうして極清貧の生活を送りながら、布教に努め、貧しい人々の救済に当ります。



これらが現在残されているフランチェスコの修道服で、下のは最後の物と。
    
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これはアッシジの下の町、サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ・
Santa Maria degli Angeliの聖堂内にある
フランチェスコが亡くなった小教会ポルツィウンクラ・Porziuncola.

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彼の生涯における様々な宗教的逸話は、上の聖堂の壁画に描かれており、
次回にご覧頂きますね。

今回、聖堂の北の林の中の道、散策に適した道が「フランチェスコの森・
Bosco di San Francesco」として、解放されているのを知り、

ヴィデオも見つけましたので、どうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=dR_nx3V7yns



最後はフランチェスコの元に宗教生活に入り、後に女子修道会クララを設立した
聖女キアーラ・Santa Chiara.

下の聖堂にあるシモーネ・マルティーニ・Simone Martiniの作品で。

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そして町の東にあるサンタ・キアーラ聖堂。

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ここにも大変清楚な、美しい薔薇窓が。

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最後が短くなりましたが、次回もよろしくお願いいたしま~す!
   
  
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