・ n.2 スフォルツェスコ城 ・ ミラノ

さて先回に引き続いての、ミラノのスフォルツェスコ城のご案内ですが、
内部に設置の市博物館の様子の内、無料で見学できる部分のみを、
それでも膨大な展示でして、それを2回に分けご覧頂こうと思います。

写真は展示物がどの部屋にあるかを示しておりますが、
今回は下側入り口から辿り、最初のちょっぴりを。

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と、ミラノの領主からミラノ公爵に成り上がったヴィスコンティ家、そしてそれを
受け継いだスフォルツァ家についてもざっと纏めてみましたので、
と言う割には長くなりましたが、はは、それらをごゆっくりどうぞ。

       

最初の部屋には、既に今は無くなっているミラノ各地の教会からの、
初期キリスト教の様々な遺物が集まっており、

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あれこれ写真は撮っているのですが、ご説明できる程の知識もなく、
・・で、ブログで見て頂くとなると、
つい、こういう物を取りだしてくるshinkaiです、ははは。



こちらは2.の部屋にある素晴らしい巨大な記念墓碑。 ロンバルディアの
ロマネスク・ゴシック彫刻群のこの部屋の中でも一際目を引く騎馬像。

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作者はボニーノ・ダ・カンピオーネ・Bonino da Campione.
制作年が1360-63年というので、騎馬像が先に作られ、後に石棺の上に
乗せられた形ですね。

騎馬像の主はベルナボ・ヴィスコンティ・Bernabò Visconti 1323-1385
ベルナボのボにアクセントが来る名を持つ、ヴィスコンティ家9代目。



部屋がかなり暗く、高い位置の騎馬像で、下から撮ったのが良く見えず・・、

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で、こちらはサイトから拝借の正面からの姿。 鎧の胸にしっかりヴィスコンティ家の紋、
大蛇が人を飲み込む姿も、鎖の編みもどっしりと、迫力ある武人の彫像。

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実は写真を探していて、騎馬像の下の部分、石棺を支えている円柱に、
百合の花が彫られているのを見つけ、しまった!と思ったのですが、
これからお出かけになる方、是非お見逃しなく!

歴史家の書き残した彼は、見栄えのするインテリで、政治的にも優れた男。
がその半面信じられない程の残虐さを持つ極悪非道の圧政をした暴君で、
最後は自分の娘と結婚させた甥のジャン・ガレアッツォに捕えられ、
毒を盛られての最後ですが、



妻となったヴェローナの領主スカラ家のマスティーノ2世の娘
ベアトゥリーチェ・レジーナ・Beatrice Reginaとの、こんな睦まじい姿も。

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34年連れ添ったこの妻との間に子供が15人! 彼女が亡くなった時は、
家臣たちにも1年間の喪を強制したのだそうで・・。

本妻との間に子供が15人で驚かれた方、まだまだ早いですぞ!
他に愛人との間にも3人、も一人の愛人にも1人と、
戦いに明け暮れながらも、なんともはやお元気な暴君でございました!



所で、何が分かり難いかと言ってです、このヴィスコンティ家、それに続く
スフォルツァ家の家系に何度も登場するガレアッツォ・Galeazzo、
またはそれに何かがつく形の名前でして・・!
ずっと昔、塩野七生さんの「ルネッサンスの女達」で最初にお目にかかった
ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ!
おまけに名が縦書きなので、一字づつ拾い読みした記憶が!! ははは。
       
はい、このガレアッツォ関連の名が両家に6名おりますが、
まずはヴィスコンティ家の系図をどうぞ。

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当主順に番号も振りましたので、少しは分かり易いかと思うのですが、
1.オットーネ・Ottone (1207-1295)
 宗教界に入り活躍、教皇ウルバーノ4世のお気に入りとなり、1262年
 ミラノの大司教に任命を受けます。

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が、当時ヴィスコンティ家よりも勢力を持っていたデッラ・トッレ・Della Torre家を
熾烈な争いの末打ち破り、1277年遂にヴィスコンティ家がミラノの僭主・領主となる、       
オットーネがいわばヴィスコンティ家繁栄の始まり。

彼は外交的に上手く立ち回り、弟の孫に当たる 2.マッテーオ1世・MatteoI
(1250-1322)を後継者とし、これが2代目。

マッテーオ1世は賢明で、5万フィオリーニ金貨と引き換えに、
神聖ローマ帝国皇帝エンリコ7世(イタリア語読み)から、終生副王の任命を受け、
ヴィスコンティ家支配の正当化に成功。

そして元々の大貴族では無かったのをエステ家との婚姻縁結び、つまり次男の
ガレアッツォ1世にベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Esteを迎え、重みをつけます。
ですが終生ライバルのデッラ・トッレ一族との争闘が続き、ミラノから追放されたり
教皇とも上手く行かず、戦いに明け暮れた生涯だった様子。

で上記の、エステ家のベアトリーチェと結婚したマッテオ1世の 3.次男ガレアッツォ1世
(1277–1328)が3代目。 彼は大した政治手腕も発揮せずに済み、
       
その息子 4.アッツォーネ・Azzone(1302-1339)が4代目。
彼は平和と芸術、文化を愛しつつもミラノ領主として勢力、領土も増やしますが、
若くして後継者なしに亡くなり、

叔父のルキーノ・Luchino 5代目(1287頃–1349) と
ジョヴァンニ・Giovanni 6代目(1290頃–1354)に後継が戻ります。

2人は一緒に領主としてコムーネから認定を得たものの、ルキーノは残虐な性格を
持ち憎まれていた様子で、多分その為、ミラノの大司教であったジョヴァンニと一緒に、
という事だったろうと想像しますが、実際に殆ど行政はルキーノが行った様子。

約20年間に渡り、教皇から一族はミラノの街と共に破門を受け悩まされながらも、
彼の時代にヴィスコンティ家は大一族にのし上がり、大領土を持つように。
ルキーノは武人でもありましたが、商業の繁栄につながる馬の飼育や、
織、武器の職人にも熱心な男だったと。

ルキーノの2度目の妻イザベッラ・フィエスキ・Isabella Fieschi、
ジェノヴァの名家出身、類い稀なる美女、教皇アドリアーノ5世の姪なるものの、
その取り留めのない挙動からフォスカ・霧というニックネームがつき、
愛人の数は限りなし、・・に毒を盛られたというのですがぁ・・。

ええ、あれこれ読む内にこういう逸話にぶつかるのが妙味でして、ははは、
だからブログはやめられないという、好奇心と無知ムチのshinkai、はぁ。

もう一人の領主の大司教でもあるジョヴァンニも外交術にたけ、
ルキーノの死後3人の甥、ルキーノに謀反を企て追放されていた3人を呼び戻し、
1354年にジョヴァンニが亡くなると、統治が兄弟に移ります。

マッテーオ2世・MatteoII 7代目(1319頃–1355) 南部を統治
ガレアッツォ2世 GaleazzoII 8代目(1320–1378) 北西部 
そして既に上記したベルナボ 9代目(1323-1385) 東部担当を。

便宜上何代目と書きましたが、この3人が領土を分割し統治を。
そして長兄のマッテーオ2世は弟2人に、実際に手をくだしたのは兄弟3人の
実の母ヴァレンティーナ・ドーリア・Valentina Doriaらしいのですが、
毒殺され、領土は2人の兄弟で分割統治に。

毒殺の原因は彼の性格が放埓自堕落で、このままでは領土が危ないと
兄弟2人は恐れたらしいのですが、とりわけ彼の統治に含まれていた
ボローニャについての意見の違いで、マッテーオは教皇との争いを好まず、
街の独立を認める形だったのが原因だった様で。

3人兄弟の内ベルナボが最後まで残り、短気な暴君、政治的に機敏賢明な男が
広大な領土を1人で握った訳で、

甥であるガレアッツォ2世の息子ジャン・ガレアッツォ・Gian Galeazzoには
自分の娘カテリーナ・Catelinaと結婚させ、取り込みを図りますが、
逆に囚われ2人の息子ともどもに毒殺に。



さてヴィスコンティ家の最大の繁栄を築いた10代目がジャン・ガレアッツォ・
Gian Galeazzo(1347–1402)、こちらが良く見る肖像ですが、

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こんなのも見つけましたが、これ素敵でしょう?!

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若い頃から大変な賢明さで、武道にも特別に優れていたそうで、
心の内を悟られぬよう叔父のベルナボには心からの愛情で接し、最後には、
巡礼を口実に息子2人とミラノから出るように仕向け、いともた易く捕え、という
謀反の形で権力を握ります。

従妹のカテリーナ以前の、最初の結婚がフランスのジャン2世善良王の娘
イザベッラ・ディ・ヴァロア・Isabella di Valoisで、
婚資として持参したシャンパーニュの領土と公爵位も。



1402年のジャン・ガレアッツォの領土図をどうぞ。

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鮮やかな緑色の部分が、ローマを囲む黄色の教皇領に迫る勢いで、
アドリア海沿岸を除くと、ジェノヴァ共和国、マントヴァのゴンザーガ家、フェッラーラの
エステ家、フィレンツェ共和国が挟まるだけで、シエナからペルージャ、アッシジまで!

1395年神聖ローマ皇帝ヴェンツェルより10万フィオリーニにてミラノ公爵位を受け、
ミラノ公国となりますが、彼の野望はミラノを首都としたイタリアの統一。

大工事が大好きで、大金をはたいてのパヴィアの修道院、ミラノの大聖堂の建設、
はたまたミンチョ河、ブレンタ河の流れを替える喜び。
ですが55歳の若さでペストで命を落とし、亡くなる前に2人の嫡出の息子と
1人の庶子に領土を分け与えます。
        

ジョヴァンニ・マリーア・Giovanni Maria(1388-1412) 11代目     
フィリッポ・マリーア・Filippo Maria(1392-1447) 12代目

この2人は2度目の結婚、従妹のカテリーナとの子で、最初の妻
イザベッラ・ディ・ヴァロアとの間に生まれたヴァレンティーナ・Valentinaが、
オルレアン公爵のルイ・ディ・ヴァロアと結婚しており、
後年その息子が継承権があるとミラノに乗り込んでくる事件も起こります。

ジョヴァンニ・マリーアはミラノ公としては2代目で、父親のジャン・ガレアッツォが
亡くなった時はまだ13歳。 母親の摂政の下に領土を継ぎますが、
直に治め切れず綻びが出始め、傭兵隊長のそそのかしに乗り、母親を捕え閉じ込め、
毒殺かペストかで間もなく死亡。

大変残虐なというより、血に飢えたサディストという性格で、これは今まで書いて来た
どの暴君よりも残虐な所業の数々で、読むのが嫌になる程のものでしたが、
遂には暗殺されます。


こちらがヴィスコンティ家最後、ミラノ公3代目のフィリッポ・マリーア。

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フィリッポ・マリーアは2度結婚したものの子に恵まれず、父親の庶子である弟、
または甥を後継ぎにというのにも信頼度が不足。

という所に愛人アニェーゼ・デル・マイアーノ・Agnese del Maianoに生まれたのが
娘ビアンカ・マリーア・Bianca Maria(1425–1468)で、
幼い頃から聡く過剰な奢侈には目もくれず、頑固であるのを見て、
きちんとした教育を施し育て、娘の夫を後継ぎにともくろみます。



傭兵隊長を務めていたフランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza
(1401–1466)との婚約が整ったのは彼女がまだ5歳の時で、彼は25歳年長!
       
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その後もあれこれの変遷があり、実際に結婚したのは1441年、
この相対図では中年っぽいですが、失礼、ビアンカ・マリーア17歳の時。

2人の結婚生活はと言うと、ビアンカにとって結婚は絶対的なもの、であるのに対し、
フランチェスコは無頓着、まぁね。
結婚後最初の愛人の存在がばれた時、彼女は子供に会いに行くのを阻止し、
愛人も不可思議な誘拐、そして殺害という事件があったとか。

父親であるミラノ公フィリッポ・マリーアはかなり気まぐれな性格、その上に疑い深く、
最後まで婿を信頼しきれなかった様ですが、フィリッポ・マリーアが1447年に亡くなり、
ミラノでも政治混乱に見舞われ、ヴェネツィア軍の侵攻などもあった後、
1450年、遂にフランチェスコとビアンカはミラノに戻り、
ここにスフォルツァ家によるミラノ公国継承となります。



お疲れ様でした! ちょっと一息ね。

ベルナボの騎馬像のあった部屋の天井、フレスコ装飾をどうぞ。
素晴らしく優雅で繊細で・・、しばし感嘆し眺めました。

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ヴィスコンティと言うと、我らには映画監督のルキーノ・ヴィスコンティ・
Luchino Viscontiが即思い浮かびますね。
リアリズムではあるものの、その美的感覚が一種独特で、とりわけ貴族社会を
描いた物には重みがありましたよね。

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「山猫」 「ヴェニスに死す」 「地獄に堕ちた勇者ども」 「若者のすべて」
「夏の嵐」「ルードヴィッヒ」 「イノセント」等など。
写真を探していて、美しき主演女優達の姿もあれこれ見つけ、とても懐かしかった。
皆さまもしばしの息抜きのお楽しみを!
https://www.youtube.com/watch?v=h5v9eFvhYCI       

ヴィスコンティ監督はミラノ大公の血筋ではありませんで、
ご興味お有りの方はもう一度系図をご覧下さいね。
1.オットーネ・Ottoneの弟に、アンドレオット・Andreottoがいて、その息子にテバルド
  Tebaldo. ミラノ領主はテバルドの息子マッテーオ1世に移っていくのですが、
       
系図には載っていないマッテーオ1世の弟にウヴェルト・Uveruto(1280-1315)で、
その息子ヴェルチェッリーノ・Vercellinoが公爵ヴィスコンティ・ディ・モルドーネ・
Mordone家の流れとなり、最初は侯爵だった様子、
で、彼はこの直系にあたり、公爵ロナート・ディ・ポッツォ―ロ・
Conte di Lonato Pozzolo、他にも爵位と肩書があれこれの方なのでした。



さてもう一踏ん張り、ははは、スフォルツァ家もやっつけてしまいましょう!
系図をどうぞ。

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1.ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと結婚し、ミラノ公国を受け継いだ
  フランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza. ミラノ公4代目

2.長男のガレアッツォ・マリーア・Galeazzo Maria(1444–1476) ミラノ公5代目
  22歳で後継となりますが、その傲慢尊大で放埓な性格から母親とすぐに衝突、
  10年後謀反により暗殺されます。

3.その息子ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・Gian Galeazzo Maria
  (1469–1494) ミラノ公6代目
         
父親が暗殺された後、1478年彼はたった9歳で母親ボーナ・ディ・サヴォイアの摂政の
下に公爵位を継ぎ、1489年にイザベッラ・ダラゴーナ・Isabelle d'Aragona、
ナポリ王アルフォンソ2世の娘と結婚。
その後徐々に政治の職務から離れ娯楽、気晴らしに身をやつすようになり、
         
叔父であるルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ・Ludovico Mariaというより、
イル・モーロ・Il Moroの通称が有名な叔父に追い出され、最後は多分毒殺と・・。

4.ルドヴィーコ・イル・モーロ (1452–1508) ミラノ公7代目
  イル・モーロ、ムーア人というニックネームは、肌の色が浅黒く黒髪だった、と
  言う説が一般的ですが、
  代々のスフォルツァ家の中で彼が一番有名なのではないでしょうか?!

摂政から入り込み、政治に関心のない甥を追い出し徐々に大権力を握る、野心満々、
そして芸術、文学、科学を愛する男だった様ですが、ここではちょっと別の興味を。



ルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Este(1475–1497)
の結婚式、1491年の様子をまず。

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イル・モーロ39歳、ベアトリーチェ16歳、
かのイザベッラ・デステの妹ですが、このヨーロッパで最高に洗練された当時
のミラノの宮廷にあって、どこかまだ少女の下膨れの顔にも見え、
垢ぬけない感じを受けませんか? と意地悪shinkai。



正面の顔はやはり下膨れで、失礼、美人とは言い難いのですが、
この素晴らしい織の意匠、髪飾りをご覧下さいね。
彼女は嫁いで僅か6年、二人の後継者を授けた後22歳の若さで産後の死を。

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一方こちら、イル・モーロの素晴らしい衣装の写真。
なんとも手の込んだ小紋柄の様な衣装で、平安貴族をも想像しましたが、
帽子の飾りのM、真珠のついたお洒落なもので・・!

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イル・モーロはレオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも迎え、豪奢なミラノの宮廷を
愉しみますが、妻にベアトリーチェを迎える以前からの有名な愛人
チェチ―リア・ガッレラーニ・Cecilia Galleraniを描いたレオナルドの作品がこれ。

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こんな美人の愛人が同じ城にいたのでは、ベアトリーチェもさぞや・・!

ダ・ヴィンチのデッサン「白貂を抱く・・」
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20181205-1.html 
        
最盛期を極めたイル・モーロでしたが、晩年はフランス王ルイ12世の
イタリア侵攻で捕えられ、8年間のフランスでの獄中生活の後1508年に死亡。

イル・モーロとベアトリーチェ、二人の息子の
5.エルコレ・マッシミリアーノ・スフォルツァ・Ercole Massimiliano(1493-1530)
  ミラノ公8代目ですが、僅か3年間でフランスのフランソワ1世の侵入により退去、
  パリで死亡。

6.フランチェスコ・マリーア2世・スフォルツァ・Francesco Maria II (1495–1535)
  僅か3歳の時に父親と一緒に捕えられ、21年間の亡命生活。
  漸くに1521年ミラノに戻り9代目のミラノ公となりますが、フランス勢に常に脅かされ
  心配の絶えない政治状況。
1535年病み殆ど盲人となり、若くして後継者なく亡くなり、遂にミラノ公は9代目で、
ヴィスコンティ家のオットーネの台頭から約250年程続いた時代が終わります。

こうしてフランスの下に下ったミラノは、それ以降スペイン、オーストリアの占領下に
360年間を過ごす事になります。
       
という、ヴィスコンティ家とスフォルツァ家の世襲のお話でした。

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