・ n.1 スフォルツェスコ城 ・ ミラノ 

皆さまこんにちは!
秋晴れの良いお天気が続いている、北イタリアですが、
皆さまもそれぞれの秋を、お楽しみの事と思います。

さて今回からミラノのスフォルツェスコ城・Il castello Sforzesco
のご案内を、と言いましても、私も確か3,4度訪問はしているのですが、
即ご案内できるほどには知りませんで、宿題提出が滞っておりました。

で、年明け早々に行った写真と首っ引きで突き合わせ、
ヴィスコンティ家の事、城の名に残るスフォルツァ家の事も
あれこれ必死に読み、図も集めました。

という事で、現在はミラノ市の博物館となっているスフォルツァ城、
ドゥオーモと並びミラノのシンボルとも言える、
あの壮大威容な城の一端をお楽しみ頂ける様に頑張りますので、
よろしくお願い致しま~す!

まず、雑誌から拝借の素晴らしい写真を。

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こちらはサイトから拝借の、上空からの写真で、

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これもサイトから拝借なのですが、城を囲む建物群の様子を見て頂きたく。

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城の後ろに広がるのは広大なセンピオーネ公園・Sempioneで、
入り口正面から続く道は、真っ直ぐにドゥオーモ前に。


年明け早々の、ミラノの街 散歩  街中心の地図もここに。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460939254.html
       
ミラノのドゥオーモ ・ Duomo di Milano
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460940205.html
     

  
さて私の写真で、正面向かって左側。 手前に大きな噴水があり、


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こちらが正面入り口のフィラレーテの塔・Firarete.
そうなのです、ちょうど修復で全面覆われていまして残念!

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私めの初のイタリア旅行、既に30年程前になりますが、きゃぁ!
初の海外旅行、初のイタリア、そのまた初訪問がこの城だったのですが、
その時のこの門、城の威容さに物凄いカルチャー・ショックを受けた事は、
よお~く記憶しております。

壁のあの厚み、高さは、まさに歴史の経緯とともに無言の迫力で迫り、
それと共に、内部の部屋のフレスコ画の装飾の素晴らしさには、
教会の黄金背景の祭壇画ともどもに魅せられ、
自分もテンペラ画を描くようになった、最初の対面でした。
今も変わらずに存在する同じ壁を眺めながら、本当に懐かしかった!

そんなこんなで時に感傷的な言葉が出ても、ご容赦願います。
今回一緒に行ったアンナリーザは、この城は始めてだそうで、
こんなに覆われていても、その素晴らしさに感嘆しておりましたです、はい。
      
因みに名に残るフィラレーテというのは、1452年の建築設計者の名で、
この塔は一度1521年、当時駐屯していたフランス兵のドジで、武器庫に
充てられていたここで爆発があったのだそう。1905年に修復され、現在見る姿と。



こちらは正面右手。 手前の草地はかっての堀の名残で、
現在は野良猫ちゃんたちがたくさん!

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最初の簡単な図をどうぞ。

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1.フィラレーテ門、城正面入り口 1452年建設
2.5.トッリオーニ・Tprrioni 正面両脇の円柱形の塔
6.ピアッツァ・デッレ・アルミ・Piazza delle Armi・武器、部隊広場
7.ボーナ・ディ・サヴォイア塔・Torre Bona di Savoia
  これはガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・Galeazzo Maria Sforzaの妻の名
  に由来するそうで、彼女は大変な美人だったそう。
  夫ガレアッツォ・マリーアは、ヴィスコンティ家からミラノ公位がスフォルツァ家に移った
  初代フランチェスコの息子で、1476年僅か8年の結婚生活で夫が暗殺され、
  その時彼女はまず円柱形のトッリオーネに逃れ、そこから続く城の中心に位置する
  この塔に入った、のだと。
8.奥のこの部分が、古くからの城の中心部、居住区だったそう。
9.こちら側が、ミラノ公宮廷部分
       
所でこの城がスフォルツェスコ城・スフォルツァ家の城と呼ばれているのは、
それ以前のミラノの領主、そしてミラノ公となったヴィスコンティ家・Viscontiが、
1447年フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ・Filippo Mariaの死により途絶えます。

強力な圧政独裁のヴィスコンティに反撥した地元の貴族などのグループが
アウレーア・レプッブリカ・アンブロジアーナ・Aurea Repubblica Ambrosiana
と名乗り、城の一部を破壊。
石は切り出されて借金の支払いに充てられたり市壁の修理用に使われたと。

そしてヴィスコンティ家最後のフィリッポ・マリーアの庶出の娘、唯一の相続者である
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ・Bianca Mariaが、ミラノ公連隊の指揮官を
務めていた傭兵隊長、ヴェネツィアに付きミラノに対抗した事もあった
フランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforzaと結婚、ミラノ公の称号をも継ぎ、

14世期に建設されていた要塞、城を補強し、1450年大要塞を建築したのが、
現在見る姿、スフォルツェスコ城と呼ばれる所以というのですが、
その後次々と増築され強力な要塞となり、当時のヨーロッパでも最高だったと。

スフォルツァ家が1535年に滅びた後は、スペイン、オーストリア、フランス等などの
次々と大軍事要塞駐屯地となり、その後は半ば放置状態であったのを
19世紀末から20世紀初頭に大改装し現在の姿に。

ミラノ市の博物館、文化的行事の催事場という事で、当初の大要塞の
何分の一かの大きさなのだとか。
       
今回私はこのブログの為にあれこれ読みましたが、
正直最初はまるで頭に入りませんでした、はぁまぁ、これはいつもの事ですが!
というのも、現在の博物館、無料で見れる部分だけでも大変な広さ、
おまけにヴィスコンティ家と言い、スフォルツァ家と言い、
その変遷を良く知らない上に、なんとまぁ、同じ様な名前が次々と出て来まして・・!

そんなこんなを読み返しながらそろそろと整理し、漸くに纏まったので、
多分これを読まれる皆さんも同じだろうと思い、ははは、
そうで無い方も大勢おられるのは勿論承知しておりますですが、はい!
という事で、

全部を一度にざっと書かずその折々に、写真をご覧頂く順に連れ、
読んで興味を持った事などを書かせて頂きますね。



さて正面のフィラレーテ門を入ると、広大なピアツァ・デッレ・アルミ。
正面左手に見えるのが、ボーナ・ディ・サヴォイア塔で、
中央が古くから残るジョーヴィア門・Porta Giovia。

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このジョーヴィア門を通り抜けて行くと、裏手に広がる広大な公園に抜ける
城の裏門バルコ門・Porta del Barcoに行きます。

ヴィスコンティ家が14世紀に元の要塞、城館を建設していた訳ですが、
1360~70年にこのジョーヴィア門から繋がる街の城壁、
馬で走れる城壁、というのをご想像下さいね、を建設した、とあります。

その後ヴィスコンティ家の最絶頂期を迎えたジャン・ガレアッツォ・Gian Galeazzo
そしてその息子達ジョヴァンニ・マリーア、フィリッポ・マリーアの時代に
城はもっと拡張されたと言い、

現在見る様子の四角形で一辺の長さが200m、四隅に角の塔があり、
街に向かった湾曲部の塔はとりわけ壮大な物で、周辺の壁は厚さ7m!



ボーナ・ディ・サヴォイア塔のアップ。

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ボーナ・ディ・サヴォイア塔に続く壁、この威圧感!
高さもそうですが、この壁には窓が一つもありません。

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この壁の向こうに内庭ロッケッタ・Rocchettaと呼ばれる中庭を囲んだ
古くからの居住部分があり、勿論防御の為なのですね。
       
       

こちらは西側を向いた所で、右に見える門はサント・スピリト門・
Porta di Santo Spirito.

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正面入り口側に当たるこの棟部分は、現在図書館や学校部分に充てられて
いますが、壁に見えるのはヴィスコンティ家の紋というよりもミラノ市のシンボル、
そして私にはアルファ・ロメーオで~す。

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西のサント・スピリト門を出た所、見えるのはリヴェッリーノ・Rivellino
と呼ばれる半月堡で、堀に突き出した形。

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右の壁の奥に塔が見えますね。 内側からだと高さが違わずで余り塔には
見えないのですが、これだと良く分かりますね。

カステッラーノ塔・Torre del Castellanoと言い、この1階部分は宝物の間・
Sala del Tesoroと呼ばれ、ルドヴィーコ・イル・モーロが宝を納めていたのだそう!



こんな図も見つけました。これだとかっての様子を良く想像できますね。
今は浅い草原になっている堀の外に、もう一回り城壁があったのですね。

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で、このかっての堀には、正面側もそうでしたが、野良猫ちゃんがいっぱいいて、
折からの冬の西陽の温かさを満喫中!

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サント・スピリト門の天井にあった、ヴィスコンティ家の紋、
イル・ビショーネ・大蛇・il Biscione。

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王冠を戴く大蛇が、肌の浅黒い男を飲み込んでいる姿ですが、
ヴィスコンティ家は元々の大貴族ではありませんで、政治的才覚を持ち合わせ、
どしどし伸し上って来るとともに、当時一種の流行りであった
神話的な源のお話と紋章が出来たと。




さてアルミ広場に戻っての、東側の眺め。

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威圧的また機能的なとも言える素晴らしさ、を感じる壁。

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内庭ロッケッタに抜ける小さな門。

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所で左に見える青いポスター、ぺテルツァーノ・Peterzanoと読めますね。 
実はまるで知らずに通り過ぎましたが、
このぺテルツァーノというのは、かのカラヴァッジョの師匠なのだそうで、
  
昨年一時カラヴァッジョのデッサンが数多く発見された、というニュースが流れた事が
ありましたが、実はこの師匠のデッサンだったという、展覧会だったのだそう。

詳細は「ヴェネツィア ときどき イタリア」のfumieveさんがこちらに。
http://fumiemve.exblog.jp/17354356/



小さな門を潜った内側から見上げる威圧の壁。

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こちらは北のバルコ門に。

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門から見るセンピオーネ公園の向こうの凱旋門。
まだクリスマス、お正月の休暇中で、大勢の人で賑わい・・。

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ミラノ公宮廷の建物に囲まれた内庭、これは西向きの眺め。

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素敵な柱頭がぽつんと。

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という所で、おさらいを兼ねまして、ははは、各部分の名称と位置をもう一度。
1.正面入り口フィラレーテ門
2.西側にあるリヴェッリーノ・半月堡
6.ピアッツァ・デッレ・アルミ、またはコルテ・マッジョーレ・大広場
7..ボーナ・ディ・サヴォイア塔
8.内庭ロッケッタ、ここにはCortile della Raccoltaとあります
10.カステッラーノ塔、宝物の間
11.ジョーヴィア門
12.ミラノ公宮廷内庭

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13.象のポルティコ・ポーチ
15.ガレアッツォ・マリーアのロッジャ
16.アッセの間 レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたフレスコ画の間
   ファルコニエーラの塔・Falconiera
17.ルドヴィーコ・イル・モーロの渡り廊下



さて上図にある13.象のポルティコがこれ、
はい、動物たちと人物が描かれたポルティコの一郭。

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ここは公的行事に使われていた場所だそうで、様々な動物たちが描かれていた
様子ですが、現在残るのはこの象と、



ライオンの後ろ脚部分のみ、と。

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このポルティコの下にある、このちょっと不思議な雰囲気の像。

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このポルティコ部分は、2度目の城訪問の時に見て大変気に入り記憶に残るもので、
今回再会し、とても懐かしく嬉しかったのです。

傍らにあった説明文を写したのを読みましたら、この部分は上から漆喰が
掛けられていたのを20世紀初頭に発見されたのだそうで、
ルドヴィーコ・イル・モーロの時代の記録に書かれているのが見つかったと。
       
そして大変興味を引かれた一節は、最近の研究により、この作品には
バルダッサーレ・デステ・Baldassarre d'Este、1461~69年にかけ、
このミラノの宮廷で働いていた、彼の手が入っている様子と。



バルダッサーレ・デステという画家は暫く前に偶然知ったのですが、
こちらが彼を知るきっかけとなったその作品。

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可愛い少年像ですが、誰あらん、マントヴァ侯爵フランチェスコ2世、8~14歳の肖像。
マントヴァ侯爵フランチェスコ2世ゴンザーガ・Gonzaga(1466-1519)は、
武勇に優れ、そう、妻はかのイザベッラ・デステ・Isabella d'Este.

ちょっと横道にそれますが、バルダッサーレ・デステ、またはエステンセ・
エステ家のバルダッサーレ(1441頃-1504)という名を持つ画家についてちょっぴり。

生まれはレッジョ・Reggio、エミーリア・ロマーニャ州ですが、
つまりフェッラーラ、エステ家のニコロ3世・Niccolò IIIの庶子であろうと。
そうでないと特異的にフェッラーラのエステ家の宮廷画家となり、
報酬を受けていた理由が見つからないと。

絵の師はコスメ・トゥーラ・Cosimo Turaで、並ぶ腕を持ち、肖像画を得意と
していた様子で、エステ家のボルソ・Borsoのそっくりと言われる肖像画も残ります。

横道にそれついでに、もう一つ。
父親だろうと言われるニコロ3世は、まだエステ家初期の侯爵位、あちこちに
女をつくって歩いた事でも有名なのですが、800人以上だって!ははは、

それ以外に有名なのは、
2度目の妻として迎えた若いパリジーナ・マラテスタ・Parisina Malatestaが、
彼が最も愛した女という愛人との子、後継と決めていたウーゴ・Ugoと不義密通に。
年の離れた夫よりもずっと年も近く、繊細な若い男ですものね、ははは。
それが発覚し、二人とも斬首刑になった、というお話。

フェッラーラ・エステ家の城 その1と2



という所で、現在スフォルツァ城に置かれたミラノ市博物館の内部に。

たくさんの部門に分かれ、絵画館、楽器、エジプト博物館等などは有料ですが、
無料でもたくさんの展示物が見れ、
その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの描いたアッセの間や、
ミケランジェロの最後の作品、ロンダニーニのピエタも含まれます。

博物館入り口はジョーヴィア門を潜った脇にあり、こんな様子で、収蔵品に溢れ・・。

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実はこの後も切りの良い所まで、と思って始めましたが、
いささか横道にそれたせいか、長くなりました。

という所で、今回のご案内は市博物館入り口まで、とし、
長くなるかもしれませんが、ははは、ご寛容の心を持って、
次回をまた楽しみにしてやって下さいませませ!

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