・ n.4 パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア 

セレニッシマ・いとも高貴な、ヴェネツィア共和国政府の中枢、ドゥカーレ宮の
最後のご案内。 どうぞ、よろしくお付き合い下さいませ!

写真はドゥカーレ宮の南西の角部分で、1階部分にはアダムとイヴの像があり、
2階の角には裁きの女神がいて、

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この2階のロッジャを内側からという事で、先回途中で切れた話の後半ですが、
ヴェネツィア65代ドージェ、34年に渡る最長在任のフランチェスコ・フォスカリ、
今回はその一人息子の話をどうぞ。

こちら、やはりアイエスの絵で。 息子ヤーコポが、父に別れを告げる場面で、
ドージェは既に80歳を超える老齢、息子は遠島投獄に。

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ヤーコポ・フォスカリ・Jacopoは、父親が再婚しての息子で1416年頃、
父親43歳の時の生まれ。

6歳の時に父はドージェの位に、22歳の時に兄がペストで死亡と一人息子になり、
他人には大変厳しい事で有名なドージェは、逆にその息子には溢れるほどの
愛情を注ぎ、立派な教育も。

1441年のヤーコポの結婚式には、私的な事に関わらず、ドージェのお召し船
ブチントーロを花嫁の迎えに出したり、2週間以上に渡るサン・マルコ広場での
祝いのお祭り騒ぎは、ヴェネツィアの市民に強い印象を。

ヤーコポの名は22~28歳にかけ議員名簿に載るものの、いつも取り消しの線付き、
つまり長続きしなかったのですね。
頭が良く快活で豪奢な生活を愛し、ただ政治的センスと、自分の立場を認知する
意識が欠けた、慎重さが不足の若者とでも。

こうして1445年、外国の君子との共謀の疑いで10人委員会は彼の投獄を決議、
その気配を察するやトリエステに逃亡。
どうやらこれには一家が噛んでいた様で、ここ迄はまぁ息子の不祥事程であったのが、

ドージェ選出時の対抗者であったピエトロ・ロレダン、彼は選挙に敗れた後、
毒を盛られて死亡しているのですが、その甥のフランチェスコが、政敵を蹴落とす
良きチャンスとばかりに乗りだして来ます。

この辺りの成り行きは、「ふたりのフォスカリ」としてバイロンが描き、後に
ヴェルディがオペラにしており、後の研究者の見方も、ロレダン家のフランチェスコと
ロレダン一家の政敵に対する冷たい計算が働いていたもの、で一致する様子。

但し、まるでない物をでっち上げた訳ではなく、つけ込まれる軽率さを持っていた
ヤーコポの悲劇とでも言えましょうか。

こうして始まったフォスカリ家の苦痛、ヤーコポの追放劇は、終わると思うとまた
別件で逮捕遠島と、10年以上に渡って都合3回も起こったのですね。
最後は拷問にかけられつつも無実を主張、決定的な証拠がないと、
1456年7月にクレタ島への遠島収監の判決に。

アイエスの絵は、最後の父子の別れでしょうか。 こうして、ヤコポはクレタ島で
1457年1月に死亡、その知らせが遅れてヴェネツィアに届きますが、
84歳になる父親には、さぞや残酷な知らせだったでしょう。
    
晩年はドージェとしての公務にも関心が薄れ、会議も欠席する事が多くなっており、
遂に、高齢により公務に支障をきたすを理由に、1457年10月19日
10人委員会は彼の罷免を決定し、通達。

それまでに何度か彼自身が辞職願を出し、その都度却下されていたにも関わらず、
この時彼は拒否します。
大評議会の認可が欠けているという理由ですが、尚も10人委員会はごり押しを。
この時の通達者には、かってドージェ選抜選挙で争い、負けて後毒殺された
ピエトロ・ロレダンの息子ヤーコポが。

10月22日に再度罷免通告、8日以内に官邸を退去する事、
財産は没収する旨を告げられますが、
翌朝まだ寝ている所を起こされ、ドージェの角型の冠コルノを取り上げられ、
ドージェの指輪もへし折られ、なすすべもなく、自分の家の修復が済む間、
ドゥカーレ宮に居残るのみ、こうして遂に24日、立ち去ります。

6日後の10月30日 ヴェネツィアは新しいドージェ、パスクワーレ・マリピエーロ・
Pasquale Malipieroを選出。

フランチェスコ・フォスカリ84歳が息を引き取ったのは11月1日の明け方。 
この知らせは新総督を、議員をも困惑させますが、国葬で送る事が決定、
未亡人が遺骸の引き渡しを拒むという場面もありましたが、結局ドージェの
衣服を纏った国葬に。

1人息子であったヤーコポには2人の息子と2人の娘がいたそうですから、
以前ご案内したブレンタ川沿いのあの美しいヴィッラ、ラ・マルコンテンタを造った
フォスカリ家の兄弟は彼の子孫という事になりますね。
       
フォスカリ家のこの2人の悲劇的な逸話の後、一家は政治的に一線に出る事は
無かったそうですが、財政的には大変裕福なヴェネツィアの貴族で継続した様子。

ヴィッラ・フォスカリ、または、ラ・マルコンテンタ
       



では「ドゥカーレ宮秘密の行程」にご案内を。 が写真厳禁、しかも7~8人の
少人数で隠れ様もなく、写真はガイド・ブックとサイトからでどうぞ。

中庭から「金の階段」を上った3階の四角いロビー、ご案内n.1で見て頂いた扉
ですが、あそこから「秘密の行程」が始まります。では、いざ!

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扉の内には狭い通路があり、これまた狭くて大変急な階段を上ると、
中庭から見える4階の窓の内に、薄い木の壁の小部屋、小さな机の置かれた
本当に質素な部屋が幾つかあり、
これらの部屋にドージェの公証人、司法官たちの助手、そして膨大な記録庫の
管理人達が働いていたのですね。

少し脱線しますが、ヴェネツィア共和国の記録庫の量の凄さというのは、
確かヴァティカンの記録庫、ウィーンのハプスブルグ宮廷に次いで3番目を誇る
膨大な記録量で、これを齧るネズミ達が最大の敵。
で、その為に猫達を増やしたのだとか!

ヴェネツィアで今もたくさん見かける猫ちゃん達は、単に港町特有の存在ではなく、
かってはお国の機密保持に貢献した、エゲレスとかいう国の首相官邸の猫の様に、
働かずにただ飯を喰らうのとは違う、ははは、お偉い猫ちゃん達の末裔なのですぞ。

つまり、ドゥカーレ宮のこの隠れた部分に、ヴェネツィア共和国の行政管理人たちが
控えていたのですね。
彼らは貴族ではなく、市民・チッタディーノと呼ばれる階級出身者で、任官されると
終身で、お給料も大変良く、貴族と同じ特権にあずかり、
但し評議会での投票権は持たず、その死去に際しては国葬、またはドージェと
大司教出席で送られたのだそう。



ここは最高書記官・Cancelleria superioreの部屋、ちょっと船室を
思わせる部屋でしたが、この手前の一段高い所に長テーブルが置かれ、
こちらで助手たちが仕事をしていたのだと。

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両脇にずらっと並ぶ箪笥様の物にそれぞれ紋が見えますが、代々の書記官の物。
ガイドの説明通り、彼らは元々市民階級の出で、ここに至って初めて紋を持つ訳で、
その図柄は至って単純、姓名からの直訳的な柄が多く・・、はは。

ご覧の通り天井が大変低く、既にドゥカーレ宮の屋根、鉛の天井の下とあり、
夏は暑く冬は寒く、仕事環境は良くなかった様ですね。
    

          
写真はサイトからの拝借で、4階ではなく、その半分下の階の部屋だったと思いますが、
・・上がって下がって記憶も揺れ、済みまへん、

つまり部屋の内部の人間には、箪笥、壁と見せかけた隠し部屋というか、
隠された出入り口というか、写真では結構広く明るく見えますが、狭く暗い物。

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これ以降の写真3枚はガイドブックから。
4階の行程のここは監獄部分。カザノヴァが最初に入れられた、という部屋内部も
見ましたが、頭を打ちつける程の天井の低い狭い細長い部屋だったと。

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ちょっと見え難いですが、写真左端に見える扉のカンヌキ、このL字型に
ご注目願っておきまして・・、



お待たせいたしました、こちらが拷問室! はい、これだけ!

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ヴェネツィア共和国政府は代々、緩やかな穏やかな拷問、拷問にそう言う言葉が
通るのであればですが、柔らかい拷問を使い、映画で見る様な凄惨流血はありませんで、
3階からの写真で見て頂いた、
屋根に飛び出た天窓から吊るされた長~~いロープに、後ろ手に縛った
容疑者を吊るし上げたのですね。

まぁ殆どはこのロープを見た時点で容疑を認める、白状する、という有様だったそうで、
それでも上記した様に、フォスカリの息子ヤコポもこの拷問に。
そして使用も徐々に減り、16世紀以降は無くなったとの事。



こちらは、屋根に飛び出している天窓を中から。

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17世紀になってドゥカーレ宮の東に、運河を挟んで新しい監獄の建物が造られ、
その内部の様子は、n.2のご案内で見て頂きましたが、
ドゥカーレ宮内部にも牢獄が2種類ありました。

一つはポッツォ・井戸と呼ばれる地下の湿った牢、これは最悪!
も一つは鉛の天井下のピオンビ、まさに鉛と呼ばれる部分で、ここには6つか7つの
部屋があり、異端審議会、または10人委員会の審議を待つ者が入れられたのだそう。

ドゥカーレ宮の鉛の板で葺かれた大屋根、それにカラマツの板の層を釘で打った
屋根裏の下の牢、脱獄不可能と言われたこの牢は、夏の暑さは耐えられない程で、
実際この秘密の行程も、夏季のお昼には無いのだそう!

1755年7月26日の夜一人の男が逮捕され、このピオンビ・Piombiに。
はい、稀代の女誑しで名が残るジャコモ・カザノーヴァ・Giacomo Casanova
30歳の時。

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彼はパドヴァ大学で勉学した、単なる女誑しではない深い教養を持ち、哲学科学
にも通じ作家としても優秀な男。
彼については、ウィキぺディア・イタリア版に模範とされる詳細記事もあるのですが、
ここではグンと絞り、このピオンビからの脱獄の逸話についてのみ記しますね。



ピオンビに収監され脱獄した模様を、彼は簡潔な文体、深い観察に満ちた
記述で残しており、

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Fondazione Musei Civici Venezia というサイトに記述があったのですが、
調べると現在は消されて、ヴェネツィアの博物館群のサイトに纏められ・・。
    
ですが、そこからの図版、資料も含めて簡略にご案内を。

       

図をどうぞ。 ドゥカーレ宮の5階部分で、数字10の部屋に彼は最初収監されます。
スパイ容疑と幾人かの貴族を籠絡したという容疑で、最初はピオンビと知って仰天
した彼もすぐに自分を取り戻し、脱獄計画を練り始めます。

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自分の監房を出て、11の部分で散歩する許可を貰い、そこで上でご注目を願った
鉄のカンヌキ、大きさはあれほど大きく無かったと思いますが、を見つけ、
内緒で自分の牢に。

で、翌年8月の末、床に穴を開け、翌日脱獄実行という所で、突然に部屋替えが
行われ12の部屋に。

穴は発見されますが、多分獄吏に金銭も使い、上部への通告は免れるものの
監視は厳しくなり、再び同じ手は使えない事に。

ここで運が良いというのか、同じ監獄仲間の司祭と知り合い、彼の部屋は13で、
9月29日獄吏を通してカンヌキを彼に渡す事に成功、司祭は8日間で天井に
穴を開け、昼間はそこに聖画を貼りごま化したとか、

2重になっていた天井によじ登り天井裏を歩き、10月16日カザノヴァの牢との
境の壁を破ります。
10月31日カザノヴァの部屋の天井に穴を開ける事に成功、カザノヴァも天井裏に。



こうして2人でドゥカーレ宮の鉛の屋根覆いを破り、数字15、
屋根を伝い、今度は天窓を破り中に入り込み16、狭い階段を下り17、もひとつ
階段を下り、18の上で、写真を見て頂いた最高書記官の部屋にまで。
部屋に鍵は掛かっていた物の、またもやカンヌキを活用してなんとか穴を開け、
階段を2つ下り19に、そして20の秘密の行程入り口ロビーに。

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ここからは、どこに行くにもたくさんの扉、しかも鍵で閉められているのですね。
明け方になり、カザノヴァは窓から顔を出し警護人に見せ、警護の男は、昨夜
知らせないままに閉じ込められた人間と思い込み、次々に鍵を開けてやって来ます。

待ち構えていた2人は物も言わず大急ぎで金の階段を下り21、
右に曲がりロッジャに22、次いで左に巨人の階段に23。
こうして24のカルタ門から逃げ出し、ゴンドラに乗り逃亡に成功したのが
1756年10月31日夜から11月1日朝にかけての事。

彼以外にこのピオンビから脱獄に成功した者はおらず、
脱獄記に、大きな幸運があったとはいえ、出来ると思って取り組んだ
自分の勇気に誇りを持つ、と書いているそう。
確かに!



天井裏の部屋から僅かに外を覗いて写せた2枚、どうぞ!
この眺めも収監者は見れなかったでしょうが。

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こちらもサイトから見つけた写真で、釣り天井の上の様子です。 以前の見学の時は
この上も歩けたそうなのですが、一度事故があり、見学者が落ちたとかで、現在は見るだけ。

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最後に、夜のドゥカーレ宮の眺めをお楽しみくださいね。

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千年を超えるセレニッシマが最後を迎えたのが1797年5月12日。

ヴェニス共和国の滅亡によせて

かつて華やかな東方を領有し、   
西方の砦たりしヴェニスの価値は   
その生まれを辱めることなかりき、   
ヴェニス、自由の長子よ。   
  
いかなる奸計にも誘惑されず、   
いかなる力にも犯されることなき   
輝かしく自由なる処女の都市。   
  
その夫を選ぶとき、   
永遠の海原をめとるべきかりき。   
栄光が薄れ、称号が消え、   
その力衰え行くを見る時、如何にせん。   
  
されど、その永き命の終わる日、   
愛惜の貢物が捧げられるべし。   
我ら人の子、かつて偉大なりしものの影   
消え去らんとする時、悲しむべきなり。    
     ・・ウイリアム・ワーズワース

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という所で、長らくのお付き合い、本当に有難うございました!  感謝です!!

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