パラッツォ・ドゥカーレのご案内3回目となりました。

イタリアでドゥカーレ宮と呼ばれる有名な建物はヴェネツィアの他に、
かのウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥレ公のが即頭に浮かびますし、
グッビオにも素晴らしいのがありますね。
そして北イタリアではマントヴァのゴンザーガ家のドゥカーレ宮、
かのウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥレ公のが即頭に浮かびますし、
グッビオにも素晴らしいのがありますね。
そして北イタリアではマントヴァのゴンザーガ家のドゥカーレ宮、
そしてジェノヴァにもと、各地にありますが、
このヴェネツィアのドゥカーレ宮は、えへん、かっての総督官邸、行政庁というには
外観の色からして、白とピンクの石という優雅な趣の上に、
外観の色からして、白とピンクの石という優雅な趣の上に、
下の階はロッジャが取り囲んだ如何にも風通しの良い建物で、
海からの襲撃などは有り得ない、との確固たる自信も垣間見えます。
セレニッシマ・Serenissima、いとも高貴な、と呼ばれ1000年に渡って続いた
ヴェネツィア共和国の、こうした美しいドゥカーレ宮のご案内は、裏に隠された
ちょっと暗い部分などもご覧頂く予定で、説明が少し長くなるかもですが、
どうぞごゆっくり、お付き合い下さいませ!
海からの襲撃などは有り得ない、との確固たる自信も垣間見えます。
セレニッシマ・Serenissima、いとも高貴な、と呼ばれ1000年に渡って続いた
ヴェネツィア共和国の、こうした美しいドゥカーレ宮のご案内は、裏に隠された
ちょっと暗い部分などもご覧頂く予定で、説明が少し長くなるかもですが、
どうぞごゆっくり、お付き合い下さいませ!
上の写真は、最初に中庭からも見て頂いた「巨人の階段」で、
上に据えられた2体の彫像は右がネプチューン・海神、左がマルス・軍神で、
ヴェネツィア共和国の海と陸の統治を意味すると。
上に据えられた2体の彫像は右がネプチューン・海神、左がマルス・軍神で、
ヴェネツィア共和国の海と陸の統治を意味すると。
現在階段は通行禁止ですので、2階のロッジャからの様子を。
こちらはマルスの方で、左下に中庭の最初でご覧頂いたアルコ・フォスカリが見えます。

単にフォスカリのアーチ、というよりは凱旋門とも言うべき物で、見える通路・
フォスカリのロビー、通路と呼ばれるのが、現在出口になっているカルタ門に続きます。
右上隅に見える煉瓦色の部分は、お隣のサン・マルコ聖堂で、
フォスカリのアーチもサン・マルコ聖堂の壁に寄り掛かった形。
フォスカリのアーチもサン・マルコ聖堂の壁に寄り掛かった形。
この2体の巨大な像はサンソヴィーノ・Jacopo Sansovinoの作で、
彼はこれを12年かけて作り上げ、ここに据えられたのは1567年、
階段は1483年から91年にかけて造られたものだそう。
彼はこれを12年かけて作り上げ、ここに据えられたのは1567年、
階段は1483年から91年にかけて造られたものだそう。
マルス像のお尻だけご覧頂いたのにはちょっと訳がありまして、 ・・つまりです、
ネプチューン像は腰に布を巻いているのですが、後ろからだとちょうどお相撲さんの
まわしの格好になっていて、撮るのに少し抵抗があり・・、
いや、大相撲は大好きでしたが・・、はは。
ネプチューン像は腰に布を巻いているのですが、後ろからだとちょうどお相撲さんの
まわしの格好になっていて、撮るのに少し抵抗があり・・、
いや、大相撲は大好きでしたが・・、はは。
アルコ・フォスカリの上部はこんな様子で、彫像は福音者たち。
この眺めだと、サン・マルコ聖堂との関係も良く分かりますね。
この眺めだと、サン・マルコ聖堂との関係も良く分かりますね。

階段の上から見下ろすアルコ・フォスカリの通路部分。

こちらが下から見上げる様子。 階段の上に有翼のライオン、聖マルコのシンボル
であると共にヴェネツィア共和国のシンボルのライオンが見えますが、


新しいドージェが誕生した時は、このライオン像の下でドージェのシンボルである
角型の冠き、宣誓する儀式が繰り広げられたのだと。
このライオン像は1797年にナポレオン軍が破壊し、後に復刻されたものだそうで、
横に見える紋は81代のフランチェスコ・ヴェニエーロ・Francesco Venieroの物で、
読むのには面白いドージェでしたが・・。
横に見える紋は81代のフランチェスコ・ヴェニエーロ・Francesco Venieroの物で、
読むのには面白いドージェでしたが・・。
大変背の低いよぼよぼで、65歳ながら歩くのに両脇から抱えられる程で
その癖大喰らいで、もう食べられないという程に食べ、金持ちをひけらかし、
民衆からは好かれず、飢饉に見舞われた時にあいつのせいだと言われても
本人は屁とも思わず、自分の奥方が結婚指輪をはずした時になって
初めて、それは大変だ、と思ったとか・・! ははは。
その癖大喰らいで、もう食べられないという程に食べ、金持ちをひけらかし、
民衆からは好かれず、飢饉に見舞われた時にあいつのせいだと言われても
本人は屁とも思わず、自分の奥方が結婚指輪をはずした時になって
初めて、それは大変だ、と思ったとか・・! ははは。
所でちょっとこの階段に関して問題提起を。 こちらの絵をどうぞ。

1355年に国家転覆を企て斬首刑になった55代ドージェ、マリーノ・ファリエーロの
処刑前を描いた場面。 18世紀末のヴェネツィア生まれの画家アイエス・Hayezの
作品で、彼は浪漫的な有名な絵をたくさん残しておりますが、
これはヴェネツィアの歴史主題を取り上げたうちの1枚。
ご覧の様に、後ろに巨人像は見えない物の立派な石段が見えますね。
が、上記しました様に、2体の巨人像は1567年、階段は1483~91年の作で、
ファリエーロの処刑は1355年。
ね、少し絵画背景の時代公証があやふやでしょ? ドラマチックではありますが。
が、上記しました様に、2体の巨人像は1567年、階段は1483~91年の作で、
ファリエーロの処刑は1355年。
ね、少し絵画背景の時代公証があやふやでしょ? ドラマチックではありますが。
多分石段になる前は、「金の階段」がそうであった様に木造階段だったろうと思いますが、
処刑場面の描写については
参考にしている本 Claudio Rendinaの I DOGI に
・・黄昏時に石の階段の平坦な部分の上で・・とあり、
処刑場面の描写については
参考にしている本 Claudio Rendinaの I DOGI に
・・黄昏時に石の階段の平坦な部分の上で・・とあり、
一方塩野七生さんの記述には、
・・内庭から二階の柱廊に通ずる広い階段の上で・・。
この処刑場面は、ドラクロアがもっと劇的に、まさに斬首場面を描いたのもあり、
それにも石の階段。 ・・愚考しますに、この劇的な場面背景には、
堅固な石の階段が似合う筈と画家のイメージを刺激し、
その上に、アイエスは実際の欄干とは違う柵の形を描く、という技も見せており、
両方を見比べて下さいね、
そんなこんなにして、これらの絵画の印象が定着しているのかもですね。
それにも石の階段。 ・・愚考しますに、この劇的な場面背景には、
堅固な石の階段が似合う筈と画家のイメージを刺激し、
その上に、アイエスは実際の欄干とは違う柵の形を描く、という技も見せており、
両方を見比べて下さいね、
そんなこんなにして、これらの絵画の印象が定着しているのかもですね。
ドラクロアの絵の方は大勢の登場人物の賑やかさに負けぬよう、
柵の無い、もっと重い石段となっています。
柵の無い、もっと重い石段となっています。
絵をクリックすると大きくなるので見比べをどうぞ。 重い絵ですのでご注意。
http://www.executedtoday.com/2009/04/17/1355-marino-faliero-doge-of-venice/
バイロンが戯曲「マリーノ・ファリエーロ」を書き、それを題材にドニゼッティが同名の
オペラを作曲しているとの事。
こうして一国の象徴とでもいう建物の出口、かっての入り口のカルタ門に向かいますが、
まだ未練がましく写し、ははは、

悔しい事に、まるで気がつかなかった階段の細部をガイド・ブックの写真でどうぞ。

そうなのですね、この石段の一段毎にこの様な細やかな青銅の象嵌だそうですが、
嵌め込まれているのですね。
段の面と横の手すりにも少し濃い色で見えるのが細かい細工部分です。
ならばまぁ、この階段を現在一般観光客に使わせないというのも、納得!
嵌め込まれているのですね。
段の面と横の手すりにも少し濃い色で見えるのが細かい細工部分です。
ならばまぁ、この階段を現在一般観光客に使わせないというのも、納得!
ですが、この階段の写真を見た時には、一瞬本気で、撮り直しに行こうかしら、と
思ったほどでしたよ、はは。 ・・ええねん、次の時にはどアップにするもん!
思ったほどでしたよ、はは。 ・・ええねん、次の時にはどアップにするもん!
こちらがドゥカーレ宮の正面玄関であるカルタ門・Porta della Carta.

この門、そして今通り抜けて来た、中庭から見て頂いたアルコ・フォスカリ、
はたまたヴェネツィア有数の美しく優雅な館カ・ドーロの内庭の井戸の、
赤い大理石の井桁、マドンナ・デル・オルト教会の正面扉の周囲の飾り、
これらすべてが当時15世紀の設計彫刻家のバルトゥローメオ・ボン・
Bartolomeo Bonの作品との事で、
両脇に見える壁龕の並びの赤い大理石部分、ここはかっては金色に塗られていたそう。
n.1 カ・ドーロ ・ ヴェネツィアの館
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740863.html
門の中段にある有翼のライオン像とその前に膝まづくドージェは、写真はサイトから拝借、
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740863.html
門の中段にある有翼のライオン像とその前に膝まづくドージェは、写真はサイトから拝借、
ドージェは34年間という最長不倒の在位期間のフランチェスコ・フォスカリ・
Francesco Foscariで、この像もナポレオン軍に破壊されたのを、
19世紀に摸刻、据えられたのだそう。

こちらが、フランチェスコ・フォスカリの肖像画ですが、

これは現在日本で開催中の「世界遺産ヴェネツィア展」に参加し日本に出張中
だそうですから、実際にご覧になられる方も多い事でしょう。
展覧会のサイトは、既に消されていますが、
東京の後は、名古屋、仙台、愛媛、京都、広島と約1年かけて巡回する予定で、
日本初公開というカルパッチョの「二人の貴婦人」も展示との事で、
皆さん、ヴェネツィアの空気を吸いにどうぞお出かけ下さいね。
だそうですから、実際にご覧になられる方も多い事でしょう。
展覧会のサイトは、既に消されていますが、
東京の後は、名古屋、仙台、愛媛、京都、広島と約1年かけて巡回する予定で、
日本初公開というカルパッチョの「二人の貴婦人」も展示との事で、
皆さん、ヴェネツィアの空気を吸いにどうぞお出かけ下さいね。
ヴェネツィア政府の1000年に及ぶ長い歴史の中、697年と記録される初代の
パオロ・ルーチョ・アナフェスト・Paolo Lucio Anafestoの選出から、
1797年のヴェネツィア共和国崩壊時の最後のドージェ、ルドヴィーコ・マニン・
Ludovico Maninまで、120人のドージェが在任しました。
パオロ・ルーチョ・アナフェスト・Paolo Lucio Anafestoの選出から、
1797年のヴェネツィア共和国崩壊時の最後のドージェ、ルドヴィーコ・マニン・
Ludovico Maninまで、120人のドージェが在任しました。
記録に残る英雄的な働きをしたドージェから、上書した様に、くたばり損ないの様な、
失礼! 惨めなドージェ迄様々。
失礼! 惨めなドージェ迄様々。
1100年間に120代というと、計算では平均9年の在となりますが、
ちょっと計算して見た所、20年以上在というのが僅か8人。 選出がかなりの年に
なってという事もあるのでしょうが、3年未満というのがかなりの数に上ります。
65代のこのフランチェスコ・フォスカリ・Francesco Foscari、
ドージェ在任34年(1423-1457)の最長記録を誇るだけでなく、その生涯の最後が
悲劇的というか哀れで、全盛期が華やかだっただけに、少し心に残りますので、
暫くお付き合い下さいませませ。
ドージェ在任34年(1423-1457)の最長記録を誇るだけでなく、その生涯の最後が
悲劇的というか哀れで、全盛期が華やかだっただけに、少し心に残りますので、
暫くお付き合い下さいませませ。
彼はヴェネツィア貴族の古い裕福な家柄の生まれで、元々の家業は商取引と、
エーゲ海方面に持つ領土からの上りでしたが、
1373年生まれの彼は政治の世界に27歳の時に飛び込み、めきめき頭角を現し、
1423年若干49歳にしてドージェに選出。
エーゲ海方面に持つ領土からの上りでしたが、
1373年生まれの彼は政治の世界に27歳の時に飛び込み、めきめき頭角を現し、
1423年若干49歳にしてドージェに選出。
人の話も良く聴き、雄弁、説得力にたけ、体格も良く見栄えもするという人物。
34年間の彼の在任中、ヴェネツィアの領土はかってない程の広範囲に及んだものの、
つかの間の平和以外は対外的に戦争に明け暮れる年月で、フェッラーラ、
ミラノのヴィスコンティ、ついでトルコと絶え間なく、
ますます勢いを増すトルコの前に、1453年5月、遂に東ローマ帝国の崩壊も。
大貴族間の確執、干ばつ、大潮、干潟の凍結、地震、ペストと引きも切らず、
このペストでは彼の11人の子供の内、(2度の結婚)4人が死亡、男子は1人
ヤコポが生き残ります。
つかの間の平和以外は対外的に戦争に明け暮れる年月で、フェッラーラ、
ミラノのヴィスコンティ、ついでトルコと絶え間なく、
ますます勢いを増すトルコの前に、1453年5月、遂に東ローマ帝国の崩壊も。
大貴族間の確執、干ばつ、大潮、干潟の凍結、地震、ペストと引きも切らず、
このペストでは彼の11人の子供の内、(2度の結婚)4人が死亡、男子は1人
ヤコポが生き残ります。
長い戦争に続くこうした災害により国の財布も薄くなり、ナイフで切りつけられそうに
なった事もある程。
ですが一方、この時期に一応のドゥカーレ宮の完成も見、1434年には当時
フィレンツェからヴェネツィアに逃亡中のコジモ・デ・メディチのお陰で、
サン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の図書館の充実、
ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、マンテーニャ、そしてベッリーニ一家が競い、
フィレンツェからヴェネツィアに逃亡中のコジモ・デ・メディチのお陰で、
サン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の図書館の充実、
ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、マンテーニャ、そしてベッリーニ一家が競い、
素晴らしい作品を生み出すパドヴァと並んで2大文化の繁栄地と。
その間、1428年にはポルトガル王の弟ペードロ公、フィレンツェのサン・ミニアート・
アル・モンテ聖堂に眠るポルトガル枢機卿と呼ばれるジャイメ王子の父親、
フィレンツェ・ルネッサンスの天才彫刻家、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノの
アル・モンテ聖堂に眠るポルトガル枢機卿と呼ばれるジャイメ王子の父親、
フィレンツェ・ルネッサンスの天才彫刻家、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノの
実の父親と見られるコインブラ公ペードロのヴェネツィア訪問、
1442年、フランチェスコ・スフォルツァとその妻ヴィアンカ・マリーア・
ヴィスコンティの訪問、
1452年には、15歳のポルトガル王妃エレオノーラの訪問があり、
その際の豪華な歓迎式典には、金の衣装の120人と、130人の深紅色の衣装、
勿論宝石を輝かせた貴族女性の出席とか、200人の金色衣装の貴族の行列とか、
250人の金色衣装、宝石の貴族の子女の列席とか・・、
・・なぜか宴会の御馳走の記述がないのが、まことに残念!!
1452年には、15歳のポルトガル王妃エレオノーラの訪問があり、
その際の豪華な歓迎式典には、金の衣装の120人と、130人の深紅色の衣装、
勿論宝石を輝かせた貴族女性の出席とか、200人の金色衣装の貴族の行列とか、
250人の金色衣装、宝石の貴族の子女の列席とか・・、
・・なぜか宴会の御馳走の記述がないのが、まことに残念!!
サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂 ・ フィレンツェ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464150189.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464150189.html
デジデーリオ・ダ・セッティニャーノという彫刻家をご存知ですか?
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464150494.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464150494.html
オビドス その1 ・ ポルトガル
ヴェネツィア ・ ドゥカーレ宮 ・ Palazzo Ducale
という、少々長いお話になりましたが、お楽しみ頂けました様に!
本当はこの後ドージェ・フランチェスコと息子ヤコポを襲った悲劇と、
ドゥカーレ宮の「秘密の行程」を続ける予定でしたが、字数制限で・・!
という事で今回はフォスカリ家の中途で一旦終了し、
次回に最終回を、という事でよろしくお願いいたします!
最後のお口直しに、この1枚を!

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