天正4少年使節のご縁で訪れた、マントヴァと、サン・ベネデット・ポーのご案内、
その2を続けます。 で、なぜ、サン・ベネデット・ポーなのか・・、ご覧下さい!
その2を続けます。 で、なぜ、サン・ベネデット・ポーなのか・・、ご覧下さい!
九州大村からの皆さんのグループと無事再会し、テ宮殿・Palazzo Teの見学に。
16世紀の半ばにゴンザーガ家のフェデリコ2世が街の外につくり上げた、
浮世を忘れるための別荘!ですが、

ここの素晴らしさというか、度肝を抜くような大きさ、などなどは、こちらのサイトで。
http://www.itis.mn.it/palazzote/
ご覧の通り、余りの大きさ、広さで、写真に撮っても、ああ・・・!
これが全体の大きさの木の模型で、上の写真は、右の四角い建物の中庭部分。

テ宮殿のテ・Teは、何を意味するかと思いましたら、この宮殿が建設された島が
Tの字形だったそうで、お茶の、テでは無いとの事、はい。
Tの字形だったそうで、お茶の、テでは無いとの事、はい。
浮世を忘れるため、愛人との愛の巣のため、など等、これでもか!というような部屋、
装飾なのですが、気に入ったのは、この「馬の部屋」。

フェデリコ2世は、馬の飼育でも有名な男で、ここに描かれた馬達も、
それぞれ名前を持つようです。
ええとここに名の出るフェデリコ2世というのは、ルネッサンスの女性の中でも筆頭級の、
フェッラーラからお輿入れのイザベッラ・デステ・Isaberra d’Esteと、
フランチェスコ2世ゴンザーガの嫡男の事です。
フェッラーラからお輿入れのイザベッラ・デステ・Isaberra d’Esteと、
フランチェスコ2世ゴンザーガの嫡男の事です。
馬も彫像も、全てだまし絵的な手法ですが、色の落ち着き、部屋全体のイメージが、
他の部屋に比べて大変良いと・・! 馬の大きさは、実物大に描かれているそう。

鷲の間。 ご寝所だったとか。

凄いねぇ! という部屋ばかりで、「愛とプシケの間」という大宴会の壁画の中では、
皆さん、フリー・スタイルで、ライオンや、犬まで酔っ払っているのです、あはは。
中庭を持つ四角い建物から出たテラスの横に池があり、魚を飼育していたそうで、
何もない庭園の、この広さ!

再度、ドゥカーレ宮に戻り、皆さんと内部拝観。
1585年春にローマを訪問した後、天正の4少年は、フォリーニョ、アッシジ、
ボローニャ、ヴェネツィアと巡り、いずれの地でも大歓迎を受けましたが、
このマントヴァにも立ち寄り、時のマントヴァ公グリエルモから大歓迎を受けた記録
があり、そのご縁で、今回皆さんと一緒の訪問となった次第です。
ボローニャ、ヴェネツィアと巡り、いずれの地でも大歓迎を受けましたが、
このマントヴァにも立ち寄り、時のマントヴァ公グリエルモから大歓迎を受けた記録
があり、そのご縁で、今回皆さんと一緒の訪問となった次第です。
これは、ドゥカーレ宮内から見た、お城の中のサンタ・バルバラ教会と鐘楼。

お城の中の礼拝堂的教会なのですが、格としては聖堂に当り、1564年に完成。
建設間もないこの教会を4少年達も訪問し、ユダヤ人が改宗する式にも立会い、
千々石ミゲルの名を与え、ミゲル・XXとなったという記録もあるそうです。
建設間もないこの教会を4少年達も訪問し、ユダヤ人が改宗する式にも立会い、
千々石ミゲルの名を与え、ミゲル・XXとなったという記録もあるそうです。
2つもある高いクーポラの窓から光が届き、明るい内部。

教会内にはパイプオルガンが備わっていて、我々が入って行った時、演奏して
下さったのですが、「星のマリア」という、ミサのための古曲だそうで、
ひょっとしたら、4少年達も聞いたのかも!

オルガンの扉の絵、受胎告知も素晴らしい!
ソルデッロ広場に再度出て、一時の解放を!
もう日が落ちていますが、諸国旨い物物産展はまだまだ大賑わい。
もう日が落ちていますが、諸国旨い物物産展はまだまだ大賑わい。

こちらエルベ広場も、まだまだ人々で大賑わい。 三日月が、低くて残念。

ここは、元のイエズス会神学校のあった場所で、現在は国の古文書館ですが、
夜、ここにお邪魔しました。
夜、ここにお邪魔しました。

というのもこの古文書館に、マントヴァに滞在した4少年達が、
その厚遇に感謝して出した、礼状が保管されているのですね。
その厚遇に感謝して出した、礼状が保管されているのですね。
右の男性が、サン・ベネデット・ポー在住の日本人画家の宮田光さん、
左が、この古文書館館長のダニエッラ・フェッラーリ博士。

宮田さんご夫婦は、今回のグループ訪問に関し大変なご尽力で、
フェッラーリ館長は、昼の両宮殿の拝観にもご同行くださり、特別に、貴重な資料を
見せて下さったのでした。 厚くお礼を申し上げます。
フェッラーリ館長は、昼の両宮殿の拝観にもご同行くださり、特別に、貴重な資料を
見せて下さったのでした。 厚くお礼を申し上げます。
これが、伊藤マンショの名で出された礼状。
マントヴァで、4少年達は狩をしたり、馬を頂いたり(これは日本まで連れて帰ったとか!)
大歓迎を受けたという事ですが、ミラノに向かう道中から、この礼状を出した模様。
マントヴァで、4少年達は狩をしたり、馬を頂いたり(これは日本まで連れて帰ったとか!)
大歓迎を受けたという事ですが、ミラノに向かう道中から、この礼状を出した模様。

達筆に驚きましたが、祐筆が同行していたという事で、その手になるものだろう、と
ご一緒していたグループの先生方に、お聞きしました。
イタリアに現存する日本語の文書では、おそらく最古の物である、との説明があり、
他にも、当時のヴェネツィア政府の通報官が少年の巻き起こしたブームを
報告している文章やら、関連文書が、ここに大切に保管されておりました。
他にも、当時のヴェネツィア政府の通報官が少年の巻き起こしたブームを
報告している文章やら、関連文書が、ここに大切に保管されておりました。
そしてこの拝観後、なおの事素晴らしい事には、フェッラーリ館長のご自宅で、
手作りのお料理で、歓迎して頂きました!!
なんとも、暖かいおもてなしで、一同、大感謝の夜でした。
手作りのお料理で、歓迎して頂きました!!
なんとも、暖かいおもてなしで、一同、大感謝の夜でした。
まず、場所の確認に地図をどうぞ。
オレンジの太い線が高速で、ヴェローナ・Veronaはお分かりですね。
ヴェローナの東120Kにヴェネツィア、ヴェローナ~マントヴァ・Mantovaは43K
マントヴァの南東25K程に、サン・ベネデット・ポー。
オレンジの太い線が高速で、ヴェローナ・Veronaはお分かりですね。
ヴェローナの東120Kにヴェネツィア、ヴェローナ~マントヴァ・Mantovaは43K
マントヴァの南東25K程に、サン・ベネデット・ポー。
ガルダ湖から流れ、マントヴァの北を通る河がミンチ河・Mincioで、
西から、サン・ベネデット・ポーの北を通り、ミンチョと合流するのが、
イタリアで一番長い河ポー河、長さは652Kmあります。
翌日朝サン・ベネデット・ポーに向かい、市役所の中で市職員全員のお出迎え!

真ん中が市長のジャヴァッツィ博士、その右、写真を手にされている方が、
殉教した中浦ジュリアン神父のご子孫に当る小佐々先生、
奇しくもお2人とも獣医博士。
市長の左が、私の友人のご主人九州大村出身の徳田さんです。
殉教した中浦ジュリアン神父のご子孫に当る小佐々先生、
奇しくもお2人とも獣医博士。
市長の左が、私の友人のご主人九州大村出身の徳田さんです。
昨年徳田さんご夫婦がヴェローナにこられた際、マントヴァで右の宮田さんと会われ、
この町に、日本に知られていなかった4少年関連の石碑がある事が分り、
今回の、この町訪問のきっかけになった、という次第です。
町のサイトは、こちら。
https://www.comune.san-benedetto-po.mn.it/servizi/notizie/notizie_homepage.aspx
この町に、日本に知られていなかった4少年関連の石碑がある事が分り、
今回の、この町訪問のきっかけになった、という次第です。
町のサイトは、こちら。
https://www.comune.san-benedetto-po.mn.it/servizi/notizie/notizie_homepage.aspx
一同、会議室で、市長さん、助役さん等の歓迎を受け、関連の資料も頂きました。
会議室のテーブルに置かれた、見事なザクロ、ザクロは、歓迎の印。

ガイドを務めて下さったニグレッリ氏に連れられ、町を拝見。
この町はちょっと常の町と違います、というのも、サン・ベネデットという名が現す通り、
ベネデット派の大修道院がこの町の核なのですね。
ベネデット派の大修道院がこの町の核なのですね。
で、まずこの門ですが、かっては唯一の、修道院への門、でした。

門を入って、遥かに見る教会。 遥かに、と書きましたが、本当に広い広場!

かっては修道院内の庭であり、菜園もあったでしょうが、一般人は入れず、
この素晴らしい教会も修道僧のもので、一般人は壁の外の教会に!
で、この修道院を解放したのはかのナポレオン。
現在は外の教会は無くなり、町の人々の教会です。
現在は外の教会は無くなり、町の人々の教会です。
手前右に見える2人は、取材のカメラマン!
広場中程から振り返る、入ってきた門。 2層に3つのアーチの続くあの下です。
右に続く建物のアーチの向こうに厩舎があったそう。

教会の写真の、右の建物に入口が見えますが、あそこが修道院入り口になり、
中には2つの回廊、写本所、図書館などが。
これは、修道院内の「バルベリーニの階段」と呼ばれる素晴らしいもの。
17世紀前半、ペストの襲来とドイツ軍駐屯による略奪で、衰退した様子ですが、
後、教皇庁の助けにより建設した物とか。
17世紀前半、ペストの襲来とドイツ軍駐屯による略奪で、衰退した様子ですが、
後、教皇庁の助けにより建設した物とか。

上の階段の天井部分に描かれた物で、中心と、屋根の上の風見が繋がっていて、
ここでクリスタルでできた針が、風向きを示したという、なんとも優雅な物。
ここでクリスタルでできた針が、風向きを示したという、なんとも優雅な物。

「薔薇の風」と呼んだそうですが、修道院というより、王侯貴族の趣味の様な・・!
サン・ベネデットの回廊と呼ばれる部分。 なんとも広~い感じはお分かりと。

奥に見える建物がかっての大食堂だったそうですが、展示館になっていて、
開催中の「ポリローネ・マティルデの修道院1000年展」を我々も拝見しました。
で、手前右のアーチの部分、現在の食堂で、お昼をご馳走になったのです!!
上の、元の大食堂の地下が、現在、石碑類の博物館になっていて
そこに、少年の記念碑があり、真ん中に2つ並んでいる手前がそれです。


見え難いですが、原文はラテン語で、そのイタリア語訳から、宮田さんが
日本語に訳してくださったので、ご紹介します。
信仰心なくして如何なる事が成されるであろうか!
対蹠地の住民(日本人)の事を、より古い人民(イタリア人)は、
その存在を容易に認めようとしなかったのであったが、日本の諸王側から、
祖国に於いて最近開始したキリスト信仰を、至聖なるローマ教皇の面前に
表明する事を熱烈に欲した。
使節のマンシオ(伊藤祐益)、ミケーレ(千々岩清左衛門)、マルチノ(原)、
そしてジュリアノ(中浦)はローマ法王グレゴリオ13世に最高の名誉でもって
謁見せられ、使節の使命を果たし、生地に帰還の途中に、信仰愛の為に
この神の家を訪れた。
いとも尊きラタンツィオ神父、この僧院の大修道長は彼らがベネデット派の僧の
家族に宗教的に迎え入れられ、そしてまた大変記念すべき事なので
長い間記憶に残るようにこの碑を造る。 1585年7月15日
その存在を容易に認めようとしなかったのであったが、日本の諸王側から、
祖国に於いて最近開始したキリスト信仰を、至聖なるローマ教皇の面前に
表明する事を熱烈に欲した。
使節のマンシオ(伊藤祐益)、ミケーレ(千々岩清左衛門)、マルチノ(原)、
そしてジュリアノ(中浦)はローマ法王グレゴリオ13世に最高の名誉でもって
謁見せられ、使節の使命を果たし、生地に帰還の途中に、信仰愛の為に
この神の家を訪れた。
いとも尊きラタンツィオ神父、この僧院の大修道長は彼らがベネデット派の僧の
家族に宗教的に迎え入れられ、そしてまた大変記念すべき事なので
長い間記憶に残るようにこの碑を造る。 1585年7月15日
彼らが、イタリア各地に巻き起こした感動が目に見えるようですね。
先に、この建物は元大食堂であったと書きましたが、この地下博物館は
かってのワイン貯蔵庫だったようです。

大教会、回廊、写本室、後にご覧頂くかっての医療施設、そして貯蔵庫。
修道院生活が、髣髴とされます。 これは、隅から見える連絡通路。
修道院生活が、髣髴とされます。 これは、隅から見える連絡通路。
この肖像が、マティルデ・ディ・カノッサ・Matilde di Canossa.

さて、と調べました。
中世における半ば伝説的人物でもありますが、カノッサ家は、当時この一帯の
大封建領主で、法王と皇帝との長い権力闘争の間にあって、
平和の為に、尽力もした様子。
この修道院の正式の名は、ポリローネ修道院・Polironeで、ポー河と出会う
Lirone川との中洲に、彼女の祖父テダルド・Tedaldoが1007年に
建設した修道院、という事で、
ポリローネという地名が、現在のサン・ベネデット・ポーになった事、等を知りました。
という事で、「ポリローネ・マティルデの修道院1000年展」が
ここサン・ベネデット・ポーと、マントヴァで開催中なのを、拝見しました。

これは、ぶどう酒のタル詰めの場面で、いかにも中世のイメージで好きです。
11世紀の、極彩色の手稿写本。 人物はサン・ベネデットと。

で、食堂で、お昼をご馳走になりました!
メニューは、サルシッチャ・ソーセージのリゾットで、肉のから揚げ、生ハム、
茄子のオイル付けなど。
白ワインも出て、車で戻るのをすっかり忘れていて・・!
こちらは、ガイドを務めて下さったニグレッリ氏とこの僧院の神父さんが、
歌を披露してくださった場面。
ヴェルディの、「行け!黄金の翼に乗って」でした。

お昼をご馳走になった後、グループの皆さんは、最終地のミラノに向け出発、
私は家に戻りました。
ご縁があって、ローマ、ヴァティカン、そしてマントヴァ、サン・ベネデット・ポーとご一緒し、
大変貴重な資料を見るチャンスを得ました。
お世話をして下さったイタリア側の皆さん、宮田さんご夫婦、
そしてグループの皆さんに感謝です!
私は家に戻りました。
ご縁があって、ローマ、ヴァティカン、そしてマントヴァ、サン・ベネデット・ポーとご一緒し、
大変貴重な資料を見るチャンスを得ました。
お世話をして下さったイタリア側の皆さん、宮田さんご夫婦、
そしてグループの皆さんに感謝です!
8月末の夜、真夜中ごろの広場と教会を最後に。

長い記事、お付き合い有難うございました!!
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