今日のご案内はヴェネツィア。 アドリア海の真珠と称されるこの街は、
17~18世紀にかけて文化的にも爛熟しきったヴェネツィアの、豊満で
官能的な魅力を、またアドリア海の煌めきをも聴く者に彷彿とさせる音楽、
そう、アントーニオ・ヴィヴァルディ・Antonio Vivaldiの街でもありますね。
17~18世紀にかけて文化的にも爛熟しきったヴェネツィアの、豊満で
官能的な魅力を、またアドリア海の煌めきをも聴く者に彷彿とさせる音楽、
そう、アントーニオ・ヴィヴァルディ・Antonio Vivaldiの街でもありますね。
皆さんも、ヴィヴェルディの音楽はお好きでしょう?! はい、私も大好き!
で今日は、そのヴィヴァルディが洗礼を受けた教会にご案内です。
で今日は、そのヴィヴァルディが洗礼を受けた教会にご案内です。
写真は1年前の冬と春のものからですが、
千年以上もの歴史を持つ街は、いつも変わらず魅力的!!

サンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会・S.Maria della Pietà.

サン・マルコ小広場からスキアヴォーニ河岸を東に、橋を3つ渡った所に。
赤毛の司祭と呼ばれたアントーニオ・ヴィヴァルディが、この教会併設の
孤児の女子音楽院で教えていた事は有名ですが、
孤児の女子音楽院で教えていた事は有名ですが、
現在の教会は18世紀、ヴィヴァルディの去った後に、以前の古い破損した
教会が取り壊され建て替えられた物で、かっては今の教会の右の位置に
あったそうで、正面壁は20世紀に整備されたとの事。
教会が取り壊され建て替えられた物で、かっては今の教会の右の位置に
あったそうで、正面壁は20世紀に整備されたとの事。
地図をどうぞ。
左下にサン・マルコ聖堂があり、大運河沿いの道がスキアヴォーニ河岸・
Riva degli Schiavoniで、数字29がサンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会。
左下にサン・マルコ聖堂があり、大運河沿いの道がスキアヴォーニ河岸・
Riva degli Schiavoniで、数字29がサンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会。

そこからまた一つ橋を渡り、緑の点をつけた小路から入ると、
Campo S.Giovanni in Bragoraと書いてある広場がありますが、
現在はカンポ・バンディエーラ・エ・モーロ・Campo Bandiera e Moroと変更、
ははは、1989年出版15000リーラのガイドブックなのですが、
なかなか地図にしろ情報にしろ、ちょうど良いのが少なく、
未だにこれも重宝に使っておりまして、・・脱線。
なかなか地図にしろ情報にしろ、ちょうど良いのが少なく、
未だにこれも重宝に使っておりまして、・・脱線。
で、数字26が、今日ご案内のヴィヴェルディが洗礼を受けた教会、
サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ・S.Giovanni in Bragoraです。
サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ・S.Giovanni in Bragoraです。
サンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会の内陣。 写真はサイトから

天井にはティエポロの絵もあるというのですが、気が付きませんで。
というのも、確かに教会なのですが、現在内部が美術関係の展示会場にも
なっていて、何か変な印象で余りきちんと見た事もなく・・。
というのも、確かに教会なのですが、現在内部が美術関係の展示会場にも
なっていて、何か変な印象で余りきちんと見た事もなく・・。
こちらは、教会入り口を入った所の壁にある、修道士ピエトロ・ピエトルッチョ・
Pietro Pietruccio d'Assisiの像。
Pietro Pietruccio d'Assisiの像。

彼はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会・S.Francesco della Vigna
の修道士だったのですが、最後に付く「ダッシジ」の名前から、多分アッシジからで、
の修道士だったのですが、最後に付く「ダッシジ」の名前から、多分アッシジからで、
当時のヴェネツィアの街に溢れる捨て子を見るに見かねて
17軒の借家をして捨て子の収容を始めます。14世紀半ばの事です。
17軒の借家をして捨て子の収容を始めます。14世紀半ばの事です。
サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会は、魚に例えられるヴェネツィアの、
ちょうど尻尾のつけ根の背中側にあり、ジョヴァンニ・ベッリーニの素晴らしい絵も。
ちょうど尻尾のつけ根の背中側にあり、ジョヴァンニ・ベッリーニの素晴らしい絵も。
ヴェネツィアは港町通商の町で、外からの客人も遊女の数も多かった訳ですが、
それに比して私生児、結婚していない未亡人・Vedova biancaも多く、
貧しさから、両親ともに働く為に育てられない、また育てられるだけの稼ぎが
ありながら捨て子をする、という、とんでもない道徳の低下もあったと言います。
それに比して私生児、結婚していない未亡人・Vedova biancaも多く、
貧しさから、両親ともに働く為に育てられない、また育てられるだけの稼ぎが
ありながら捨て子をする、という、とんでもない道徳の低下もあったと言います。
最初は男の子だけ収容していたのが次には女の子も、という様子で、
戸口から戸口にピエタ!ピエタ!・お慈悲を、と叫んでの喜捨、貴族や一般市民
からの援助もあったようですが、捨て子の数も多く到底賄い切れなくなり、
戸口から戸口にピエタ!ピエタ!・お慈悲を、と叫んでの喜捨、貴族や一般市民
からの援助もあったようですが、捨て子の数も多く到底賄い切れなくなり、
遂にヴェネツィア共和国政府の元に、捨て子の為の施設が作られたという訳で、
ここに彼の像があります。
ここに彼の像があります。
地図には見えませんが、教会のすぐ東横にある小路カッレ・デ・ラ・ピエタ・
Calle de la Pietà.
Calle de la Pietà.

小路はこんな様子で、ヴィヴァルディの顔の入ったポスターも。
写真に見える物売りの黒人が気になり即退散したのですが、
ポスターに「ピエタの小博物館」とあるのに気が付きましたので、次回に。
ポスターに「ピエタの小博物館」とあるのに気が付きましたので、次回に。

つまりこの左側は現在のピエタ教会の壁になる訳で、元はここに
孤児収容所のオスピーツィオ・Ospizioがありました。
孤児収容所のオスピーツィオ・Ospizioがありました。
壁に聖人像を祀る小壁龕があり、下に碑文の嵌め込みが見えすが、
今回調べていて、この壁にはかって捨て子を収容するための回転扉・
ruota degli espostiがあった事を知りました。
今回調べていて、この壁にはかって捨て子を収容するための回転扉・
ruota degli espostiがあった事を知りました。
捨て子をする親が顔を見せずにすむ回転扉、というと、フィレンツェの
インノチェンティ捨児養育院が有名ですが、ここヴェネツィアにもあったのですね。
インノチェンティ捨児養育院が有名ですが、ここヴェネツィアにもあったのですね。
碑文には、1548年の、しびれを切らした法皇パオロ3世の勅書、
捨て子をする者を破門する、との厳しい勅令が彫られているそうですが、
それでもやはり捨て子は後を絶たなかった様子。
捨て子をする者を破門する、との厳しい勅令が彫られているそうですが、
それでもやはり捨て子は後を絶たなかった様子。
で、我らの今日の主人公ヴィヴァルディが、このピエタ教会の音楽院で
女子捨て子の教育に関わった、という事に繋がります。
女子捨て子の教育に関わった、という事に繋がります。
同じくカッレ・デ・ラ・ピエタ小路にある碑文。
この手の訳が大変苦手なのですが・・、(他のは得意かや?)

この場所に、アントーニオ・ヴィヴァルディが1703~1740年まで
断続的に関わったピエタの音楽院があった。
ヴェネツィアにも世界にも、「四季」を含む彼の比類のない
素晴らしい音楽を与えた年月であった。
断続的に関わったピエタの音楽院があった。
ヴェネツィアにも世界にも、「四季」を含む彼の比類のない
素晴らしい音楽を与えた年月であった。
で、もう一本橋を渡ると、この建物の並び。
2つ目の茶の建物は確か軍関係だったと。で、奥に緑のテントが見えますが、

壁にこんな標識も見え、訪ねる教会も間近です。

東の方の眺めはこんな様子で、あの正面に見える建物の手前を
左折して行くと造船所。

造船所に行かれる方、前に並ぶライオン像のうち、雌ライオンちゃんの泣き顔に
笑い、転ばぬようご注意をね!
はぁ、一度余りに笑い、足元の落差に気が付かず転倒、足首が腫れあがり、
えらい目に遭った経験がありますの、はい。
笑い、転ばぬようご注意をね!
はぁ、一度余りに笑い、足元の落差に気が付かず転倒、足首が腫れあがり、
えらい目に遭った経験がありますの、はい。
で、先ほどの緑のテントのあった手前の小路にこの標識。
カッレ・デル・ドーゼ・Calle del Dose
カッレ・デル・ドーゼ・Calle del Dose

この小路に入ります。 小路から振り返ると、こんな風。

一転して開ける、かなり広いバンディエーラ・エ・モーロ広場。
広場北側にある大きな素晴らしい建物は、グリッティ・バドエル邸・
Gritti Badoerで、現在はホテルに。
Gritti Badoerで、現在はホテルに。

広場南東の端にあるこの教会が、ヴィヴァルディが洗礼を受けた
サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会・S.Giovanni in Bragora.

元は8世紀の古い教会があったのを15世紀に再建と。 こじんまりと優しい
正面で、鐘楼の形も古いもの。
正面で、鐘楼の形も古いもの。
広場の南面に並ぶ建物類、この辺りの借家で、アントニオ・ヴィヴァルディが
生まれた、との事ですが、どの建物かは正確には特定されていません。
生まれた、との事ですが、どの建物かは正確には特定されていません。
教会入り口に掲示の、

「赤毛の司祭」と呼ばれた、アントーニオ・ヴィヴァルディ、
この教区で、1678年3月4日に生まれた偉大な音楽家、
この教会にて洗礼を受ける。
この教区で、1678年3月4日に生まれた偉大な音楽家、
この教会にて洗礼を受ける。
では内部に。 入り口上、かすかに残る洗礼図。

内部はこんな様子で、正面祭壇にあるのは、

図らずも我が町コネリアーノ出身の画家、ジャンバッティスタ・チーマ・ダ・コネリアーノ・
Giambattista Cima da Coneglianoが描くキリストの洗礼図。


彼の作品の内でも、色も大変美しい、良い作品と思います。
入り口左脇に、ヴィヴァルディの洗礼証明書のコピーと説明があります。

アントーニオ・ヴィヴァルディが生まれたのは1678年3月4日で、
たまたまこの日ヴェネツィアはかなり大きな地震に見舞われ、
おまけに彼自身半ば半死の状態で生まれたため、産婆のマルゲリータ・
Margherita Veroneseが仮の洗礼を授け、
この教会での正式の洗礼は、5月6日に行われました。
洗礼を授けた教区司祭はジャコモ・フォルナチェーリ・Giacomo Fornacieriで、
洗礼証明書にはこの様に。
洗礼証明書にはこの様に。

1678年5月6日。
故アウグスティン・ヴィヴァルディの息子で演奏家のジョヴァン・バッティスタと
その妻、故カミッロ・カリッキオの娘であるカミッラとの息子、
アントーニオ・ルーチョは3月4日に瀕死の状態で生まれ
死の危険があったため、産婆のマルゲリータ・ヴェロネーゼ氏が家の水にて
洗礼をさせたが、本日教会に連れて来て、私ジャコモ・フォルナチェーリより
魔払いと聖油を受けたものである。
(以下略)
故アウグスティン・ヴィヴァルディの息子で演奏家のジョヴァン・バッティスタと
その妻、故カミッロ・カリッキオの娘であるカミッラとの息子、
アントーニオ・ルーチョは3月4日に瀕死の状態で生まれ
死の危険があったため、産婆のマルゲリータ・ヴェロネーゼ氏が家の水にて
洗礼をさせたが、本日教会に連れて来て、私ジャコモ・フォルナチェーリより
魔払いと聖油を受けたものである。
(以下略)
この中に記されている様に、既に皆さんも良くご存じかもですが、
父親は、ジョヴァン・バッティスタ・Giovan Battista Vivaldi
母親はカミッラ・カリッキオ・Camilla Caricchioといい、
父親は、ジョヴァン・バッティスタ・Giovan Battista Vivaldi
母親はカミッラ・カリッキオ・Camilla Caricchioといい、
それぞれの父親が仕立て師であった事から知り合ったと言われ、
彼らは1676年6月11日に結婚していて、アントーニオが長子で、
幼くして亡くなった2人を含め、全部で9人の子が続いて生まれます。
幼くして亡くなった2人を含め、全部で9人の子が続いて生まれます。
父親のジョヴァン・バッティスタは貧しい床屋であったと言われますが、
ヴァイオリンの名手でもあり、サン・マルコ聖堂の、当時はヴェネツィア総督の
私的教会としての位置付けでしたが、ヴァイオリン奏者でもありましたから、
証明書にある演奏家という言葉も頷けます。
ヴァイオリンの名手でもあり、サン・マルコ聖堂の、当時はヴェネツィア総督の
私的教会としての位置付けでしたが、ヴァイオリン奏者でもありましたから、
証明書にある演奏家という言葉も頷けます。
アントーニオ・ヴィヴァルディの作品、そして彼の人生についても、
忘れ去られていたのが戦後になって再発見されたと言う史実があり、
まだまだ謎の部分がたくさんある様子です。
忘れ去られていたのが戦後になって再発見されたと言う史実があり、
まだまだ謎の部分がたくさんある様子です。
彼がのちに家族と住んだ家も、既に写真は撮ってあるのですが、
まだ準備が整わずそのままになっています。
リンクして頂いているpescecrudoさんのヴィヴァルディの家をどうぞ。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-146.html
まだ準備が整わずそのままになっています。
リンクして頂いているpescecrudoさんのヴィヴァルディの家をどうぞ。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-146.html
このサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会内には、常にヴィヴァルディの作曲した
宗教曲が流れ、なかなか良い雰囲気です。
宗教曲が流れ、なかなか良い雰囲気です。
チーマ・ダ・コネリアーノの祭壇画の他にも、こんな素晴らしいテンペラ画も。

これはバルトロメーオ・ヴィヴァリーニ・Bartlomeo Vivarini
という15世紀の作品。
という15世紀の作品。
教会前からの広場の眺め。

こうしてまたスキアヴォーニ河岸に出て、再びヴェネツィア散策を!

今回は、ヴィヴァルディの軽やかで優雅な音楽に似ず、少し重たい部分も
ありましたが、当時の事情も含め彼の生きた時代を、
少しでもお伝えできた様にと願っています。
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