・ ヴェネツィアのゲットー ・ 追悼の日に寄せ

1月27日は、EC諸国において追悼の日と定められていますが、
アウシュヴィッツの絶滅収容所が解放された日を記念して定められたそうで、
ナチのホロコーストによる犠牲者への追悼の日。

各地で記念式典が行われ、TVでもその関連番組が放映されます。
12月にヴェネツィアに行った時、ゲットーの広場も通り、少し説明も
聞きましたので、その折の写真で様子をご覧下さいね。

ゲットー・ヌオーヴォ広場の、蝋燭立てを摸した、お祭りを現わす8本の灯り。

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追悼の日に関連し、こちらも是非ご覧頂きたいと思います。
ジョルジョ・ペルラスカ ・ 「追悼の日」1月27日に寄せて
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461060318.html

イタリア唯一の絶滅収容所 ・ リジエーラ・ディ・サン・サッバ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461762321.html



ヴェネツィアのゲットーはどこにあったか、地図をどうぞ。

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右下に見える橋が、国鉄駅前から左手に進んで来て渡る最初の橋
ポンテ・デッレ・グーリエ橋・Ponte delle Guglieで、渡って左手に。
お昼頃までは魚屋の屋台が並び、ヴァポレットの乗り場もある道で、
100m程進み右手に抜ける低めのソット・ポルテゴ、建物の下を潜り抜ける道に
標識も出ており、左手角はユダヤ料理のレストランですから、すぐ分かります。
       
この角が地図に打った赤点の所で、右折し、ユダヤのお菓子屋さんなどの店もある
道を抜けて行くと小さな広場で、
ここの壁に、上の「ジョルジョ・ぺルラスカの記事」でご紹介した、
ナチのホロコーストに対する記念碑があり、

4の位置に大きなシナゴーガ、3の位置の博物館と共に、申し込むとガイド付きで
見学でき、博物館では、素晴らしく繊細な手仕事による品々も見れます。

1~5の数字は、かってのゲットー内にあったスコーラ・Schola・学校・教義館。



説明が後先ですが、ゲットー・ヌオーヴォ・Ghetto Nuovo・新ゲットーと
呼ばれる場所、ここが島の様に運河に囲まれているのがお分かりと思いますが、

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1516年3月にここにヴェネツィア共和国政府によるゲットーが設立され、
それまでは比較的緩やかに各地域に居住出来たユダヤ人たちが全て、この島の
中に住む事を強制され、島への2か所の門は、朝開かれ、夕暮れには閉じられました。

ゲットーに当たるイタリア語ヴェネツィア訛りはジェート・Geto、ここに大砲を
作るための鋳物工場があった事に由来するそうで、
これがドイツ系ユダヤ人の G の強い発音で、ゲットーになったと言われます。

最初の地図に見られる様に、隣接地にGhetto Vecchio, 旧ゲットー、
Ghetto Nuovissimo, 最新ゲットー、とあるのは、
鋳物工場が古い、新しいという意味で、

ユダヤ人居住区を指すゲットーは、ゲットー・ヌオーヴォが一番古く、
後の人口増加に従い、隣接したこの地区も居住区になったという事です。



ゲットー・ヌオーヴォの広場。

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島状態になっているこの区画に入って来て、広場南側の建物群、正面に
4つのアーチが見えますが、あの奥から博物館に。

いずれも5~6階建てですが、一番右端には7階建ても見えます。
この7階というのは、ヴェネツィア・ゲットーが唯一の物とか。
       


こちらは上の写真に続く、広場の右端。
こういった背の高い建物は、狭いゲットー内の建物に居住者が溢れ、
中世以来ユダヤ人には不動産所有、また建設も許可されなかったため、
既にある建物を高くする方法しかなかったのだとか。
 
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最盛期にはこのゲットーに5000人もの居住者がおり、どなたかの計算によると、
一度に全ての人々がベッドに横になれない広さ、狭い居住空間だった筈との事。



広場西側にあるレストラン。

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こちらは、広場真ん中の井戸。

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ヴェネツィアにユダヤ人が居住し始めたのは9~10世紀と言われ、
12世紀頃には1300人ほどが数えられたとかで、13世紀には現在の
ジュウデッカ島・Giudeccaに住む許可が与えられ、これはヴェネツィア本島の
南に延びる島で、当時2つのシナゴーガがあったとか。

商貿易に関しては大変に敏い事もあり、ヴェネツィア共和国政府のユダヤ人に
対する政策は、他のヨーロッパの国のそれに比し、勿論高税金が科されたものの、
比較的良かったとされます。

その後に続く時代に於いて政策の変遷もあった訳ですが、1492年に始まる
スペインのユダヤ人追放で、何十万人という人々が他の国に逃れ、ヴェネツィアにも。
こうした様々な政治的思惑も絡んでのゲットーの設立だったのでしょう。

居住空間の条件の悪さ、時間、自由制限もありましたが、昔から東方との
商貿易に励み、異人種との付き合いに慣れ、他宗教の人間を受け入れる素地の
あるヴェネツィアでは、幸いにゲットーへの襲撃事件などは起こらなかったようです。
       
上にゲットー内に5つの学校があったと書きましたが、1~5の番号順に記すと、
1. イタリア人
2. イーディッシュ語を話すドイツ系
3. ドイツ語
4. 東方中近東からのユダヤ人
5. スペインおよび西側から

と、つまり言語が異なる各国からのユダヤ人がここに住みつき、
それぞれの伝統に従った宗教行事も行っていたわけですね。



広場の北側の壁には、

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ナチの収容所へ運ばれた状景の浮彫図が掲げられ、壁の上には
強制収容所と同じ様に、忘れない想いをこめて、鉄条網が再現されています。

写真は撮りませんでしたが、この左手には警官詰め所があり、
右端の建物は、当時からあった老人ホームだそう。



西の建物の屋根越しに見える、教義館の塔、だったと。

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広場の東端からの眺め。
   
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そしてこの橋を渡り、島から出る訳ですが、
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橋を渡った袂には、詰め所が両脇に。 かっての警備人詰め所がそのまま残され。

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これは、フェッラーラ・Ferraraのシナゴーガ博物館展示の、ゲットーの門の鍵。
カタログより。

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フェッラーラにもかって大きなゲットーが街の中心にあり、この鍵で朝夕7つの門が
開閉されていたという、ヨーロッパ中に唯一残るオリジナルとの事。

こうしたゲットーの解放は、1797年のナポレオンによるヴェネツィア共和国崩壊に
因ります。 財産のある者は他所の地に移り住み、またそのまま残った人々も
多かった訳ですが、その後ナチによるユダヤ人強制移送悲劇の歴史があり、
現在このゲットー内に住むユダヤ人は、ほんの数家族とか。

殆ど当時のままの状態で残っているというヴェネツィア・ゲットーですが、
次回にヴェネツィアの街にお出での時は、
出来ましたら、この広場もご訪問下さいね。

***

今回は追悼の日に因み、少し重い話題かと思いましたが、あれこれ読んだ事も
含めて書きました。

TV番組でも、第1次、2次世界大戦の実写フィルム、証人のインタヴューも含め、
あれこれ見、知るチャンスは、日本にいる時よりもずっと多い気がします。
そして、単純に戦争賛歌、非難ではなく、本当の事を伝え残す事、知る事は、
大切な事だと考えるようになりました。
       
そしてここに、知った事をそのままの形で、上手くお伝えできている様にと願います。

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