アーゾロ市立博物館n.2として、キプロス女王カテリーナ・コルナーロの
展示室、そして彼女の館、アルティーヴォレのバルコの様子をご覧頂きます。
展示室、そして彼女の館、アルティーヴォレのバルコの様子をご覧頂きます。
アーゾロの市立博物館所蔵の彼女の品は少なく、多少でも近しく感じて
頂けるようにと思い、サイトから拝借の絵画の写真なども追加致しますね。
頂けるようにと思い、サイトから拝借の絵画の写真なども追加致しますね。
ヴェネツィアのコッレール博物館所蔵のメダル、青銅製、直径75mm、作者不詳
はサイトの筆者も書いておられるように大変美しいので、まず最初に。
私はレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた、イザベッラ・デステのスケッチを想起しました。
はサイトの筆者も書いておられるように大変美しいので、まず最初に。
私はレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた、イザベッラ・デステのスケッチを想起しました。

博物館3階の右の部屋は、カテリーナ・コルナーロ・Caterina Cornaro
(1454-1510)関係の展示で、
見難い写真で申し訳ないです、油絵でスポットライトが反射し、16世紀作とだけ。

カテリーナが1489年にキプロス王国をヴェネツィア共和国に譲渡し、
ヴェネツィアに戻ったのを描いており、同じ主題のジェンティーレ・ベッリーニの絵が
ヴェネツィア・アッカデミアにある様子。
この絵はたいした出来ではありませんが、面白いと思ったのは、カテリーナと侍女が
画面の右端に追いやられている事。
カテリーナは、ヴェネツィア共和国の養女の身分でキプロス国王に嫁ぎ、
1年もたたずに夫の国王が死亡、生まれた男子も1歳にならぬ内に死亡。
1年もたたずに夫の国王が死亡、生まれた男子も1歳にならぬ内に死亡。
その後の内外の大混乱の中で15年間統治した果て、(勿論ヴェネツィア共和国
の舵取りの下で)、キプロス王国を謙譲したという女性で、
この絵においても、カテリーナの存在がどうであったかが良く分かります。
の舵取りの下で)、キプロス王国を謙譲したという女性で、
この絵においても、カテリーナの存在がどうであったかが良く分かります。
地中海制覇を目指すヴェネツィア共和国にとり、キプロス島を得るこ事は、
何にましても・・! 彼女は、キプロスを謙譲したのと引き換えに
アーゾロの領土を貰い(但し彼女一代限り)この地に宮廷文化を齎したと。
何にましても・・! 彼女は、キプロスを謙譲したのと引き換えに
アーゾロの領土を貰い(但し彼女一代限り)この地に宮廷文化を齎したと。
ベルガモのアッカデミア・カッラーラ絵画館蔵、「カテリーナが女王廃位を
告げられる場」 19世紀 フランチェスコ・ハインツ作

実は彼女についてMedioevoという歴史雑誌に「キプロスの最後の女王」、
と題する記事が載り、
オリエントとの交易で富を成した家系の事、彼女の叔父はキプロス島に
砂糖畑を持ち、国王にかなりの貸付けをしていた事。 当時15世紀の
ヨーロッパ宮廷において、白砂糖は白い金として持て囃されていた事などなど
(当時はまだ蜂蜜が主流だった)を知りました。
砂糖畑を持ち、国王にかなりの貸付けをしていた事。 当時15世紀の
ヨーロッパ宮廷において、白砂糖は白い金として持て囃されていた事などなど
(当時はまだ蜂蜜が主流だった)を知りました。
こうして改めて知ると、今までの知識と少し違う感想も持ちましたが、
アーゾロ関係で何度か彼女の名を出していますので、自分の勉強を兼ね、
ほんの少し詳しく書かせていただきました。
アーゾロ関係で何度か彼女の名を出していますので、自分の勉強を兼ね、
ほんの少し詳しく書かせていただきました。
この写真の絵と次の絵も雑誌にありましたが、大きさが手頃なので上のサイトからで、
赤い衣装はヴェネツィア共和国の寓意と思いますが、執政官の衣装とは
少し違っている様子。
19世紀中頃のドラマティック、ロマンチシズム溢れる絵画で、この手の絵はどうも・・。
少し違っている様子。
19世紀中頃のドラマティック、ロマンチシズム溢れる絵画で、この手の絵はどうも・・。
ヴェネツィア、コッレール博物館蔵 「カテリーナのヴェネツィア帰還」
17世紀 アントニオ・バッシラッキ作

17年ぶりのキプロスからの帰還。 左手後方に見える大きな船が、
ヴェネツィア総督・ドージェのお召し船、ブチントーロ・bucintoro.
カテリーナが「王冠をドージェに渡す場面」 石棺の浮き彫り。

1510年に56歳で亡くなり、ヴェネツィアの家族の墓のあるサンティ・アポストリ教会
・Santi Apostoliにあるものと。
追記:サンティ・アポストリ教会には、カテリーナの父親と弟のお墓のみで、
その後偶然に、どうやらジュウデッカ島のレデントーレ教会にあるらしい、
と分かりましたが、まだ確かめておりません。
その後偶然に、どうやらジュウデッカ島のレデントーレ教会にあるらしい、
と分かりましたが、まだ確かめておりません。
博物館所蔵で絵葉書も買いましたが、家のエプソン君が今修理で夏休み中、
サイトから拝借の小さな絵でご勘弁を。 「未亡人の服装」と。
サイトから拝借の小さな絵でご勘弁を。 「未亡人の服装」と。

もう一枚、キプロス衣装の絵がありましたが、スラブ女性の顔の印象で、
写真も撮らず・・。
こちらもサイトからの小さな絵で、でも、一番大きなのをとサイトを探し回りました!
ブダペスト美術館にあるというジェンティーレ・ベッリーニ・Gentile Belliniの作。
ブダペスト美術館にあるというジェンティーレ・ベッリーニ・Gentile Belliniの作。

少し藪睨みの年のいった彼女ですが、私はこれが好きです。
実際のカテリーナは、塩野七生さん好みの、賢い強い女性でなかったにせよ、
少なくともこの絵には、女王と呼ばれた女性の重みが感じられます。
実際のカテリーナは、塩野七生さん好みの、賢い強い女性でなかったにせよ、
少なくともこの絵には、女王と呼ばれた女性の重みが感じられます。
こちらは、カテリーナの署名入りの遺言書。

キプロス島をヴェネツィアに差し出す際、実弟のジョルジョ・Giorgio Cornaro
が説得に当った様子で、カテリーナは彼に自分の持ち物を贈るとしつつ、
但し用益権は自分が持つ、遺言書との事。
上の遺言書につけられた封印。 赤い蝋で、真ん中にコルナーロ家の紋。
手振れご容赦。

カテリーナの品。 左は、金属の細い線で編んだケースで、大変素敵な品。
ですが、何を入れたのでしょうか?

右は手あぶり兼香木燃やし。 キプロスの品の様ですが、大きさは直径が
15センチ程。 中に炭火でも入れて使用したのでしょうか?
こちらは鉄の金庫。 いかにも重そう!

この手の錠前の仕掛けというのは凄いのですよ!モンセーリチェ・Monselice
のお城で蓋が開いているのを見ましたが、大変に複雑で芸術の粋!
見るだけで痛く感じる様な槍、矛類もありましたが、これは多分アラブ系というか、
鞘が革製で、刀身にびっしり柄入り。
鞘が革製で、刀身にびっしり柄入り。

博物館を出て、少し古本屋をひやかし、かっての路上物売り業の本を
見つけて買い。 ガリバルディ広場の泉には鳩のカップルもいて、
夏のアーゾロは、かなりの賑わい。

博物館への往きに見た古き良きオステリーア・アル・バーカロが
空いていたので、お昼をここで。

ポルティチに向いて座リ、のんびりゆっくり、カンパリ・ソーダを飲み、
シーチキンやコーンの入ったサラダを。
駐車場への道を下りつつ。 アーゾロは205mの高台にあり、地平線が。

道の敷石にはめ込まれた、町の歴史を語る4枚の銅版の一つ。

1489 - 1510 カテリーナ・コルナーロ、キプロス、アルメーニア、
イェルサレムの女王、そしてアーゾロの領主。
イェルサレムの女王、そしてアーゾロの領主。
彼女はアーゾロの領主として21年間を過ごします。この地に宮廷文化を
持ち込み、華やかな生活、常にヴェネツィア共和国の監視の下の、
まぁ、金の籠の鳥のような生活でしょうが・・。
もう一枚の銅版。 1239年 エッツェリーノ、アーゾロを領有。

エッツェリーノの最期の地、ソンチーノも訪ねて
n.1 ソンチーノ ・ 中世の要塞と、ユダヤ人の印刷所
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464088820.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464088820.html
折角ここまで来たのだから、ともう一箇所寄る事にしました。
カテリーナが、愉しみや狩の館としたバルコ・Barcoと呼ばれる建物が、
非公開ながら、近くのアルティーヴォレ・Altivole、地図の右下端にあり、
場所を確かめるだけでも良い、と出かけました。
非公開ながら、近くのアルティーヴォレ・Altivole、地図の右下端にあり、
場所を確かめるだけでも良い、と出かけました。

サン・ヴィトー・San Vitoには、先日ご紹介のトンバ・ブリオンがあります。
周囲をトウモロコシ畑に取り囲まれ、細い小川の流れる道沿いに見つけました。
「コルナーロ女王のバルコ」の立て札がありますが、鉄柵は閉じられ・・

覗くとこんな様子で、

博物館で見た図面によると、左手に広く庭園があり、この建物は一番奥に、
という様子でしたが・・。
という様子でしたが・・。

こちらです。 こうしてみると、現在の道は敷地内を抜けているのかも。

望遠で写すと、こんな風にかすかにフレスコ画が見えます。


その中にあったのがこれです。 どうやら基礎修復はされている様子で、
最終の修復が済み、公開されるのを楽しみに。
最終の修復が済み、公開されるのを楽しみに。
かっては大変華やかな装飾であったでしょう。「バルコ」という名についても、
今回これはかのピエトロ・ベンボ・Pietro Bembo、マントヴァに嫁いでいた
ルクレツィア・ボルジャとも浮名も流し、後には枢機卿になった彼が、
今回これはかのピエトロ・ベンボ・Pietro Bembo、マントヴァに嫁いでいた
ルクレツィア・ボルジャとも浮名も流し、後には枢機卿になった彼が、
「干し草置き場とか藁小屋」という意味でこの愉悦の館の命名をしたのだそう。
何をかいわんや、この貴族趣味!
彼はカテリーナとは親戚筋とか読みましたし、この宮廷にも滞在したのかも。
ピエトロ・ベンボとルネッサンスの創造展 ・ パドヴァ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461921616.html
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という、「アーゾロを彩るふたりの女性」の事どもでした。
お疲れ様でしたぁ!
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