この初夏に、ガルダ湖西岸のサロ・Salòに寄った時、偶然に湖岸で
ガスパロ・ダ・サロ・Gaspalo da Salòの銅像に出会いました。
ガスパロ・ダ・サロ・Gaspalo da Salòの銅像に出会いました。
彼はヴァイオリンの発明者として知られていますが、その銅像に出会った事が、
次の出会いを生みました。
次の出会いを生みました。
で、詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオが人生の最後を過ごした家、サロの北にある
ガルドーネ・リヴィエーラにある博物館にするすると引き寄せられ、魅せられ、
イル・ヴィットリアーレ・デッリ・イタリアーニ・Il Vittoriale degli Italiani
と名づけられた博物館を今回ご案内いたします。 少し力不足ですが、ご容赦を。
ガルドーネ・リヴィエーラにある博物館にするすると引き寄せられ、魅せられ、
イル・ヴィットリアーレ・デッリ・イタリアーニ・Il Vittoriale degli Italiani
と名づけられた博物館を今回ご案内いたします。 少し力不足ですが、ご容赦を。
サロの現在は、洒落て落ち着いたヴァカンス地ですが、 絵葉書

かっては、ヴェネツィア共和国の与えた自治権の元、36のコムーネが集まった
「素晴らしい祖国」の首都が置かれた場所であり、
第2次大戦終戦間際には、ムッソリーニが「サロ共和国」を置いた場所。
が、その歴史を感じさせるのは、ほんの少しです。
「素晴らしい祖国」の首都が置かれた場所であり、
第2次大戦終戦間際には、ムッソリーニが「サロ共和国」を置いた場所。
が、その歴史を感じさせるのは、ほんの少しです。
ガスパロ・ダ・サロの銅像。

この銅像はまだ新しく、その原型はコムーネの建物の中にある、大理石像と。
この像の繊細な美しさにも惹きつけられましたが、下に刻まれた詩にも、
大変惹き付けられたのですね。
この像の繊細な美しさにも惹きつけられましたが、下に刻まれた詩にも、
大変惹き付けられたのですね。
ガスパロ・ダ・サロ
ヴァイオリンの発明者
1540~1609
ヴァイオリンの発明者
1540~1609
胸を開き、ヴァイオリンを引き出そうとしているのか
心を入れるのに、ヴァイオリンを開いているのか、
自分にも分らない。
-ガヴリエーレ・ダヌンツィオ
心を入れるのに、ヴァイオリンを開いているのか、
自分にも分らない。
-ガヴリエーレ・ダヌンツィオ
ガヴリエーレ・ダヌンツィオ。これが彼。なんと素晴らしい美男で驚きました!

彼の名にはあちこちで出会いますが、読んだ事もなく、殆ど知らずに過ごして来て、
今回は、かなり衝撃的な出会いになりました。
なぜこのサロの銅像に彼の詩があるのか、その疑問からあれこれ読み始め、
彼の家がすぐ隣町ガルドーネにあること、博物館になっているらしい事を知り、
次のチャンスに出かけました!
彼の家がすぐ隣町ガルドーネにあること、博物館になっているらしい事を知り、
次のチャンスに出かけました!
これはガルドーネ・リヴィエーラの象徴ともいう、グランド・ホテル・ガルドーネ。
湖に面したエレガントな部屋は、過ぎ去った良き時代の面影を偲ばせる、と
ガイドブックにあります。

有名な客人には、ウィンストン・チャーチル、ウラディミール・ナボコフ、
そしてガブリエレ・ダヌンツィオなどと。
そしてガブリエレ・ダヌンツィオなどと。
ガルダ湖西岸のヴァカンス地の大半は、即背後に山が迫り、狭い土地に
細長く続きますが、(ガイドブック)

ここガルドーネもそうで、湖岸の脇を狭い道が走り、少し余裕がある場所には
ホテルが立ち並び、通り抜けるのに緊張します。
サン・マルコの塔と呼ばれる船だまり。 (ガイドブック)

現在はヴィットリアーレ博物館の所有で、広大な敷地の博物館から
わずか数百メートルの位置にあります。
イル・ヴィットリアーレの地図をどうぞ。

イル・ヴィットリアーレ・デッリ・イタリアーニ、これはダヌンツィオ自身が付けた様で、
どう日本語に訳したらよいのか、思いつきません。
ヴィットリア・Vittoriaは勝利で、イル・ヴィットリアーレは勝利者と、グーグル翻訳
で出ましたが、イタリア人の勝利(勝利者)と言うには、少し抵抗が・・。
言葉の魔術、と言うのか、感覚としては分るのですが、さて。
地図でお分かりの様に広大な敷地、9ヘクタールに及ぶ、壁に囲まれた要塞。
建物の中の博物館、住居内部、庭園、と見所が多く、
建物の中の博物館、住居内部、庭園、と見所が多く、
地図番号2の切符売り場で、何と何を見る、と申請して切符を買います!
家は12の場所で、10人ずつにガイドが付いて見学が出来ます。
高く伸びた糸杉がアクセントをつけ、山に沿った高低差のある土地に、
敷地が広がっています。(ガイドブック)

手前の階段状に見えるのは円形野外劇場で、真ん中に建物群、そして左奥に
白く見えるのが、彼ガブリエーレのお墓のある廟。
白く見えるのが、彼ガブリエーレのお墓のある廟。
入口を入っていくと、右手に広がる円形劇場。 ご覧のように、ガルダ湖を望む
素晴らしい位置で、ガルダでは一番大きな円形劇場で、1500人が収容可能と。
訪れた日は蒸し暑く、おまけに薄曇で、見通しがよくなく残念。

これが、プリオーリア・Prioriaと名付けられた住居部分の入口。
建物正面はご覧の様にダヌンツィオ自身が収集したたくさんの碑で飾られ、
アレッツォの行政庁を模した物とか。

正面のテントの下で待ち、10人ずつガイドに連れられて見学します。
家自体の前の持ち主は、歴史美術研究家のドイツ人、ヘンリー・トーディ博士で、
その夫人は音楽家リストの姪にあたり、博士の何万冊もの蔵書をも含めて買取り、
その夫人は音楽家リストの姪にあたり、博士の何万冊もの蔵書をも含めて買取り、
建築家と共に、彼の好みのアール・デコ様式の装飾に改装、膨大な彼の収集品、
世界各地の芸術作品が家内部、庭園に溢れています。
世界各地の芸術作品が家内部、庭園に溢れています。
ガヴリエーレ・ダヌンツィオ ・ Gabriele d'Annunzio (1863-1938)

1863年3月12日、アドリア海沿岸に位置するぺスカーラに生まれ、
16歳の時に最初の詩集を出版。
以後その生涯において、膨大な作品を生み出したと同時に、
彼の生き様、その英雄的な生涯が単なる詩人、作家という枠を超えています。
イタリアの独立戦争でもあった第1次大戦に参戦もし、軍の功労賞も受け、
こういった理由から、日本では余り評価されていないという事も教えて頂きました。
彼の生き様、その英雄的な生涯が単なる詩人、作家という枠を超えています。
イタリアの独立戦争でもあった第1次大戦に参戦もし、軍の功労賞も受け、
こういった理由から、日本では余り評価されていないという事も教えて頂きました。
詩人、とこちらでは呼ばれていますが、ヴィスコンティの映画「イノセンス」は
彼の作品が原作との事。そういった事も今回調べていて知りました。
彼の作品が原作との事。そういった事も今回調べていて知りました。
写真はヴィットリアーレに住み出した1921~1922年頃の、彼が58~59歳頃の物。
若い頃の写真では髪も髭も黒く、厳しい印象も受けますが、これは珍しく
優しい柔らかい印象で、
この家に、生涯最後の17年間を過ごしたのでした。
若い頃の写真では髪も髭も黒く、厳しい印象も受けますが、これは珍しく
優しい柔らかい印象で、
この家に、生涯最後の17年間を過ごしたのでした。
プリオーリア・住居内部をどうぞ。
建物内部見学は全て荷物をロッカーに預けてで、写真はガイドブックからです。
建物内部見学は全て荷物をロッカーに預けてで、写真はガイドブックからです。
入口ドアを入った所。写真では広く見えますが、実際は2人並ぶと一杯で。

真ん中の小円柱を境に左右にドアがあり、右のドアからの部屋は、政治家とか
借金取りとか(実際に大変多かったそうで)望まれないお客用の部屋に続き、
左のドアは少し下った場所にある部屋、友人達と会う広く気持ちのよい客間に。
1925年5月、この家を訪問したムッソリーニは、右の客間に通された後
2時間待たされたと。

彼が、ムッソリーニの訪問前に部屋の鏡に書いた言葉。
汝と共に、ナルチスの鏡を持ってきたか?
これは鉛で覆われたガラス、もしくは仮面。
お前の顔の仮面を真っ直ぐにしろ。
だが、お前は鋼鉄にたち向かう
ガラスである事を考えろ。
これは鉛で覆われたガラス、もしくは仮面。
お前の顔の仮面を真っ直ぐにしろ。
だが、お前は鋼鉄にたち向かう
ガラスである事を考えろ。
これを読んだムッソリーニは、笑みを浮かべたそう。
ザンブロッカ・Zambroccaと呼ばれるいわば彼の書斎の一つ。

「ザンブロッカ」というのは、アルカイックの言語で、「部屋用の女」の意で、
お守り、的な動物をも指しているようです。
元々右目が不自由であった彼が、飛行機の危険な着水事故で左目をも傷つけ、
自身を、目利きの盲人と称し、この理由からも、家の内部は直射の光から
目を護る為大変に暗く、外から訪れる我々には、真っ暗に感じる程。
このテーブルで、1938年3月1日の夜脳出血に襲われ、亡くなったのでした。
この年のカーニヴァル最後の夜で、75歳。
この年のカーニヴァル最後の夜で、75歳。
家の内部に所狭しと、並べられた収集芸術作品、の一つ。

これのオリジナルは、確かミケランジェロと思うのですが、この様にダヌンツィオによって、
下半身に素敵な布が巻かれ、彼の見解によると、脚が短すぎるから、との事。
確かに台座が隠れた方が、長く見えます!
一体に、収集品に全て彼流の手を加えるのが彼のやり方で、この像に限らず、
大抵の作品には彼のセンスが加えられ・・。
広く、ここだけは明るい大きな書斎。 オッフィチーナ・Officinaと名付けられ、
一般にオッフィチーナというと、修理工場のような物を指しますが、
ここは彼にとっての、脳のオッフィチーナだったのかも。
一般にオッフィチーナというと、修理工場のような物を指しますが、
ここは彼にとっての、脳のオッフィチーナだったのかも。

他の部屋の蔵書と違って低く、すぐ引き出せるように収められ、ここにも
たくさんの像や絵が。
たくさんの像や絵が。
手前の机の右端にスカーフを被せられた物が見えますが、これは愛した女優
エレオノーラ・デゥーゼ・Eleonora Duseの像なんだそう。
部屋の中央奥に見える、翼を持つ女神像、あの下辺りにも彼女の横顔の
肖像画がありました。
エレオノーラ・デゥーゼ・Eleonora Duseの像なんだそう。
部屋の中央奥に見える、翼を持つ女神像、あの下辺りにも彼女の横顔の
肖像画がありました。
彼女との愛は、彼にとって最高であったそうで、1984年にヴェネツィアで知り合い、
1904年まで続き、彼女はこのヴィットリアーレを訪問する事なく先に亡くなり、
それ以降この様に、彼女の像には、スカーフがかけられたのだそう。
1904年まで続き、彼女はこのヴィットリアーレを訪問する事なく先に亡くなり、
それ以降この様に、彼女の像には、スカーフがかけられたのだそう。
エレオノーラ・ドゥーゼ。

彼女の名は、ヴェネト平野北西部に位置するアーゾロと深く結びついており、
彼女の家、そしてお墓もこの典雅な町にあります。
彼女の家、そしてお墓もこの典雅な町にあります。
このスケッチは、ヴィットリアーレにあった物とは違いますが、彼女の美しさが
よくお分かりと思います。
よくお分かりと思います。
彼女との偉大な愛、とはいえ、彼の年譜を見ますと、ええ、次々と切れ間なく
美しい女性が登場し、年譜の中だけでも、奥様以外に8人を数えました!
美しい女性が登場し、年譜の中だけでも、奥様以外に8人を数えました!
エレオノーラ・ドゥーゼ、アーゾロの市立博物館
食堂、ケーリ・Cheliの部屋。

ケーリというのは、テーブルの一番手前に乗っている大きな亀の名前で、
彼女は実際に庭園の池に住んでいたのが、食べすぎで消化不良を起こし死亡。
実際の彼女の甲羅に胴の手足をつけて貰い、こうして食堂のテーブルの上に。
美味しく食べるのはよいが、食べ過ぎないように、との戒めなんだそう。
彼自身は粗食で、晩年は人と会食するのを好まず、一人でザンブロッカの
テーブルで食べる事が多かったと。
晩年の彼は歯が少なくなり、見られる事も好まなかった、とあるのを読み、
少し胸にこみ上げる物がありました。
テーブルで食べる事が多かったと。
晩年の彼は歯が少なくなり、見られる事も好まなかった、とあるのを読み、
少し胸にこみ上げる物がありました。
彼のように、己の才、行動、美貌に、絶大な自信を持っていたであろう男が、と。
バーニョ・ブルー・Bagno Blu.

実際は、ブルーの色が黒く見えるほど暗く、そしてこの狭い空間に900もの品が
並べられ壁にかけられていますが、
彼の生前には、3000もの品で溢れていたそうで、ペルシャの物と見られるタイルや、
小物のブルーが大変美しく。
並べられ壁にかけられていますが、
彼の生前には、3000もの品で溢れていたそうで、ペルシャの物と見られるタイルや、
小物のブルーが大変美しく。
レッブローゾ・Lebbrozo・ライ病者の部屋、と名付けられた部屋で、
いわば、彼の死体安置所をイメージした部屋。

彼にとってのライ病の定義は、中世において聖なるもの、神が天才に触れた印、
とみなし、瞑想の部屋でもあるこの部屋にその名をつけた様子です。
とみなし、瞑想の部屋でもあるこの部屋にその名をつけた様子です。
正面の奥に見える小さなベッドは、まさに象徴のようですが、左の木製像は
殉教者サン・セバスティーノで、正面の絵はサン・フランチェスコがライ病者を支え、
その顔はダヌンツィオの顔。
殉教者サン・セバスティーノで、正面の絵はサン・フランチェスコがライ病者を支え、
その顔はダヌンツィオの顔。
大変変わっていると思ったのは、金色の格子天井に所々嵌められている絵で、
女性の顔もあるのですが、足首からとかで、私には大変エロティックに。
女性の顔もあるのですが、足首からとかで、私には大変エロティックに。
左手前に見える小卓には3枚の女性の写真、彼が一番愛した女性、
母親、妹、そしてエレオノーラ・ドゥーゼの写真。
母親、妹、そしてエレオノーラ・ドゥーゼの写真。
彼が亡くなった時には、実際この部屋に一夜安置されたとの事。
ヴィットリアーレの庭園 (ガイドブック)
最初サイトで、ここの様子を調べた時、この写真を見て意味が飲み込めず、
何か壮大な夢物語の様にも感じました。
大きな船が、うっそうとした林に埋もれている。 皆さん、信じられます?!

大変に蒸し暑い日でへこたれていましたが、それでも、この船は見に行きました。
ええ、本当に、ありました! しかも、軍艦! プーリア・Pugliaという名の、
甲板に大砲を備えた軍艦が、庭園の傾斜に半ばはめ込まれた形で、
舳先をガルダ湖に向け、鎮座しているのです。


1925年、海軍からダヌンツィオに贈られた物で、甲板からの眺めの壮大さは!!
如何にもダヌンツィオ好み、というか彼の様子を彷彿と想像させられました。
私は見ませんでしたが、庭園も広大で、泉や池もあり、 (絵葉書)
他の建物には、彼の使った飛行機とか、フィアットの車なども展示があるそう。
他の建物には、彼の使った飛行機とか、フィアットの車なども展示があるそう。


入口付近の生垣にブーゲンビリア。

彼は、この地に住み始めてすぐ、家をも土地をも全て国に贈呈する事に着手。
そうする事が、彼が住んだままに、この家、この地を維持する唯一の方法、
と知っていたからで、
彼の希望通り手付かずのままに残り、国の記念物として、年間20万人もが
訪れているそうで、
訪れているそうで、

これは彼のモットー、
Io ho quel che ho donato・イオ・オ・クエル・ケ・オ・ドナート
自分は持っているもの全て捧げた
「イル・ヴィットリアーレ・デッリ・イタリアーニ」の命名にしろ、さすが詩人というのか、
言葉に含める意味、表現、そして響きが、魔術的です。
百貨店「ラ・リナッシェンテ」の名も、ビスコットの「オーロ・サイワ」のメーカー名も、
「パレンテ・セルペンテ」・親戚・蛇という良く使われる言葉も、
全て彼の作った言葉、とガイドが教えてくれました。
「パレンテ・セルペンテ」・親戚・蛇という良く使われる言葉も、
全て彼の作った言葉、とガイドが教えてくれました。
彼の作品をまったく読んでいない私には、今回彼の家をご紹介するにも、
かなりの困難さを実感しました。
が、こんな興味深い博物館もあるよ、と知って頂きたい気持ちでご案内を。
かなりの困難さを実感しました。
が、こんな興味深い博物館もあるよ、と知って頂きたい気持ちでご案内を。
チャンスがありましたら、ぜひお出かけ下さい!
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