・ アレッツォ生まれの著名人の家、とその周辺 

今日はアレッツォ生まれの著名人、それも歴史に名を留める程の大有名人、
・・中には知らなかった方も含まれますが、へへ、
アレッツォに生家または家が残る、お一人は家もないのですが、偶然に標識を
見つけ・・、 その4名の家や周辺、そして例によりもろもろの話題を。
上手く纏まりますか・・、お付き合いを願います!

この街のドゥオーモ、カッテドラーレ・デイ・サンティ・ピエトロ・エ・ドナート・
Cattedrale dei Santi Pietro e Donatoで、街の北東の高台にあり、

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ゴシックの素晴らしく大きな聖堂で、古いロマネスク教会・ラ・ピエーヴェをご案内
の時にでも、中の写真を少しご覧頂きますね。



街の地図をどうぞ。
ドゥオーモが右上に、緑色の線で囲った部分が今日のご案内ですが、

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左上、XX Settembre・ヴェンティ・セッテンブレの通りにあるのが、
緑の印をつけたのがジョルジョ・ヴァザーリの家。
       
ドゥオーモの左端から下るVia Ceesalpino・ヴィア・チェザルピーノの番号5が、
グイド・モナコ・ダレッツォ の生家。

同じ通りの斜め下に緑点を打った場所に見つけたのが、ピエトロ・アレティーノの標識、
その斜め下に見える仮面の印の場所に、彼の名を冠したテアトロ。

この通りをずっと下った番号14が、先回ご案内のピエロ・デッラ・フランチェスカの
壁画のフランチェスコ教会で、その下の教会で見た展覧会の様子を少しご紹介を。

で、ドゥオーモから右下に下った番号6に、フランチェスコ・ペトラルカの生家で、

右下のグランデ広場の上辺のヴァザーリのロッジェの左の緑点に、彼の浮き彫り像が。

という事で、ジョルジョ・ヴァザーリの家博物館からご案内ですが、
今回訪問しておらず、写真もサイトから拝借で、こちらが彼の自画像。

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正直な感想は、えっ、こんな顔をしていたの?!なんですが、どう思われます?
画家、建築家、美術史家としての活躍を思うと、何歳の自画像かは分りませんが、
少し覇気が無い様な・・、ははは、失礼!

ジョルジョ・ヴァザーリ・Giorgio Vasari(1511–1574) 近年フィレンツェは
ヴェッキオ宮の彼の壁画の下に、幻のレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画が残っているや否やで
大いに話題になった画家であり、ウフィッツィ宮、ヴァザーリの回廊などの建築家でもあり、

そして何よりも我々にとって近しい存在なのは、1550年に出版された
「画家・彫刻家・建築家列伝・Le Vite de' più eccellenti pittori,
scultori e architettori italiani」

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チマブーエから彼の時代に至る約160名を取り上げ、その生い立ちや逸話、時に
彼の創作も含め、はは、様々な技術についても言及した大変に貴重な作品で、
当時の画家の生き生きとした様子を今に伝えます。

ヴァザーリが取り上げている逸話、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯・DVDから1と2



こちらがヴェンティ・セッテンブレ通り55番にある、ヴァザーリの家博物館・
Museo di Casa Vasari.

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1541年に購入し、彼自身が
アレッツォの家の(準備が?)始まっている。
町の一番良い地区サン・ヴィートで、広い菜園が付いている、
と記している、3階建ての素晴らしい物。



彼自身が建物の装飾をする事を決め、芸術、芸術家、そして自分を称える為の
正確な計画を広げ始めた意図が良く分かるそう。

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彼がフィレンツェで没後、最後の子孫となった人が687年に「世俗の信心会」とでも
言う会に不動産を遺します。この会の建物がグランデ広場の西を占める
パラッツォ・デッラ・フラテルニタ・デイ・ライチ・Palazzo della Fraternita dei Laici
で、後に持ち主も変わりますが、1911年生誕400年に国が購入、現在の博物館に。

この博物館入場も30分毎の予約が必要で、
http://www.giorgiovasari-ticketoffice.it/

今回の写真も、サイト名が入っているのはshinkaiの撮った物、
他はサイトから拝借のものです。



グランデ広場に抜ける長~い、ヴァザーリのロッジャ。

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ロッジャと書いてますが、この上の建物全体を含めヴァザーリが1573年に設計し、
グランデ広場の1辺を、すっきりとルネッサンス様式で占めます。



ロッジャの西の端の壁に、こんな彼の像が。 自画像よりずっと良い印象!ははは。
左手に筆、右肘の下に本、背後に薄く見えるのはウフィッツィかな、

ジョルジョ・ヴァザーリに、 愛と尊厳を、 故郷  1911年 
 
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ついでにグランデ広場の逸話をひとつ。アレッツォ近郊出身の俳優ロベルト・ベニーニ・
Roberto Benigniがアカデミー賞を取った映画「人生は美しい」に登場の場面。

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さてもう一度ドゥオーモ近辺の様子を。

番号2がドゥオーモで、1がプリオーリ宮・Palazzo Priori・現在は市役所で、
インフォメーションもありますが、この建物に続いて左にコの字型の建物があります。

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朝早くの写真でご覧頂くと、左に見える像はドゥオーモの高い前広場の角の物で、
右の2番目の石造りの古い建物がプリオーリ宮で、現市役所、塔のある建物も含まれ、
その脇から道が下りますが、通りの名はヴィア・チェザルピーノ・Via Cesalpino.

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道を少し下った位置から逆に見るとこんな感じで、左側の建物の角近くに
石碑が埋められているのが見えます。

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この建物は位置から考えても、由緒あるものと思われますが、道を下りつつ見えた
建物入り口の扉の木彫り。

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まず最初にこの木彫りに気がつき、



次にこの石碑が目に入り、音符が書いてあるので写真を。
「ここにグイド・モナコが生まれ、住んだ」

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この時点では何者かまるで知らなかったのですが、アレッツォの予告編の時に、
MUSICAさんがコメントを下さり、音符、ドレミの創始者と判明!



そう言われてみると、アレッツォの鉄道駅から少し来た所に大きなロータリーがあり、
グイド・モナコ広場と名が冠され、真ん中に彫像もある事が分かり、

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改めてお知り合いになるべく、ははは、少し調べました。
壁の石碑にはMonacoと大文字なので、姓かと思ったのですが、僧侶グイドの意で、
アレッツォ出身のグイド、グイド・ダレッツォ・Guido d'Arezzo(992頃-1050)
ベネデッティーノ派の僧侶。

ヴェネトからポー河を渡ってすぐのエミーリア・ロマーニャ州はポンポーザの修道院・
Abbazia di Pomposaで、音楽を教えていたと言います。

で、ミサの際に歌われるグレゴーリオ聖歌のリズムを、僧侶達が覚えるのに
苦労している事から、従来とはまったく違う教授のメソドを考え出したのだそうで、
北イタリアで大変有名になり、敵対嫉妬心の攻撃で、修道院は無かったものの
歌曲が盛んだったアレッツォに移ったと。
この地でそれまでの研究を集大成した、新しい音楽の標記法を纏め上げたのだそう。



で音楽標記に関する記事を、聴くのは好きでも無知なshinkaiがあっちこっち何度も
行ったり来たりで読み返し、こういう事ではないかと纏めますので、
もし違っていましたら、ご教授を先に願いおきまして・・!

初期の音楽標記は言葉の上に、斜め線やら、その横に点を打ったり、延ばした線で
書いていたのが、中世になりメロディがどんどん長く、そして区切られるようになると
歌う為に記憶するのが難しくなり、
9世紀から中世全般にわたり使われ始めたのがネウマ譜というもの。

■、そしてそれに棒を付け加えたりの標記で基本形が8種、それに特別な形の
複雑なものが何種もあり!
つまりネウマ譜というのは、メロディとリズムを与えたひとつの記号ですが、
これに画期的な標記を与えたのがグイド・ダレッツォで、4本線を加えたわけです。

そしてもう一つ、グイドの歌手を助ける為の教授法は、グイドの手と呼ばれるもので、

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聖ヨハネの歌から、Ut Re Mi Fa Sol La のイニシャルを取り、
6音音階を現した事なのだそう。
後に Ut は Do となり Si が加わるわけですが、現在我々に親しい
ドレミファソラシの原形は彼にあると。 という事で、お許しを! 

ポンポーザの修道院
      

さらに、こんな坂道を下って行き、

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ふと目に留まった、標記のある建物。

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ピエトロ・アレティーノ・Pietro Aretino  Arezzo 1492-Venezia 1556

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並外れた天才、鋭い偏見にとらわれない文学者、当時の君主、著名人の中において、
一番の高い名声を得る。 カルロ5世、フランスのフランソワ1世の友達であった。
この町で生まれるが、早くにペルージャに移る・・・。



到底shinkaiの手には負えない大人物でして、はい、
アレッツォの町の遊女と貧しい靴職人との間に生まれたというこの人物が、
時の君主や法王と交わるだけの才気に富み、文筆家として世を渡り、大財産を持ち、

画料がめちゃくちゃ高かったらしいティツィアーノに、53歳の頃に描かせた肖像画がこれ!

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恐ろしいほどの傲岸不遜さが、逆に小気味よくもありますが・・、
男を描くティツィアーノの素晴らしさ!!



てな事でちょっと毒気を抜いて頂くため、ははは、ずっとチェザルピーノ通りを下ると、
先回ご案内のサン・フランチェスコ教会があり、
その東の脇道に入り口のある同教会の下層の教会は、近年修復され現在は展示会場に。

その修復資金を援助したのが、エトルリア銀行・Banca Etruriaで、
この写真の金庫室は、はい、エトルリア銀行の。

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このポスターの前で、これ、インゴットよね? 本当にこんなに金庫室にあるの?!
と係りの女性に聞きましたら、にっこりと、まぁ大体これ位は、って!

で銀行のサイトを調べましたら、ははは、物好きshinkai、
実体の金を持っているのでは、イタリアで一番、 なんですってさ!



この下の教会の展示会場で見たのが、「世紀の金展」で、ははは、素晴らしくピッタリ!
カステッラーニ家のコレクション展といい、19世紀のイタリアにあって、考古学的な品や
宝石に金細工を施したりの、金細工師のコレクション展で、上の教会の入場料と共で
お安く見れましたので・・、たまにはネ、へへ。

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で、この金展開催中に、実際に金細工師の仕事ぶりをすぐ斜め向かいで公開中で、
こんな拵えで、この若き美人がお仕事を。

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ランプに炎が上がっているのが見えますが、この炎で手に持つヘラを温め、
赤い蝋をすくい、ならし、原型を作ります。

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こんな感じで、とにかく細かい細かい仕事!

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左の棚の一番下段の真ん中、見え難いですが、中に原型を収めた円筒形がありますが、

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この円筒形に納め、周囲に石膏を流し込み型を取り、後はこの型に金を流し込む訳。
こういう金細工師になる為にはどの位の年月が必要なのか、そういう質問はし忘れ。
      


さてもう一度街の一番高所にあるドゥオーモに戻って頂き、
南東側に下るコルソ・イターリア・Corso Italiaを斜めに角を曲がって来ると、
一番の通りコルソ・イターリアに続く道で、素晴らしく大きなラ・ピアーヴェ教会の
鐘楼も見えますが、

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右手前に凸凹に見える壁が、



この建物で、現在は図書館になっているプレトーリオ宮・Palazzo Pretorio、
(元は名前から見て執政官邸だったと)壁のたくさんの紋章が素敵で、

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陽射しを浴びると、もひとつ素晴らしい威容を見せ、

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その左横に見える塀から覗く内庭。見える鐘楼はドゥオーモのなのですが、
横に小さな標記があって、ペトラルカの家と。

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サイトから拝借の写真をどうぞ。 上でご覧頂いた内庭は、写真の一番左端に
切れて見える部分で、どうやら現図書館に含まれ、
右奥に大きく見える扉が、ペトラルカの生家博物館入り口。

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脱線ですが、shinkaiが勝手にミーハーしている、ははは、ガルダ湖畔の
ガブリエーレ・ダヌンツィオの家博物館・イル・ヴィットリアーレ・Il Vittorialeの
建物正面にはたくさんの紋章が掛けられていて、アレッツォのペトラルカの家を模した、
と聞いた記憶。

追記:ペトラルカの家、とはshinkaiの記憶違いで、行政官庁でした。2018.12.27

ダヌンツィオのガルダ湖畔の家
      

この横道はヴィア・デルオルト・Via dell'Ortoと言い、ノスタルジアを感じる
古い絵葉書も見つかりまして・・。

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で、現在のペトラルカの生家博物館の入り口。

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小さな中庭があり、奥に入り口ですが、中は写真禁止になっておりまして・・。

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入り口には若者達が4人程でお喋りに夢中!写真はNoと聞いて自粛しましたが、
あんなにお喋りで盛り上がっていたなら、撮っても気がつかなかったろうと、・・残念!



中はかなり小さな部屋が並びますが、こんな風に蔵書たくさんの図書館風でして、
小さな衣類や骨の破片などの展示物もちょっぴり。

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フランチェスコ・ペトラルカ・Francesco Petrarca 
アレッツォ生まれ1304年7月20日ーアルカ1374年18/19日
ダンテと並ぶ詩人、作家で、ダンテが当時俗語と見なされていたイタリア語で
書いたのに対し、ペトラルカはラテン語で。

彼の両親はフィレンツェ人で、ダンテの友人だったといい、彼同様フィレンツェを
追放され、フランチェスコはアレッツォのこの家で生まれますが、僅か7歳の時、
父親が職を求める為フランスはアヴィニョンの近くに引越しを。

ボローニャ大学で法学を学び、父親の亡き後再びアヴィニョンに戻ったり、
作家活動を続けながらイタリア各地を。そして最後はパドヴァの南、
アルカ・Arquàの里に家を貰い、晩年を過ごし亡くなった・・。

アルカ・ペトラルカの彼の家はこちらにご案内ですが、
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461499745.html
      
アルカ・ペトラルカ再訪・中世詩人の穏やかな地、家、骨董市 1 と 2
http://www.italiashiho.site/archives/20171022-1.html
http://www.italiashiho.site/archives/20171027-1.html



今回ほんの少し複雑な彼の足跡を辿り、晩年をあの穏やかな里で過ごし、
気に入りの家で亡くなったのを、他人事ながら、良かった!と思ったことでした。

彼は大変に猫ちゃんを愛したそうで、とりわけお気に入りの雌猫ちゃん、
彼が書き物をする足元にいつも居たそうで、なんとラテン語の詩を残していて!
で及ばずながらshinkaiが、はは、拙訳を。

私が彼の最大の情熱だったの、ラウラは2番目よ。
なぜ笑うの? もし彼女が女王の美しさの魅力なら、
私は賞賛に値する忠誠の愛人よ。
もし彼女が聖なる紙にリズムとインスピレーションを
えたのなら、私はそれらを邪悪な鼠どもから守ったわ。
まだ私が生きていた時は、鼠どもを神聖なる戸口から遠ざけたの、
私の主人が書いた物を破壊する事のないようにね。
そして今は死んでしまったけど、彼らをいまだに怖がらせるの、
命の無い私の胸の中には、昔のままの忠誠が生き続けているのよ。

ラウラと言うのは彼の作品に登場する、愛を捧げたと言う女性ですが・・、

今回この詩を見つけた事で、遠かったフランチェスコが
とても近しく、親しく感じることを、今回の最後に!

長いお付き合い、有難うございました!

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