今日は先回に続き「ルネッサンスの都に、中世を探して」を続けますが、
まずお断りを。
というのも、このテーマを最初は考えておらずで、写真も撮らずでした。
まずお断りを。
というのも、このテーマを最初は考えておらずで、写真も撮らずでした。
が、調べているうちに中世当時のフィレンツェの町がいかにカオスに満ち、
喧騒と乱闘騒ぎに明け暮れ、塔の家が満ちていたかを知り、
大変興味深く面白くて、それをご紹介したくなったのです。
という事で、写真もあちこちから拝借してで、よろしくお付き合い願います!
地図に番号を打ちましたので、読みながらお確かめ下さいね。
地図に番号を打ちましたので、読みながらお確かめ下さいね。

◆ジャンフィリアッツィ邸 地図番号-1
これはジャンフィリアッツィ邸・Gianfigliazziといい、サンタ・トリーニタ橋を
北に渡って繋がるトルナブオーニ通り・Tornabuoniにあり、
塔の造りではありますが豪華なもの。

最初ここに教皇派・グエルファの一族ルッジェリーニ・Ruggeriniの建物があったのが、
1260年の両派の戦いの後追放、建物はほぼ完全に破壊されたのを、
14世紀末に再建、ジャンフィリアッツィ家が買取り、18世紀の一族の消滅まで所有。
で、現在は高級ホテル。
1260年の両派の戦いの後追放、建物はほぼ完全に破壊されたのを、
14世紀末に再建、ジャンフィリアッツィ家が買取り、18世紀の一族の消滅まで所有。
で、現在は高級ホテル。
ジャンフィリアッツィ家は最初は単なる平民であったのが、13世紀から14世紀にかけ、
貸付銀行と商売で急速に成長繁栄。
それもフィエゾレの大浪費の司教に貸付、破産した膨大な富を吸収、
それを南フランスで上手く投資活用。 貸付利子が平常であったフィレンツェに比し、
南フランスでは当時266,66%まで行ったのだとか!
貸付銀行と商売で急速に成長繁栄。
それもフィエゾレの大浪費の司教に貸付、破産した膨大な富を吸収、
それを南フランスで上手く投資活用。 貸付利子が平常であったフィレンツェに比し、
南フランスでは当時266,66%まで行ったのだとか!
こういった厚顔無比な強欲ぶりは、当然ダンテの神曲の中でも批判され、
地獄の灼熱に焼かれる様で登場しているとの事。
地獄の灼熱に焼かれる様で登場しているとの事。
◆ 追記です
これを書いた時には、なぜ南仏でそんな高利の投資が出来たのか疑問でしたが、
アヴィニョンへの教皇庁移転造営工事について知り、漸くに、そうか!と納得を。
これを書いた時には、なぜ南仏でそんな高利の投資が出来たのか疑問でしたが、
アヴィニョンへの教皇庁移転造営工事について知り、漸くに、そうか!と納得を。
大学生相手の金貸し、という言葉もあったのですが、既にあった大学に新しく
法学部も設立されたというので、ヨーロッパ中から優秀な学生も集まっていたのでしょう。
アヴィニョンの教皇庁宮殿については
cucciolaさんが、こちらに大学生相手の金貸しについて
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765054.html
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765054.html
◆アミデイの塔 地図-2
シニョリーア広場から西に、すぐ出会う道を左折するとヴェッキオ橋に向かいますが、
この道がポル・サンタ・マリーア通り・via Por S.Mariaで、中ほどにこの塔が。

アミデイの塔・Torre dei Amideiと言い、素晴らしい2つのライオンの顔に
魅かれて写しましたが、顔の一つ(左?)は、エトルスクの物との説もあるそうで、
ライオンの塔・Torre dei Leoniと呼ばれるとも。
魅かれて写しましたが、顔の一つ(左?)は、エトルスクの物との説もあるそうで、
ライオンの塔・Torre dei Leoniと呼ばれるとも。
アミデイの塔は全体を撮っていませんので、サイトからこれを。

塔の家の高さは、平均60mほどもあったそうで!
この塔も実際はもっと高かったのが、13世紀の終わりに50ブラッチャ・
約29m以上にしてはならないという規制ができ、上辺を刈り取られたのだそう!
ライオンの写真と共にこの石碑も写し、ここに見える紋章のAMIDEIという名から、
今回の興味の追跡にで、はは、少し大袈裟ですが!

貸付業のアミデイ家はギベッリーニ・Ghibellini・皇帝派に属し、
フィレンツェのみならずイタリア全土を、何世紀にも渡っての血まみれ騒乱の渦に
巻き込んだ、グエルフィ・教皇派と ギベッリーニ・皇帝派の闘争の
最初のきっかけの殺人事件の主人公なのでした。
フィレンツェのみならずイタリア全土を、何世紀にも渡っての血まみれ騒乱の渦に
巻き込んだ、グエルフィ・教皇派と ギベッリーニ・皇帝派の闘争の
最初のきっかけの殺人事件の主人公なのでした。
ギベッリーニ・皇帝派というのは、神聖ローマ帝国皇帝派、
グエルフィ・教皇派は、ローマ教皇派を現しますが、
元々は、司教や修道院長の収益問題が絡む叙任権争いから始まり、
どちらを支持するかで、都市間、町中の争いに発展した様子。
事件の経緯の詳細は略しますが、ある宴会の喧嘩に始まり、その収拾のため、
アミデイの娘とボンデルモンティ・Bondelmonti・グエルフィ・Guerfi・教皇派の
婚姻約束が交わされ、反故になった場合は高額の賠償金を、という契約。
グエルフィ・教皇派は、ローマ教皇派を現しますが、
元々は、司教や修道院長の収益問題が絡む叙任権争いから始まり、
どちらを支持するかで、都市間、町中の争いに発展した様子。
事件の経緯の詳細は略しますが、ある宴会の喧嘩に始まり、その収拾のため、
アミデイの娘とボンデルモンティ・Bondelmonti・グエルフィ・Guerfi・教皇派の
婚姻約束が交わされ、反故になった場合は高額の賠償金を、という契約。
所がここに、ドナーティ家・Donati・教皇派の奥方グアルドゥローバ・Gualdroba
が乗り出し、違反金を払って上げるから自分の娘と結婚を、の申し出!
が乗り出し、違反金を払って上げるから自分の娘と結婚を、の申し出!
アミデイの娘は美人でないのに比べ、ドナーティの娘は評判の美人、おまけに
賠償金もとの事で、ボンデルモンティは結婚式を放棄。
賠償金もとの事で、ボンデルモンティは結婚式を放棄。
収まらないのはアミデイ家とその党派で復讐計画を練り、棒で殴る、顔を傷つける、
など言いあう席で、モスカ・デイ・ランベルティ・Mosca dei Lambertiが
激烈な方が後を引かない、と発言し決定。
など言いあう席で、モスカ・デイ・ランベルティ・Mosca dei Lambertiが
激烈な方が後を引かない、と発言し決定。
ボンデルモンティはドナーティの娘との結婚式に向かう1216年復活祭の日に、
このアミデイの塔の前で棒で殴られ落馬した所をナイフで殺害され、
これが町中を巻き込む大騒ぎに発展、教皇派と皇帝派に分かれての
争いが始まる元となった、と言うのでした。
このアミデイの塔の前で棒で殴られ落馬した所をナイフで殺害され、
これが町中を巻き込む大騒ぎに発展、教皇派と皇帝派に分かれての
争いが始まる元となった、と言うのでした。
読んでいて、まさに火事と喧嘩は大きいほど・・!! で笑えましたが、
歴史の大事件もホンの些細な事が発端ですねぇ。
歴史の大事件もホンの些細な事が発端ですねぇ。
家の紋章の下に見えるダンテの神曲は、この事件に触れているのでした。
◆ダンテの家博物館 地図-3
が、ダンテ・アリギエーリ・Dante Alighieriの実の生家ではなく、
20世紀初頭に中世の面影の強く残るこの地域に、そして唯一の記録から
近くに生家があったと認められるこの地に再建されたものなのですと。
が、ダンテ・アリギエーリ・Dante Alighieriの実の生家ではなく、
20世紀初頭に中世の面影の強く残るこの地域に、そして唯一の記録から
近くに生家があったと認められるこの地に再建されたものなのですと。

19世紀末にたったの5年間でしたが、フィレンツェに新生イタリアの首都が
置かれた事があり、当時ダンテの生誕600年に当る事からの着想だったそう。
実の生家はダンテが町を追放された後破壊されており、右に見える塔も
近くにあったジュオッキ家・Giuochi、1300年前後に消滅した家の2つの塔の
一つを移した物で、
近くにあったジュオッキ家・Giuochi、1300年前後に消滅した家の2つの塔の
一つを移した物で、
ダンテの生家は貴族ではあっても小貴族で、塔を所有した事はなかったそう。
とはいえ、なかなか雰囲気のある中世の家なので覗きに行ったという次第です。
向かいの壁にあった石碑で、ダンテの詩
・・私は、美しいアルノ河の傍の素晴らしい家で生まれ育った。

現在の家博物館の前。 広場があり、井戸も。

塔部分、博物館入り口もこちらに。

11月から3月末 火曜~金曜 10時から17時 土、日曜 10時から18時
月曜休館
4月から10月は、毎日10時から18時 開館
月曜休館
4月から10月は、毎日10時から18時 開館
博物館内部。 中世や、ダンテの神曲について様々な説明展示。

当時の貴族階級の花嫁衣装の再現で、大変豪華な物ですが、
当時衣類は財産でもあり、遺産相続にも含まれました。

公証人の毛皮付きの衣類もあリましたが、ピンボケで。
◆ダンテの肖像 地図-4
ヴェッキオ宮の東の道・via del Proconsoloをドゥオーモに向かう途中
見つけた垂れ幕、「ダンテの実の顔・一番古い実証的な肖像」
ヴェッキオ宮の東の道・via del Proconsoloをドゥオーモに向かう途中
見つけた垂れ幕、「ダンテの実の顔・一番古い実証的な肖像」

まだ若く、厳しい面影はありませんね。
プロコンソロ通りの「判事と公証人の組合の館」で、内部にフレスコ画が残っていると。

「判事と公証人の職業組合」というのは、13世紀初頭に既に記録に登場、
フィレンツェにあった7つの大組合、16の小組合の筆頭に位置する、
力と威信を持った組合で、他の展示もあり興味深そうです。
フィレンツェにあった7つの大組合、16の小組合の筆頭に位置する、
力と威信を持った組合で、他の展示もあり興味深そうです。
ダンテが生きた時代のフィレンツェの町。
市壁に囲まれ、ドゥオーモの丸屋根もなく、見える大きな家はすべて塔の家。
市壁に囲まれ、ドゥオーモの丸屋根もなく、見える大きな家はすべて塔の家。

塔の家・Le Case-Torri(複)という言葉に、ダンテ博物館で始めて出会いました。
「塔の家」の内部図。 この手の絵が大好きで、大いに興味を持ちまたあれこれと。

フィレンツェの町の歴史はローマ期からですが、千年前後になると市壁に囲まれた
内側の土地の余裕がなくなり、どんどん上に延びる様になったのだとか。
内側の土地の余裕がなくなり、どんどん上に延びる様になったのだとか。
最初は防御目的、つまり勢力争いに備え、塔の1階には出入り口もなく、
2階部分に取り外し出来る梯子をかけたり、近所の同じ党派を組む家から
出入りしたり!
2階部分に取り外し出来る梯子をかけたり、近所の同じ党派を組む家から
出入りしたり!
張り出したバルコニーや持ち出し部分は勿論上からの攻撃用で、傍らに石やら用意、
階毎に一部屋で、縄梯子や引き上げ梯子で上階に。
階毎に一部屋で、縄梯子や引き上げ梯子で上階に。
この時期の塔の高さは、時に130ブラッチャ、約75mにも!
住居の必要性がいや増した12世紀半ば、町中に林立する塔の家は150~170も!
内部の1階部分は、中庭(土間)窯、薪置き場、家畜小屋など。
そして順次上に、集会用、寝室、火事用心に台所は一番上に。
そして順次上に、集会用、寝室、火事用心に台所は一番上に。
窓は少し大きくなるものの、防御を兼ねて木か、または蝋塗りの布で覆われ、
光を余り通さず薄暗かったと。
光を余り通さず薄暗かったと。
女性達は一日働き詰めで出かける事も殆どなく、大変な生活状態。
道は未だ石畳ではなく、真ん中に溝が掘られ雨水のみならず、家にはトイレ設備が
ない事とて、汚水もごみも垂れ流し!
ない事とて、汚水もごみも垂れ流し!
塔の家から張り出しのバルコニーで陽も射し込み難く、ぬかるみで、
門閥徒党間の争いからも 人々は中庭に集まり過ごす事が多く、
井戸に毒を投げ込まれる事も恐れ、鯉を飼っていたとか!
う~~ん、やはり凄い時代だったんだぁ!!
◆塔の家 地図-5
これは、栗の塔・Torre della Castagnaと言い、ダンテの家のすぐ近くに。
これは、栗の塔・Torre della Castagnaと言い、ダンテの家のすぐ近くに。

塔の歴史は大変古く既に1028年に建設、1282年にフィレンツェでの最初の
行政官の集会が持たれたのだそう。
「栗・カスターニャの塔」の名の由来は、当時投票に栗を使い、栗をフィレンツェでは
バッロッテ・ballotteと言うので、
現在使われているバッロタッジョ・ballotaggio・決選投票、優勝決定戦の
言葉の元ともなったのだそう。
先日ヴェネツィアのギリシャ教会で、イコンの展示を見ましたが、
その際、Sì, No と書かれた木製の筒があり、投票用の白い玉、何かを丸めた
形を見つけ訊ねましたら、皮、との事でしたから、土地風習により色々ですね。
バッロッテ・ballotteと言うので、
現在使われているバッロタッジョ・ballotaggio・決選投票、優勝決定戦の
言葉の元ともなったのだそう。
先日ヴェネツィアのギリシャ教会で、イコンの展示を見ましたが、
その際、Sì, No と書かれた木製の筒があり、投票用の白い玉、何かを丸めた
形を見つけ訊ねましたら、皮、との事でしたから、土地風習により色々ですね。
現在この塔の下部分は、国家統一運動博物館・Risorgimentoとして
見学可能だそうで、イタリアの広場には必ずおられるガリバルディ将軍の、
座ったクッションなどが見られるそう!
見学可能だそうで、イタリアの広場には必ずおられるガリバルディ将軍の、
座ったクッションなどが見られるそう!
ジオットの鐘楼の中程からの眺め。見える高い塔は、右からヴェッキオ宮の塔、
尖ったのがバディア・フィオレンティーナの鐘楼・Badia Fiorentina、
左がバルジェッロ宮の塔で、
尖ったのがバディア・フィオレンティーナの鐘楼・Badia Fiorentina、
左がバルジェッロ宮の塔で、

一番手前真ん中に見えるのが、ヴィズドミーニの塔・Torre dei Visdominiで
この斜め奥、バディア・フィオレンティーナの鐘楼の右に見えるのが、
上でご紹介した栗の塔かと。
◆ヴィズドミーニの塔 地図-6

ヴィズドミーニ家は、ドゥオーモのすぐ傍に元の家があったのが、ドゥオーモの拡張で
ここに移った様で、空席の司教の代理権を持ち、大いに稼いだとか・・、
それもダンテの神曲に書かれているのだそう!
ここに移った様で、空席の司教の代理権を持ち、大いに稼いだとか・・、
それもダンテの神曲に書かれているのだそう!
◆パリアッツァの塔 地図-7
ジオットの鐘楼からで、半円形の低い塔が見えますね、
これがパリアッツァの塔・Torre della Paliazza.
ジオットの鐘楼からで、半円形の低い塔が見えますね、
これがパリアッツァの塔・Torre della Paliazza.

隣に見える高い塔は身元不明、新しいのかも?
パリアッツァの塔。 この珍しい半円の塔は、基礎がローマ期の張り出しテラス・
エセードラ・esedraを利用したビザンティン様式の塔で、フィレンツェでも唯一と。

しかも最近の発掘で、これが温泉・テルメを取り囲む形の物と分かったそうで、
公衆浴場または私的な物にしろ、街では2番目と。
最初のは、先回ご紹介のテルメ通り、ボンデルモンテの塔のある通りに遺跡が
あるそうで、それでテルメ通りなのでした。
パリアッツァ・藁の寝袋、の名の由来は、13世紀以降監獄、女囚用に使われ、
男の囚人は床に直接寝たのに対し、女囚には藁の袋が与えられた事に由来と。
男の囚人は床に直接寝たのに対し、女囚には藁の袋が与えられた事に由来と。
現在はホテルで、発掘品の陶器の博物館があり、希望すると見れるとの事。
◆ドナーティの塔 地図-8
このドナーティの塔・Torre dei Donatiも古く、写真では分かりませんが、
中庭を囲む形とか。
このドナーティの塔・Torre dei Donatiも古く、写真では分かりませんが、
中庭を囲む形とか。

ドナーティ家は近くに別の塔も持っていますが、同じ地区に、ライヴァルの
チェルキ家の塔・Torri dei Cerchiがあり、これは同じグエルフィ・皇帝派内の争い、
富裕市民層の白派と 貴族階級の黒派の血みどろの争いに繋がり、
遂に中立地域の小路が設けられ、これは現在もスキャンダル小路・
vicolo dello Scancaloとして残っているそう。
ダンテは小貴族で白派に属し要職にも就いたものの、黒派が勝つと
1301年に追放処分となり、長い20年間の放浪の果てフィレンツェに戻る事無く、
ラヴェンナで亡くなったのでした。
1301年に追放処分となり、長い20年間の放浪の果てフィレンツェに戻る事無く、
ラヴェンナで亡くなったのでした。
◆ドナーティの塔 地図-9
こちらは同じドナーティ家の塔ですが、2つあり、コルソ・ドナーティ家の塔・
Torri di Corso Donatiと呼ばれます。
こちらは同じドナーティ家の塔ですが、2つあり、コルソ・ドナーティ家の塔・
Torri di Corso Donatiと呼ばれます。

ドナーティ家というのは大貴族で、それに繋がるジェンマ・ドナーティ・
Gemma Donatiがダンテの奥方。
ダンテの神曲も読んだ事がなく、彼への知識もありませんがイタリアの誇る大詩人、
哲学者政治家である位は知っており、
今回改めて、ダンテの奥方の名前や、彼が神曲の中で崇めるベアトリーチェとの
経緯も知りました。
哲学者政治家である位は知っており、
今回改めて、ダンテの奥方の名前や、彼が神曲の中で崇めるベアトリーチェとの
経緯も知りました。
で、あれほどベアトリーチェに詩を捧げ崇めている彼が、妻のジェンマについては
何んにも触れておらずをも知り、いささか憤慨!
何んにも触れておらずをも知り、いささか憤慨!
大概の事は、それはそれよね、と思う私ですが、許婚であリ、心染まない相手で
あったとはしても、4人の子をもうけ、700年後の今もダンテ家は残っているのですね。
あったとはしても、4人の子をもうけ、700年後の今もダンテ家は残っているのですね。
それが妻ジェンマとの生活の断片も、亡くなった年も定かでない、
読んでいて、何とも哀れを覚えました。
読んでいて、何とも哀れを覚えました。
◆アルベルティの塔 地図-10
こちらはサンタ・クローチェ教会近くの特徴ある塔なので、ご存知の方も多いと。
こちらはサンタ・クローチェ教会近くの特徴ある塔なので、ご存知の方も多いと。

アルベルティの塔・Torre degli Albertiと言い、大一族のアルベルティ家は
グエルファ・教皇派ではあるものの、立ち回りが上手いと言うのか追放されても戻り、
また政治の中枢に食い込むを繰り返し、18世紀まで継続。
最後は、サンタ・クローチェ教会の青空を。

ダンテ・アリギエーリにいささか憤慨し疲れましたが、ははは、
この教会の左手にも、彼の像があるのでした!
この教会の左手にも、彼の像があるのでした!
*****
ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
*****
コメントの書き込みについてのお願い。
ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。
この記事へのコメント