・ レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について

ダ・ヴィンチの生家を訪れて知った事をまず要約しますと、
    
レオナルドの生家を訪れ、今迄ずっと祖父の家と思い込んでいた
アンキアーノの彼の生家と言われるものが、

実は祖父の友達の家であり、レオナルドはその家で生まれたもののすぐに
祖父に引き取られ、実の母親カテリーナ・Caterinaは、出産後じきに
近所の農夫と結婚、何人かの子供も出来た、
というのが、生家の管理の女性の話でした。


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かなり驚き、家に戻って後改めてレオナルドについて調べたのですが、
何の気なしに「レオナルドの母親」で検索をかけましたら、
なんと出るわ、出るわ、・・驚きました!

レオナルド・ダ・ヴィンチの母親については、今迄は近所の農婦、樵の娘、
ロシア系ユダヤ人、スラヴ女性 ecc eccと、
いずれも憶測の域を出なかったのですね。

が今回サイトで知った、2008年春に出版された本の内容は、かなり衝撃的な
ものですが、記録を掘り起こし積み上げての実証のように思われます。
私は研究者ではありませんし、内容についてとやかく言う程の知識も
ありませんので、そのままご紹介いたします。

追記:サイトは La madre di Leonardo era una schiava? で
   検索し、見つけた一番詳細な物でしたが、改めて調べましたが
   見つかりませんでした。
   が、未だにあれこれ別の名も挙がるという様な賑わいで。2018.11.30
        
出版された本の題名は
La madre di Leonarudo era una schiava?・
レオナルドの母親は奴隷だった? で、

筆者はFrancesco Cianchi・フランチェスコ・チャンキ、彼の父親レンツォRenzo
と共にレオナルドの研究者。
既に数年前レンツォの「レオナルドの母親はオリエントの奴隷だったかも」との
推測の発表があり、その研究を継いでの今回の出版だった様子で、
その本の要約をサイトで見つけたのでした。


レオナルドの父親 ピエロ・Pieroはフィレンツェで公証人をしており、
銀行家のヴァンニ・ディ・ニコロ・Vanni di Niccolòの公証人、友人であり、

ヴァンニの遺言は最初、妻アニョーラ・Agnolaは亡くなるまでギベッリーナ通り・
Ghibellinaの家に住むという条件で作られたのが、
後ピエロにこの家を譲る様に変更され、彼は1451年10月24日に死亡。

カテリーナの妊娠は逆算すると、ヴァンニの死の3ヵ月後で、それまでの
ヴァンニ家と公証人ピエロの関係は、それを境に急に途絶えます。

カテリーナがヴァンニ家の奴隷であったのは、資産台帳によると少なくとも
1446年からの事と分かっており、奴隷は家の資産と同様、妻のアニョーラに
渡るはずでした。

奴隷という言葉には、抵抗がありますね。 ですが当時のフィレンツェのみならず、
資産家の家には女性奴隷がおり、14世紀の初期まではイスラム圏からの奴隷
が主流を占め、同世紀末には黒海、ギリシャ、バルカン諸島が増え、
15世紀の中頃からアフリカからの奴隷が現れたのだとか。

1457年のフィレンツェに於ける奴隷の数は、確認されている数だけで544人、
という報告もあり、奴隷の値段は、年齢、身体状態の他に出身地も影響し、
白人、とりわけコーカサス出身が高かったと。

彼女達は新しい名前を与えられ、カテリーナ、マルゲリータ、マリーア、マルタ、
マッダレーナという名が一番多かったそうで、
キリスト教に改宗させられ、洗礼を受けたといいます。


で、本題に戻りますと、
奴隷と関係を持ち子供が生まれる事は、勿論公的なダメージを受けるだけでなく、
おまけにレオナルドが生まれて8ヵ月後には、他人の持ち物である奴隷との関係に関し、
大変厳しい法律が発布されたのだとか。

ヴァンニの未亡人とその親戚筋が騒ぎ出すのを宥める必要もあったのか、
譲られた家にピエロはすぐに移らず、23年後の1479年から移り住んだ様です。

前後しますが、ギベッリーナ通りの家に住み残った未亡人アニョーラの資産台帳の
申請からは、奴隷カテリーナの名は消えており、別の下女になっているそう。

ちなみにヴァンニの未亡人の名はアニョーラ・ディ・バロンチェッリ・
Agnola di Baroncelli という、フィレンツェの著名な家柄出であったそうで、
その家柄に繋がるベルナルド・Bernardoは、後年メディチ家に対するパッツィ家の
叛乱で捕まり、バルジェッロ宮の窓から絞首で吊るされ、それをレオナルドが
スケッチした、という不思議な縁もあります。


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こうしてカテリーナはフィレンツェから消えるのですが、
1457年に祖父アントーニオのbocche(台帳?)に父親ピエロの直筆で、
「リオナルド、serピエロの庶子、彼とカテリーナ、現在ヴァッカ・ダ・ヴィンチの
ダカッタブリーガ・d’Achattabriga・アントーニオの妻との間に生まれた、5歳」
という記述に現れます。

カテリーナは、レオナルドを出産後1年も経たないうちに、上記の農夫ピエロに
嫁いだ様で、この5歳になるまで、乳母のような形の母親と会っていたのかも
知れませんね。
奴隷の身分であったとすれば、早々に追う払うような形でカテリーナを他の男に
嫁がせ、レオナルドを祖父が引き取った、というのも飲み込めます。
いずれにしてもこの5歳の時に、祖父の家に引き取られ教育されたのかもしれません。

上記のように、父親のピエロは辣腕の公証人だったようで、嫡子であれば、
父親以上の凄腕の公証人になったかもですが、当時の公証人規定では庶子は
その職を継ぐ事ができず、

このお陰で、我々は彼の素晴らしい作品に接する事ができ、その万能の
天才振りを賞賛できるわけですね。


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と、この本と同時に出版され紹介された他の1冊
エリザベッタ・ウリーヴィ・Elisabetta Ulivi著
レオナルドの系図・ Per la genealogia di Leonardoにこれまた驚く事が。

52枚のレオナルドのスケッチ等に残された200以上の指紋の破片から、
遂に最新技術を持って、レオナルドの左手の指紋が作り上げられたそうです。

そして指紋からは、人類がかなり特定出来るのだそうで、
同じ指紋は約65%のアラブ人が持っているそうで、つまり、レオナルドの母親
カテリーナはアラブ系の女奴隷であったことが推測出来る、というものです。

という事で、現在のレオナルドの研究者達の目標は、
奴隷の売買書、または自由民にする書類の発掘だそうで、
もしそれが見つかれば、出身地、身体的特徴などが分かると。

というのが、今回知った事どもでした。
単純に生家を訪ねたつもりが、思いがけない大きなニュースを運んできて
驚いていますが、上手くお伝えできた様に願っています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について再度
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20170928-1.html


◆ 追記 ◆

リンクしております「イタリア、とりわけヴェネツィア」のペーシェクルード様
大変興味深い記事のアドレス、レオナルドの指紋に関連して、
彼の未発掘の絵が見つかったか、という記事のアドレスを送ってくださいました。

ひょっとして、ミラノ公ルドヴィーコの娘のビアンカの肖像画かも、という
大変美しい絵です。ご覧下さい!
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2652331/4755445

    
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