・ ポルトブッフォレ ・ Portobuffolè 再訪

かっては町の中を川が流れ、川の港町として中世から大いに栄えた 
ポルトブッフォレの町。 
度重なる氾濫に悩まされ、遂に川の流れを変え、
今は眠っているかのようなこの町については、既にご案内しましたが、
先月、久し振りに再訪しました。

で、この小さな町にしては今回は話題が豊富で、写真が大変多くなりました!
が、ご辛抱の上、お付き合い下さいませませ。

通りの奥に市の塔が見え、その前にマッジョーレ広場が広がり、
この一帯が町の一番の中心地。

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通りの右の建物群の中程に壁に赤い布がかかっているのが見えますが、
ここが、ダンテの神曲にも登場のガイア・ダ・カミーノが住んだ家。

今回は、今は博物館になっている家が修復され、お披露目を前に、
まだ閉まっていたのをしっかり見る事ができましたので、後ほどご覧に!



この市の塔内部が、この地方の手工業、農業の道具等を展示した博物館に
なっていて、展示物もさることながら一度中を見たく、土曜に運転実習を兼ね、
開館時間に合わせ訪れました。

塔の上の飾りが大変優雅です。
四角い時計の右上に開いた、アーチ型の窓にご注目を!
       
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博物館に入るには、すぐ近所にある観光事務所に申し込み、入場料
確か3,5エウロだったかを払うと、ガイドつきで案内して貰えます。
時間も好きなだけ、少し離れた祈祷所までも案内つきで、申し訳ないほどの
料金と内容なのです。

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内部は、一辺が5mほどでしょうか。 下の建物の、屋根の位置から入り、
3層位までが展示場で、様々な道具類が種々雑多に並べられいて、
比較的新しい物が多く、内容としては、ウンブリアの、チッタ・ディ・カステッロの
民衆伝統博物館が、断然上と思いましたが、
案内して下さった女性とお喋りしながら、楽しく見れました。



ウンブリアの博物館と内容が重なる部分がありますので、ここで見かけた
新しい物をいくつかご紹介しますね。

これは蝦取りの籠で、かっては町の中を川が流れていたと言いましたが、
リヴェンツァ川といい、写真で見るとかなりの水量で、平野の中をゆったりと
流れており、川蝦が取れたようです。

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この辺り一帯今でも川蝦が有名で、近くの町の教会にある「最後の晩餐」
の古いフレスコ画の食卓には、川蝦が描かれているとか。



そしてまた、ヴェネト平野とフリウリ平野では養蚕業が盛んでした。
これは、桑の葉を切る為のものと。

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これは真ん中に電灯がつく様になっていて、目くらましをし、広がった傘の様な
網には鳥もち式のねばねばが塗りつけてあり、小鳥を獲ったのだそう。

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網の綱には小さな羽毛がまだ張り付いており、ちょっと哀れを催しました。



ヨチヨチ歩きの子供を入れて歩かせる、歩行補助器。 下の角々には
小さなコロがついていて、子供は倒れず動き回れるという仕組み。

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忙しい農家の親にも、子供にも、一石二鳥の歩行器だったでしょうね。



ガラスが割れているのをテープで止めていて、少し見えにくく済みません。

下の中心広場を見下ろしていますが、左上の白い建物が現在この町のドゥオモ
になっている、かっての、ユダヤ人のシナゴーガです。
薔薇窓の位置には、まだユダヤの星を示す、6つの角を持つ星が見えます。

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川を利用して物販輸送で大いに栄えたこの町には、多くのユダヤ人が住んでおり、
金融業に他の産業にも大いに関わっていたのが、
15世紀にイタリア人の子供が行方不明、死体が見つかった事件をきっかけに、
シナゴーガも閉鎖、ゲットーに閉じ込められるという事になりました。



こちらは町の北西方向で、町の外にはすぐ、ヴェネト平野が広がります。

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2枚目の市の塔の時計の右上に窓が見えましたが、かって死刑囚はあの窓、
あの穴から、時計の鳴るのを合図に下に突き落とされたのだそう。
塔の中を伝わって落ちる一番下は監獄。

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これがその穴で、下の鉄の柵の足元にも穴があり、鉄格子が嵌っていました。
ただし穴の半分は、壁を作って塞いでいる様で、今は到底落ちない程の
狭い穴となっていますが、それでも、やはりあったか! と・・!!



サンタ・テレーザ祈祷所。 町を一旦出て、少し歩いて祈祷所に。

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この祈祷所は、隣り合っているかってのヴェネツィア貴族の館、
ヴィッラ・サン・ジュスティニアン、現在は4星ホテルの、ヴィッラの祈祷所
だったもので、17世紀のこじんまりとした美しいもので、こちらが入り口。



内部はバロック様式で、私の苦手とする所ですが、美しく修復され、
だまし絵の聖人などもなかなかの物で、こちらは、床の飾り模様。

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窓には、この様にステンドグラスが。 やはり、ヴェネツィアのガラスでしょうね。
窓の外の緑を映し、大変爽やかでした。

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我々は入口の扉の鍵を開けて入り、するっと通り抜けて、裏の扉から出ました!

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扉が開いているのが見えますか? 閉めなくても良いのか、と聞くと、
案内の女性は、修理の人が入っているようだから、と。
祈祷所の上にある2つの小さな塔が、後ろ側からのほうが良く見えます。
       
そしてそこはもう、サン・ジュスティニアン・ホテルの前庭。



かってのヴェネツィア貴族の館が修復され、今は4星ホテルに、と書きましたが、
       
「ここにはフェリーニ(映画監督)も来たし、モンテッゼーモロ(現フェッラーリ会長)
も来るのよ」と彼女が話しながら歩き、そして目に入ったものがこれ!!

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これは、フェッラーリの、テスタ・ロッサとか言うやつでしょう?!
生垣の向こうにも、チラッと同じのが並んでいるのがお目に入りましょうか?!
写真では4台ですが、実はずらっと向こうまで!

モーター・ショウかと一瞬目を疑いましたが、ナンバープレートの国籍は D で、     
つまり、ドイツの方々がお越しになっていたようで。



こちらには、先頭の2台がシルバーでしたが、後には真っ赤なヤツが5台ほど、
そして角を曲がり、庭の向こうの道にはやはり5,6台真っ赤なのが、ずらっと・・!

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ヴェネトの田舎の、こんな小さな古い町のすぐ隣のホテルで、
こういう物にお目にかかるとは・・! 驚き入りましてござります。
       


帰った方が良いね、と案内の彼女が言い、我々はまたすぐ引き返し。

「ガイアの家」はやっと修復が済み、お披露目は何週間か後、という時でしたが、
見れるよ、と案内事務所の横の扉から中に入れてくれました。

こういう融通はイタリア独特の物! 私が興味を持っているのに対し、
彼女が好意を示してくれたのですね。 嬉しい事でした。

ドアの位置からの眺めです。 建物の表と裏を(東と西を)道に挟まれて、
それを細く横割りにしたような部屋が続きます。
       
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天井が低く、潜り抜ける部分はも一つ低く、殆どの壁全体にフレスコ画が施され。



建物自体は14世紀の背の高い3階建てで、現在の階段も備えられていますが、
当時は、梯子のような物で上に上がり、夜は防御目的から、上に引き上げていたと。

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この壁画は、若い闘士。 実際は足の下まであり、殆ど壁全部の高さで、
いわば等身大の人物像、という感じです。



左に、貴族の若き貴公子、召使が、頭に重たい本の包みを乗せて従い、
その後には実はワン君がいました。

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部屋の幅が狭く後ろに下がれず、同じ一枚には無理で、
ワン君の肝心の顔が削られていたので、こちらをご覧頂きますね。
     
       

最初、アダムとイヴかと思ったのですが、どうやらこの家の主人夫妻の、
ガイア(1270-1311)とその夫トルベルトとの事。

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ガイアは、ダンテの神曲煉獄編に詠われ、トレヴィーゾの領主ゲラルドの娘。
夫トルベルトは、ヴィットリオ・ヴェネトのチェーネダの伯爵で、いとこ同士で、
夫が、舅よりこの地の領主に叙され、1300年頃ここに移り住んだ様子。

詩人でもあった彼女はこの地に宮廷文化を持ちこみ、エレガントで快適な、
明るい城を作ったものの、1311年の夏に短い生涯をこの地で終えます。
夫トルベルトは名前のみで、生年没年も分かりませんでした。
     


暖炉がありました。 他の部屋には無かった様で、ここは彼らの愛の巣だったかも。

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小さな部屋の、小さな慎ましい暖炉。 まだ中世も前半の、貴族の生活です。



窓から、中心広場のロッジャが見えます。 この辺りは行政関連の建物が
あった場所で、右上に市の塔の時計も見えます。

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上の写真に見えるロッジャに、この大氾濫の写真が。
町を通り、繁栄をもたらしていたリヴェンツァ川の、1966年の大氾濫です。
       
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遂にこの時の氾濫が、川の流れを変える決定に繋がり、町の印象を
根本から変える事になった訳で、
博物館には、この氾濫の悲惨な写真がたくさん展示されていました。



町の通りは全てポルティコになっていて、細めの道が続きます。

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左奥に見える広場がゲットー広場で、右奥の建物が現在修復中でしたが、
ユダヤ人達の住んだゲットーの建物の様子。



町に行ったのは土曜の午前中ですが、ご覧のように、どの写真にも、
殆ど人影が、ありません。 わざと避けたのでは無いのです。
本当に、骨董市の日に偶然行き合わせた時だけ、町に人だかりがありました!

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この日、人声が賑やかだったのは、奥に見えるバール兼レストランのみで、
あとは、シーンと静まりかえって。



河の港で栄えた頃、ヴェネツィア共和国の境界地で、塩や穀類の取引や、
物品運搬が盛んだった頃の名残を示す、ドガーナ。
現在は、レストランとホテルを兼ねて。
       
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家に戻るつもりが遅くなったので、ここのポルティコの席でお昼を頂きました。
鄙びた建物を眺め、人通りの少ないのを幸いに、ゆっくりと1人を楽しみ。

車ですからワインは頼みませんでしたが、アペリティーヴォに冷えた白ワインが
細いグラスに運ばれてきたので・・・、へへ。



町の北の主要な門、フリウリ門。 南にあったトレヴィザーナ門は、
かって領有していたオーストリア軍が引き上げる際に破壊。

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この門のサン・マルコのライオン君を見て、思わず吹き出しました。
何回か見ているのに、気がつかなかったのです。下にアップを!



ヴェネト各地で見る、たくさんの翼を持つライオン君。 怖い顔をしたり、
泣きそうだったり、でもね、こんな風に舌を出すアッカンベー式は始めて!!
      
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おまけに手に持つ本にはフランス語で、人と市民の、権利と義務 と
書いてあるのだそう!



フリウリ門を東の方から。 確かに20世紀の半ばまで川が流れていた事が
偲ばれますね。 フリウリ門の脇に、水辺に下りる階段があるのが見えますね。
生活にも直結していた川なのでしょう。

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古い写真を見ると、川の水位は、現在の橋下のアーチがもっと円く見える程で、
このリヴェンツァ川がヴェネツィアまで、繋がっていたのでした。



中心広場まで戻ってくると、この車。 こういう古い名車が意味するのは結婚式!

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午前中教会で式を挙げ、披露宴が始まる迄の時間を、新婚カップルは
結婚アルバムの写真撮影に使うのですね。
この車はランチャ。 大きな花束が車に置かれ、結婚アルバム用のアクセサリー。



アルバム用の写真は、カメラ店のプロに依頼しますが、この時は、カメラマン2人、
ライト用の助手が1人と本格的で、撮っても良いとOKを貰い、私めも何枚か。

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カメラマンが、 はい、こちらを向いて、彼女の手にキスして、手をつないで、
あっちに向かって歩いて、はい、キスして、じゃぁ、こちらに向かって走ってきて、
なんぞと注文をつけ、2人はそれに従ってキスしたり・・!

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カメラマンに向かって、走ったり・・! はぁい、お幸せに!!


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