先日43回目の悲しい記念日を迎えたばかりの町、1963年10月9日の夜
山崩れによるダムの出水に飲み込まれた、ロンガローネ・Longarone
をご案内致します。
山崩れによるダムの出水に飲み込まれた、ロンガローネ・Longarone
をご案内致します。
我が町コネリアーノから、北に約50キロほどの位置にあり、
今は逆に「ヴァイヨンの悲劇」で観光客が集まるロンガローネの町です。
今は逆に「ヴァイヨンの悲劇」で観光客が集まるロンガローネの町です。
1963年10月9日 時刻22時39分
銅板には、悲劇の起こった日付と時刻が刻まれています。
銅板には、悲劇の起こった日付と時刻が刻まれています。

ロンガローネの町から東を望むと、正面中央に細く山に挟まれたダムが
あるのがお分かりでしょう。
ENEL という、イタリアの電力会社(ほぼ国営)が造ったダムです。
あるのがお分かりでしょう。
ENEL という、イタリアの電力会社(ほぼ国営)が造ったダムです。

ヴァイヨン・Vaiontの渓谷を流れ下るヴァイヨン川を利用しての、
世界一高いダム、と呼ばれるものです。
このダムからこちら町に向かって下った所に、ピァーヴェ河が流れていますが、
ダムの溜まった水の中に右側の山が崩れ落ち、その勢いで跳ね上がった水は
谷を下りピァーヴェ河を越え、こちら側のロンガローネの町と、
ダムの左にあった村々を、飲み込んだのです。
これが、ダムに崩れ落ちたモンテ・トックの今の様子で、写真はガイドブック
からですが、実際に私の写した写真も同様で、

下に見える丘の様なのが、崩れ落ちてダムを埋めた土砂です。
今はこの様に、土砂にはかなりの木が生えて育っています。
これが災害前のロンガローネの村。 一番右下に少し見える白い部分が
ピァーヴェ河の河原で大変広く、村自体はかなりの高台にあります。
平和な村だった事でしょう。
ピァーヴェ河の河原で大変広く、村自体はかなりの高台にあります。
平和な村だった事でしょう。

災害直後の様子で、上の絵葉書とほぼ同じ場所からなので、
壊滅状態が一目で分ります。
壊滅状態が一目で分ります。

高い位置にあるダムから溢れた水は一気に谷を下り、ピァーヴェ河を越え、
村を飲み込んだのですね。
村を飲み込んだのですね。
1963年10月9日、夜10時39分、
家々も、教会も、すべて飲み込まれ、押し流され、死者の数は、約2000人。
一家全滅した数も少なくありません。
家々も、教会も、すべて飲み込まれ、押し流され、死者の数は、約2000人。
一家全滅した数も少なくありません。
かってはこのロンガローネよりも下流にあるベッルーノからも、筏を組み、
このピァーヴェ川を下り、ヴェネツィアにまで木材を運んだ、というのが嘘のような、
水流が細く河原ばかりが広い、現在のピアーヴェです。
このピァーヴェ川を下り、ヴェネツィアにまで木材を運んだ、というのが嘘のような、
水流が細く河原ばかりが広い、現在のピアーヴェです。

ロンガローネの町からこのピアーヴェを東に渡り、ダム側の村々に行きます。
ロンガローネの対岸の、ダム足もとの村コディッサーゴ・Codissagoという村。

製材所があり、修復された綺麗な家もあるのですが、かっての石造りの壁も
残っていて、写真は3月半ばのものですが、少し寂れた村の感じ。
コディッサーゴの村。 正面の家は災害の後、放置されたままなのでしょう。
この村はまだ生きていますが、奥の村はもっと悲惨です。
この村はまだ生きていますが、奥の村はもっと悲惨です。

同じくコディッサーゴの村。
「1963年10月9日通り」の標識があるこの家は放置されたままですね。

ダムから溢れた水は対岸のロンガローネを襲っただけでなく、
ダムの足もとの村をも攫って行きましたから、死者も多かったはずです。
村はずれの家の屋根に、立派な風見鶏。 3月半ば、山々にはまだ雪が。

ダムの建設は1957年に始まり1959年に完成、そして1960年には、
既にかなりの大きさの山崩れが。
工事が始まる前から、一帯の地盤のゆるさが指摘されていたにも拘らず着工、
そして完成後わずか4年、人災ともいえる大災害が起こりました。
この写真は6月頃。 ピァーヴェを渡ってからダムのある場所まで8キロ程あり、
しかもかなりの急坂で、ダムの右側がピァーヴェ河、ロンガローネの方角です。
しかもかなりの急坂で、ダムの右側がピァーヴェ河、ロンガローネの方角です。
ダムの上には金網が張られ、見学ができる様になっていました。

カッソ・Cassoという村。 ダムのすぐ北の山腹、ダムからちょうど200Mの高さに。

左に路傍のマリア像が見えますが、ダムの水がこの高さまで撥ね上がったそうで、
山崩れによるダムの水の騒ぎが如何に大きかったかが想像できます。
そしてこのカッソの村は、ダム災害では生き残ったものの、今村の半分は
ゴーストタウン化しています。

この辺り一帯の地盤がゆるい事は指摘されていた、と書きましたが、
この村はその後の背後の山の地崩れで、半分以上の村の家々が放置され、
歩いていても気味が悪いほどゴーストタウンなのです。
家々の建物は崩壊もしておらず残っているのですが、人が住んでいない村の
うす気味悪さ。 窓の奥に人気のない気味悪さ。
うす気味悪さ。 窓の奥に人気のない気味悪さ。
この気味悪さは、ダムからの道をもう少し奥に辿った、エルト・Ertoという村では
もっともっと、酷かった!!
もっともっと、酷かった!!
山崩れによる水流を横から受け、家々は残っているものの、
人が住めない状態になったのか、一家全滅したのか、放置されたまま。
所々の家には住人もいるのですが、夜の薄気味悪さを想像しました。
背後の高台に新しい村が出来、新しい家が並んでいるだけに、一層悲惨で。
背後の高台に新しい村が出来、新しい家が並んでいるだけに、一層悲惨で。
ロンガローネの町のかっての18世紀の教会があった場所に、
今新しいモダンな教会があり、

中には、ピァーヴェを何十キロも流され下流で見つかったマリア像や、
崩れた鐘楼の鐘、等が、亡くなった方々の名が刻まれた壁と共にあります。
崩れた鐘楼の鐘、等が、亡くなった方々の名が刻まれた壁と共にあります。
町は新しく現代的センスで造りかえられ、観光バスが、たくさんやって来ます。
帰りの汽車を待っている時、奥に見える山が夕陽を受けてバラ色になりました。
地図で確かめると、どうやらモンテ・チッタという2191mの山のよう。
地図で確かめると、どうやらモンテ・チッタという2191mの山のよう。

重苦しい気分が、少しゆるぎました。
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