今日は昨年7月にシエナから訪ねたモンテリッジョーニ・Monteriggioni
のご案内です。 丘の上に市壁に囲まれ、まるで王冠の様に見える小さな町、
ダンテの神曲、地獄編にも登場する中世の要塞の町で、そして、
ヴィア・フレンチージェナと呼ばれるローマへの古い巡礼道がここを通っていました。
のご案内です。 丘の上に市壁に囲まれ、まるで王冠の様に見える小さな町、
ダンテの神曲、地獄編にも登場する中世の要塞の町で、そして、
ヴィア・フレンチージェナと呼ばれるローマへの古い巡礼道がここを通っていました。
モンテリッジョーニ遠望。 これはガイドブックからで、シエナ郊外の宿に行くのに
フィレンツェからの国道をモンテリッジョーニで出たとたん、写真よりもっと近くの
位置から、まさに王冠のような市壁に囲まれた町が丘の上に見えました。
フィレンツェからの国道をモンテリッジョーニで出たとたん、写真よりもっと近くの
位置から、まさに王冠のような市壁に囲まれた町が丘の上に見えました。

ガイドブックで一応読んだだけで、行く計画はありませんでしたが、
姿を見たとたんにその気になり、訪れました。期待は裏切られませんでした!
地図でご覧の様に、シエナの北西15kほどに位置し、バスも1時間に1本ほど、
コッレ・ディ・ヴァル・デルザから、サン・ジミニャーノ方面行きが連絡していて、
25分もあれば到着する様子。
コッレ・ディ・ヴァル・デルザから、サン・ジミニャーノ方面行きが連絡していて、
25分もあれば到着する様子。

町の地図は、まぁ、行ってご覧になればお分かりでしょうが、必要ありません。
市壁に囲まれた、小さな小さな町です。
バスの時刻表は、先回のサン・クイリコ・ドルチャの最後にアドレスがあります。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461279240.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461279240.html
上の写真に見える丘の中ほどの位置に広い駐車場があり、そこから坂道です。
ラヴェンダーの花盛りで、香りがたち、風景がもわんと紫がかって見える程!
左に見える階段の坂を登り、左に折れて上り、また右に折れ上り・・、
はい、海抜200mの町です。
左に見える階段の坂を登り、左に折れて上り、また右に折れ上り・・、
はい、海抜200mの町です。

ラヴェンダーの花に、薄緑色の蝶がひらひらと。

やっと、市壁が見えてきました。 壁の高さは20m、その上に塔が6,5mと
ありますが、土地の高さによりかなり変化があるものと、思われます。
ありますが、土地の高さによりかなり変化があるものと、思われます。

この塔が14ある塔のうちの1つで、15塔と書いてあるのもありますが、
実際に現在見えるものは11で、他は、壁の高さに削られているそう。
手前に見える木はオリーヴで、あちこちから蝉の声が聞こえましたが
姿は見つからず、蝉の抜け殻を1つだけ写真に。
姿は見つからず、蝉の抜け殻を1つだけ写真に。
手前に少し見える道を右に辿ると・・、
この門が町の2つある門のうちの1つ、シエナに続くフランカ・エ・ロメーア門・
Porta Franca e Romea. 町の東側の門になります。
Porta Franca e Romea. 町の東側の門になります。

門の左上に石碑が見えますが、1213年にシエナのポデスタ・執政長官の
命により、この地に村と壁が築かれた事がラテン語で書かれているそう。
それ以前には、この地にロンゴバルド出身の貴族の農園があったようですが、
それを買い取り、フィレンツェに対する護り、駐屯地としての町の起こりです。
それを買い取り、フィレンツェに対する護り、駐屯地としての町の起こりです。
壁の厚みは2mで、跳ね橋はありませんが、イザという時には、上から鉄の門が
降りる仕掛けとか。
降りる仕掛けとか。
実際この市壁は以後300年間にわたり、シエナ共和国を対フィレンツェから
護ったのでした。 落ちたのは、裏切りからだったとか・・。
で、この門を入ると・・、
細長く広がるローマ広場・Piazza Roma。
今右端にちょっと見える井戸が広場の真ん中に当ります。
今右端にちょっと見える井戸が広場の真ん中に当ります。

この広場を古い時代からの主要な建物が取り囲んでいるわけですが、
この広場も戦後に石が敷き詰められる迄は、ずっと土のままだったそう。
イザという時の籠城戦に控え、野菜畑にもなるようにとの名残だそうで、
現在も壁の内側には庭と野菜畑が、建物を取り囲んでいます。
ローマ広場を囲む建物群の南側半分。 いかにも、歴史を経た建物の壁です。
壁の縁の下側が厚くなっているのをご覧下さいね。 時々見かける古い建設技術と
思いますが、壁を支えるのに下部分を厚くしてあるのですね。

建物の左側の小路を入っていくと・・、
こんな小路のお土産物屋さん。写真に見えるようなスーヴェニールとか、
土地のワイン、オリーヴ油の店も。

上で見て頂いた写真の、建物の右半分。 こちらもみやげ物兼土地の物品店。

サイトで面白い数字を見つけましたので、ここに。
市壁内の現在の住民は42人、建物群は、住民の住居と、バールが2軒、
1軒の食料品店、レストランが2軒、土産物店1軒、薬草品店1軒、ホテル1軒、
土地の物産品店1軒。
市壁内の現在の住民は42人、建物群は、住民の住居と、バールが2軒、
1軒の食料品店、レストランが2軒、土産物店1軒、薬草品店1軒、ホテル1軒、
土地の物産品店1軒。
以上で全部ですが、この数字以降町の様子も変わっている様で、
土産物店数、バールなどに訂正が必要かも。
土産物店数、バールなどに訂正が必要かも。
広場にある教会、ゴシック・ロマネスク様式のサンタ・マリア・アッスンタ教会。

創設は1219年とありますから、この要塞の村が出来てすぐ教会もできた事になり、
素朴で、石の色の混ざり具合が美しいですねぇ。
教会の祭壇部分。 十字架のキリスト像、黄金背景の祭壇画は15世紀の物。

涼しげな陰を作るレストランの席。 食欲が弾みそうです。

広場からだらだらと道を下ると、町のもうひとつの門、北西側に位置する
サン・ジョヴァンニ門・Porta San Givanni、フィレンツェに向かう門です。

こちら側は、当時のシエナ共和国の敵国フィレンツェに向かっているわけで、
丘の斜面に接し、門の外側の右に少し見える様に跳ね橋が下りる仕掛けで、
もう一つ外に門がある仕掛けだったかも、と。
市壁の左上に少し見えるのが、城壁の内側を巡る道で、
この様に、上って見れます。

シエナ側の門の脇にも上がれる部分があるのが、お昼を食べている間に閉じられ、
あれま!と思っていましたが、こちらは、無料で上れました!
が、いつも無料かどうかは、保障いたしませんです、はい。
ご覧のように、市壁の上はかって歩哨が、常時ぐるりと警護していたわけで、
こうして見ると、様子が想像できますね。
こうして見ると、様子が想像できますね。
町の直径は172m、市壁の長さは570m、塔の高さは15mにも達したそう。
ダンテはこの市壁に大変強い印象を受けたようで、神曲の地獄編31章 巨人の穴
に、王冠を戴いたように、塔に囲まれたモンテリッジョーニ、と、詠っているそう。
に、王冠を戴いたように、塔に囲まれたモンテリッジョーニ、と、詠っているそう。
町では、毎年7月に中世のお祭りが行われるようで、少額の席代が必要ですが、
町のサイトをどうぞ。 英語版もあります。
http://www.monteriggionimedievale.com/index.html
町のサイトをどうぞ。 英語版もあります。
http://www.monteriggionimedievale.com/index.html
市壁の上から身を乗り出し、丘の下を。
う~ん、壁の厚みが広く、なかなか角度が上手く決められないのですが、
上に乗る程の勇気も無く・・。
う~ん、壁の厚みが広く、なかなか角度が上手く決められないのですが、
上に乗る程の勇気も無く・・。
大きな農家の向こうには、広々と平野が広がっていました。

追記:所でこの家の持ち主が、意外な持ち主が、はい、ひょんな事から分かり、
その様子をこちらに書きましたのでどうぞ。
市壁の上から、広場に続く道を振り返り。 奥に見える塔が、シエナ側への門。
塔の裏側がどうなっているのか、分かりますね。

こちらも市壁の上から町の裏通りを。 はい、厳密に言うと町の通りは2本のみ!

ここでも、手前の高い建物の壁の下部分が、少しせり出しているのが見えますね。
サン・ジョヴァンニ門からちょっと外に。
こちら側はフィレンツェに向き、丘の下り斜面でもあり、まさに高い市壁です。

市壁の周囲を歩いて回れる様ですが、まぁ、突撃作戦を練る必要はないので、ははは。
門の内側の小広場に、吸水塔と見られる円柱があり、その蛇口が可愛らしく。

裏通りを歩きます。 この辺り町の歴史においても一番古い建物群のようで、
広場の写真でご覧戴いた建物群の裏になります。
広場の写真でご覧戴いた建物群の裏になります。

家並みが低いですね、歩いている観光客と比較を。
まさに中世のまま、時が止まり・・。
1階部分の窓の位置が少し高く、小さく、天井がやはり少し低いでしょうか。

石の壁が何とも味があり、いい色です。 で、この建物の上部分が・・、

これが上の写真の建物上部。

ここには標識があり、マッテオッティの塔・Torre Matteottiと呼ばれる、
この町で最も古いと見られる建物だそう。 記録には無いものの、
窓の枠取りとか、入り口が同じ石だとかで識別できるそう。
モンテリッジョーニの町は、ダンテの詩と、「フランチージェナの道」を
町の看板としていますが、シエナ側の門の入り口にこの標識がありました。

イギリスはカンタベリーからのローマへの巡礼道がある事は、知っていましたが、
この町で図らずも、しっかり出会い・・。
借金をすべて払い、
息子たちに別れを告げ、
女房にも言い含めたら、
さぁ、出かけよう!
息子たちに別れを告げ、
女房にも言い含めたら、
さぁ、出かけよう!
こちらに来てすぐの頃、TVでこの巡礼道を辿る放送があったのですね。
その時のこの言葉が私の頭の中にしっかり定着し、折に触れ浮かび・・、
今回、こうして出会えて嬉しかったです。
その時のこの言葉が私の頭の中にしっかり定着し、折に触れ浮かび・・、
今回、こうして出会えて嬉しかったです。
この地図で見ると、モンテリッジョーニから、カンタベリーまで1722km、
そしてローマへは285kmで、計2007km。
そしてローマへは285kmで、計2007km。
ですが、もう一つの数字もあります。
中世において、ジェルサレム、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ、
そしてローマが3大巡礼地であったわけですが、
そしてローマが3大巡礼地であったわけですが、

990年、カンタベリーの大司教シジェーリコがローマに参拝、その戻り道の様子を
休憩地も含め、毎日記録に残し、これが巡礼達にとっての当時の格好の
ガイドブックとなり、ヴィア・フレンチージェナ・Via Francigenaと呼ばれた様子。
本によっては、フランク街道と記しているのもあります。
休憩地も含め、毎日記録に残し、これが巡礼達にとっての当時の格好の
ガイドブックとなり、ヴィア・フレンチージェナ・Via Francigenaと呼ばれた様子。
本によっては、フランク街道と記しているのもあります。
彼の辿った道は、1600kの行程を79泊で、一日の行程は約20k。
カンタベリーからドーヴァー海峡を渡り、フランスを縦断、アルプス越えは
サン・ベルナルド峠で、イタリア内での宿泊は48泊。
カンタベリーからドーヴァー海峡を渡り、フランスを縦断、アルプス越えは
サン・ベルナルド峠で、イタリア内での宿泊は48泊。
この行程距離はかなり短めですが、体力に応じ、その時代の情勢に応じ、
変化したのでしょうね。
変化したのでしょうね。
一日の行程が約20kというと短い気もしますが、
今の道路事情と違いますし、毎日悪路を歩くわけですね。
先回の、サン・クイリコ・ドルチャでご紹介した13世紀の病院跡、巡礼宿泊所も、
やはり20kmおきに設置されていたそうです。
今の道路事情と違いますし、毎日悪路を歩くわけですね。
先回の、サン・クイリコ・ドルチャでご紹介した13世紀の病院跡、巡礼宿泊所も、
やはり20kmおきに設置されていたそうです。
このフランチージェナの巡礼道は、1994年にヨーロッパの文化行程として
改めて認められ、有名なスペインの、サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼道と
ローマの参拝を終えた巡礼たちはブリンディシ迄下り、この地はシルクロードの
終点地ですが、そこで船を待ち、ジェルサレムに向かった巡礼もいたと。
なんとまぁ、遥々の旅を続けた事でしょうか!
中世の徒歩巡礼に想いを馳せるとき、いかにも自分の存在が小さく感じられます。
せめて風に吹かれ、丘の向こうの地平線を眺めに、出かけましょうか?!
せめて風に吹かれ、丘の向こうの地平線を眺めに、出かけましょうか?!
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