・ n.2 パルマの城 ソラーニャ、 そして トッレキアーラの城

先回に続きましてパルマの城その2をご覧頂きますが、城の内部は写真禁止、
おまけにとても寒い曇天の日で、町の様子も見ずに皆とバールに引き篭もり!
・・という訳で、はは、

パルマ周辺でshinkaiが一番見たいと思っている城・要塞、
美しくもまた素敵な逸話もあるトッレキアーラの城を一緒にご覧下さいね。
      
当サイト名が無い写真はすべてネットから拝借のもので、

トップは最初にご案内のソラーニャ・Soragnaにある
メリ・ルーピの要塞・Rocca Meli Lupi の上空からのもの。

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ご覧になり良くお分かりと思いますが、まさに城のお膝もとの小さな町、という感じ。
 
先々回にご案内したパルミジャーノ・チーズの博物館は、写真左上にあり、
鍵の手に曲がって来て、町の入り口は城からまっすぐの正面突き当たりになります。
城の背後、そして右手上に見える広大な庭は、依然城の持ち主の物。



こちらが町の入り口、突き当たりに城の入り口が見え、
写真手前の道を左に曲がっていくと、パルミジャーノの博物館。

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町の中心の通りと城の入り口で、城前両脇にライオン像が見えますね。

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こちらが左側のライオン君で、ははは、あちこちで色々なライオンを見ていますが、
こんなに鼻を上に向け顔が見えない、というのは初めて!

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あ、右側のは多少上を向いていますが、まぁ、顔が見えます、はい。       



上から見ると四角い城館なのが良く分かり、正式名のソラーニャの
メリ・ルーピの要塞という名に相応しい塔も何もありません。
正面から堀にかかる石橋を渡って中に入りますが、かっては水堀だったものと。、

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こちらが正面右横の堀の部分で、奥の庭園に繋がるものと・・。

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正面入り口から、中の内庭部分、素敵な雰囲気でしょう?!

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内庭に立つ彫像、これは美術の女神ですね。
季節が良くなり蔦が緑になる頃、そして秋の紅葉時には、さぞ見事な事でしょう!

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入り口から見る、天井の装飾。 そうなんだ、これも蔦の葉ですね!

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内部の階段を上り、

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こんな風に、上階の見学が始まったのでしたが、

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ちょっぴりこの城・要塞についてですが、
1385年、一帯の領主だった侯爵ルーピ家が要塞を建設、
後17世紀の末に、貴族の居城として改修されたのだそう。

名にあるメーリ家というのは16世紀初めに、ルーピ家の当主が跡継ぎが無く、
曾孫に当るクレモーナの著名家、ヴェネツィアの貴族でもあったメーリ家の
ジャンパオロ1世を跡継ぎに指名したのだそうで、
現在もこの一族がこの城の持ち主で、一廓にお住まいです。
     
  
城はかって堀に囲まれていた様子で、四角い城館の四隅に塔もあったと
言いますが、現在見る内部装飾も完全に豪奢なロココ調となっていて、
かなり広く明るく、・・ご覧下さいませませ。

ヘラクレスの間(Sala d'Ercole、または黄色の間)

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上は説明から部屋の名が分ったのですが、へへへ、これは分りません・・。

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こちらは舞踏室。 上部角の像を見て、shinkaiはなぜか五月人形の
鍾馗様を思い出し・・、ははは。
 
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名の付いた廊下があれこれある様子で、
我々が見たのはこれよりも幅の広い廊下だったですが・・、

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究極は、このきんきらきんきんの玉座の間・Sala del trono.

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つまりこのメリ・ルーピの当主は侯爵でもあったのですが、同時に
神聖ローマ帝国皇帝から「プリンス・公、君主」のタイトルも受けており、
それでこういう玉座も設けていたのでしょう。

ですが、各地で見た玉座の間でもこれ程のきんきらきんは珍しく、正直に言いますと
成金趣味的センスを思いましたです、はい。

他にもたくさんのコレクションの部屋、多くの陶器の壷やお皿もあり、ガイドさんは
日本と中国の陶器と説明されたのですが、どう見ても中国製、年代から考えても
中国製と思えるものとか、そして家の礼拝堂など、さまざまがありましたです。



やれやれと見学を終え階下に下って来た時に脇に見えた、これもコレクションの部屋
でしょうが、年代ものの自転車が見え、こんな方が素敵ですよねぇ! 

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城から出ての町の通り道、まだ新しい自転車が止まっており、

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これはついでに。 先に見たフォンタネッラートの城前の眼鏡屋さんのウインドウの
豚ちゃん。 パルマは生ハムでも有名ですから良いのかもですが、
眼鏡屋さんのウインドウに、化粧ばっちりの豚ちゃんというのが、ははは。

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寒い日で、足のつま先が凍えると皆がこぼしまし、お昼の後一目散にバールに行き、
今またお城からすぐ前のバールに皆が溜まりまして、ははは、
「プンチ」とこちらでは呼ぶ、オレンジ風味のラム酒に熱湯を注いだ、寒さよけの
熱い飲み物をすすりつつ、お菓子も食べ・・。

そのバールにあったモカ・家庭用カフェ沸かしのコレクション。

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上から2段目右側に見える、注ぎ口が下を向いているのはナポリ式、
緑色のは新しく出ているものでアルプス兵の羽根の付いた帽子の形で、



その右の方に蓋の青いのが見えるのが、これ。
中がプレゼーピオの、キリスト誕生場面になっていて、
蓋の内側には星空で、ちゃんとレースの飾りも付いた可愛らしさ!

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ここで、ルイーザが半分以上残っていたプンチを、shinkai、全部飲んでいいよ、
お菓子も食べて、というので、はぁ、残すのは勿体ないのでしっかり片付けまして、
体もホカホカとなり、帰りのバスの中でぐっすりとなりましたぁ。



所で、バールの横にあったのがこれ、
Oltre...・オルトゥレ と見えますね。 向こうに~ の意味で、
下にOnoranze Funebri・つまり葬儀社でして、24時間営業とあり、皆で大笑い! 

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葬儀社の場合、XX葬儀社という名が一般ですが、初めて別の名をつけた店をね。



という所で皆さんにも、はるか向こうに想いを馳せて頂きましょう。

もう一度、パルマ一帯の城・要塞の地図をどうぞ。
四角く囲ったソラーニャとフォンタネッラートはご案内した分で、
下線を引いたトッレキアーラ・Torrechiaraがいつかみたい城!

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別に線を引いたもう2つ、ロッカビアンカ・Roccabiancaと
サン・セコンド・San Secondoの地名もご記憶に。
      
と言うのも、今回憧れのトッレキアーラの城に関するロマンチックな男の純情
みたいなお話を、ははは、ゴシップ大好きshinkaiがサイトを読み写真も集め、
ここで薀蓄を傾けて、ははは、ご紹介しようと言う訳で、
よろしくお付き合い願いま~す。


トッレキアーラの城について知ったのは、米映画「レディー・ホーク」が先で、映画には
3つの城が登場、使われておりました。 映画の出来は一流とは言えませんが、ははは、
中世好きなshinkaiには、日本から見る憧れの中世の城でして、こちらに来て後、
偶然に旅行雑誌の写真から、あれは「トッレキアーラの城だった」と知った訳です。
       
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映画に登場するもう一つの城はソンチーノ・Soncinoにあり、こちらでご案内を。 
その1と2で、2にはトッレキアーラの城についても。
そしてもう一つはアブルッツォの山中にある、半ば廃墟の城です。



今回初めてこの写真、上空からの姿も見つけたのですが、
実戦的な城でありながら、素晴らしく美しいでしょう?!

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中心になる右側の四角い城郭から左に飛び出すテラス2つ!
15世紀に建造された実戦用の城に、誰がこんな物をつけたのか?!



この「金の寝室」と呼ばれるのが、特に有名な部屋なのですが、壁を埋める陶板が
真ん中に2つハートを重ねたもので、はぁ、かっては金色に塗られていたのだそう。

上の壁には、それぞれ貴婦人の前に跪く騎士が描かれており、

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この両側に立つお二人がこの城の主人公で、何世紀後のshinkaiにもブログの
話題を提供してくれる、ははは、

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左の騎士がピエール・マリーア2世・デ・ロッシ・Pier Maria II de' Rossi(1413-1482) 
普通ピエール・マリーア・ロッシとも呼ばれ、
右が彼の純愛を受けた愛人ビアンカ・ペッレグリーニ・Bianca Pellegrini(1417-1480頃)

ピエール・マリーア・ロッシは、マニーフィコ・Magnifico・見事な、素晴らしいという
ニックネームを持つほどの男。
ミラノのヴィスコンティ家との繋がりが深い事から、文武の教育に送り込まれ、
文学、音楽、数学、天文学、そしてフランス語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語、
果てはアラブ語、ヘブライ語まで学び、武術に関しては言うまでもなく優秀で、
ヴィスコンティ家の傭兵隊長を勤める程に。
       
14世紀からサン・セコンドの地に頭角を現したデ・ロッシ家ですが、彼の働きで領地が広がり、
15歳で結婚した隣接する家柄のアントーニア・トレッリ・Antonia Torelliとの間に
10人の子を儲け!ますが、(男児7人、女児3人)

1440年頃ミラノの宮廷で、多分ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、ヴィスコンティ家最後の
血筋でフランチェスコ・スフォルツァの妻、のお付のビアンカ・ペッレグリーニと知り合い、
我を忘れ熱狂的に愛するように!  はい、そう来ませんとね。

ビアンカは既に既婚女性だったようですが、ピエール・マリーア27歳、ビアンカ23歳、
パルマの地に帰る彼に、彼女は従い・・。

所でピエール・マリーアの妻アントーニアは、出来すぎた妻と言うか、夫が愛人を連れ帰り、
彼女の為に夢中になってロッカビアンカ・Roccabiancaの城建設を始めると、
自分は修道院に身を引きと・・、本当だったんだろうか?! これは少し可哀相・・。
1468年に亡くなりますが、愛人達は結婚せずに終わります。

所でロッカビアンカの要塞のある地名ですが、元々は別の名だったのが、ビアンカに
捧げる城を造った事から、ロッカビアンカと呼ばれる事になったのだそうでして・・!

さてお話はトッレキアーラの城に戻りまして、ロッカビアンカの次に、彼は
少し離れた地に、1448年から1460年の間にトッレキアーラの城の建設を。
こうした2人の愛の巣に相応しい、実戦用の要塞でありながら、
大きなテラスを2つも持った、なんとも美しい城の姿でして、
       

上で見て頂いた「金の寝室」の天井は、こういう装飾のフレスコ画で、

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ピエール・マリーアは27もの城・要塞を持っていたそうで、それをビアンカが
巡礼して回る、彼女の姓のペッレグリーニは巡礼者の意味ですよってね、はい、
という図柄になっているのだそう。  あ~あ!



城の中は後の時代の、素晴らしいグロテスク装飾の部屋もいくつかあるようで、

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これは古い時代の、彼らの時の物かも知れないと思える、小鳥達が飛び交う
テラスの屋根の図柄。

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お2人は、ビアンカが1480年に63歳で、ピエール・マリーアは1482年に69歳で
共にこの城で亡くなり、城の礼拝堂に埋葬されているという事で、
中世の世に起こった、お互いの愛を全うしたとも言えるお話なのでした。

思うのは、イタリア男の純真さというのか、まっすぐさというのか、自分が愛する女への
愛情を隠しませんね。 それどころか誇示する所もあるようで、

シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ、リミニの狼と呼ばれ、極悪人と呼ばれた男でも、
自分が愛したイゾッタとの2人のイニシャルを重ねた印を至る所に残したり・・。


サン・セコンドのデ・ロッシ家は、その後一時の衰退もあったものの約5世紀間継続し、
19世紀に後継者無く消滅。

このトッレキアーラの城はその後所有者が変わりながらも健在で、
イタリアの城塞建造物の中でも大変よく保存されているものだそうで、
1911年から国の記念建造物となり、一般公開中。

見学時間 
11月から2月 火~金曜 9時から16時半  土、日、祭日10時から17時
3月から10月 火、日、祭日 10時半から19時半  水、土 8時半から19時半
月曜休館


白く雪化粧した美しい城と、

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霧に浮かぶ城に、中世の愛人達を想い・・・。

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お付き合い、有難うございました!
       
 
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