先回からのパドヴァのご案内の続きですが、
「グアリエントとパドヴァのカッラレーゼ家」展覧会の様子と共に、
「グアリエントとパドヴァのカッラレーゼ家」展覧会の様子と共に、
街中心部の歴史ある古い建物や、それにまつわる興味深い面白い話も
見つけましたので、ごゆっくりお付き合い下さいね。
今日はまず、14世紀にパドヴァで活躍した画家、
「天使たちの巨匠・Maestro degli Angeli」と呼ばれる
グアリエント・Guarienntoの展覧会の様子をほんの少し。
「天使たちの巨匠・Maestro degli Angeli」と呼ばれる
グアリエント・Guarienntoの展覧会の様子をほんの少し。

写真は、彼の絵・テンペラ画やフレスコ画が集められたグアリエント展の
主会場モンテ・ディ・ピエタ宮の入り口。
これはドゥオーモ広場に面した、かってのパドヴァ領主カッラーラ家の
豪邸の一部が改装された物だそう。
展覧会にはグアリエントの作品だけでなく、彼以前にパドヴァで活躍した
ジョット・Giottoのテンペラ画「玉座の神・Dio Padre in trono」も。

ジョットが、パドヴァのスクロヴェンニ礼拝堂に1303~05年に、一連のフレスコ画を
描いているのは、よくご存じですね。
この作品は彼の最高傑作の一つとされ、後の画家達に大きな影響を与えましたが、
その中に先回ご紹介した洗礼堂のフレスコ画を描いたメナブオーイや、
このグアリエント等がいたわけです。
描いているのは、よくご存じですね。
この作品は彼の最高傑作の一つとされ、後の画家達に大きな影響を与えましたが、
その中に先回ご紹介した洗礼堂のフレスコ画を描いたメナブオーイや、
このグアリエント等がいたわけです。
つまり1300年代に、繁栄する街パドヴァに芸術家たちが呼ばれ集まり、
カッラーラ家の庇護の元、この街は「文化の一大黄金期・Secolo d'oro」
を迎えたという訳です。
カッラーラ家の庇護の元、この街は「文化の一大黄金期・Secolo d'oro」
を迎えたという訳です。
天使たちの巨匠と呼ばれるグアリエントの、一連のテンペラ画。

これらは、カッラーラ家の、今はない屋敷内の礼拝堂の為に1357年頃
描かれたもので、大きさは57x80cm. たくさん展示がありましたが省略し。
描かれたもので、大きさは57x80cm. たくさん展示がありましたが省略し。
グアリエント・ディ・アールポ・Guariento di Arpo という画家、
生年も生まれ場所も記録が無く、アールポというのも生地の名ではなく、
多分父親の名前だろうといい、
パードヴァの東南20km程にあるピオーヴェ・ディ・サッコ・Piove di sacco
に1310年頃に生まれ、1370年没。
生年も生まれ場所も記録が無く、アールポというのも生地の名ではなく、
多分父親の名前だろうといい、
パードヴァの東南20km程にあるピオーヴェ・ディ・サッコ・Piove di sacco
に1310年頃に生まれ、1370年没。
彼の名は、カッラーラ家の仕事を受けた1338年から記録にあり、
1367年までの約30年間パドヴァやヴェネツィアで活躍。
1367年までの約30年間パドヴァやヴェネツィアで活躍。
天使というと、可愛い子供の顔で翼を持った、というイメージですが、
天使の中にも戦う天使、守護する天使、徳の天使などなどいるのだそうで、
・・この辺りのご説明はパスさせて頂き・・、はは、

この様な大きなテンペラ画もあり、
グアリエントの描く天使たちは、衣装の優美さ、翼の色の素晴らしさなどで
評判を取ったと。
評判を取ったと。
ビザンチン、ゴシック様式の固い表現から抜け出す様な、
どこか物憂げなキリストの眼差し。

焦点の定まらない様な眼差しは、天使達の表情にも見られ、印象に残りました。
彼はパドヴァのみならず、ヴェネツィアでも活躍、ドゥカーレ宮の大評議会室に
25mにもわたる大きなフレスコ画も描いており、これは1577年の火事で損傷を
受け、現在はその上にティントレットによる同じ主題「天国」の大作、
こちらは油絵があります。
その破損したフレスコ画の一部も展示され、後に続くヴェネツィア派の
画家たちの作品もありました。
25mにもわたる大きなフレスコ画も描いており、これは1577年の火事で損傷を
受け、現在はその上にティントレットによる同じ主題「天国」の大作、
こちらは油絵があります。
その破損したフレスコ画の一部も展示され、後に続くヴェネツィア派の
画家たちの作品もありました。
これは会場のモンテ・ディ・ピエタの入り口、ポルティコに残る壁画。

モンテ・ディ・ピエタというのは公営質店ですが、この建物がその目的に使われ
始めたのは16世紀と言い、この壁画はもう少し後の時代の様ですが、
人々が品物を担いだり持ったりし、右の台の上でお金を数えている様子も。
始めたのは16世紀と言い、この壁画はもう少し後の時代の様ですが、
人々が品物を担いだり持ったりし、右の台の上でお金を数えている様子も。
つまりモンテ・ディ・ピエタ・公営質店は、そう、今と同じ抵当貸し。
質種、これは貸りたい金額の3分の1以上の値打がある物である必要があり、
質に置いておける期間は1年、返さないと競りで売り払われたそう。
質種、これは貸りたい金額の3分の1以上の値打がある物である必要があり、
質に置いておける期間は1年、返さないと競りで売り払われたそう。
左上部に僧が見えるのは、フランチェスコ会派の僧と見られ、つまり彼らが
ユダヤ人による、イタリア人もいましたが、高利貸しを阻止する目的で、
15世紀末から始めたのを示します。
ユダヤ人による、イタリア人もいましたが、高利貸しを阻止する目的で、
15世紀末から始めたのを示します。
こうしたモンテ・ディ・ピエタ・抵当貸しがあったのは都市部で、
ついでに言いますと、質種を持たない程の貧乏な農民たちには
モンテ・フルメンターリオ・Monte frumentarioというのが同時期に出来、
長く存在しました。
ついでに言いますと、質種を持たない程の貧乏な農民たちには
モンテ・フルメンターリオ・Monte frumentarioというのが同時期に出来、
長く存在しました。
フルメント、つまり小麦や大麦の種もみを貸出したのです。
貧しさの余り、作付すべき種もみも食べざるを得なかった農民たちに、
種を貸したのですね。
その代償として、農民たちは無料で畑で働き、その畑の収穫物が貸付分ともなり、
過剰分はお金に換えられモンテ・ディ・ピエタに!
貧しさの余り、作付すべき種もみも食べざるを得なかった農民たちに、
種を貸したのですね。
その代償として、農民たちは無料で畑で働き、その畑の収穫物が貸付分ともなり、
過剰分はお金に換えられモンテ・ディ・ピエタに!
こういう構造があった事を知ったのは、ウンブリアのノルチャでかっての建物・
現ホテルを見てですが、貧しさの余り、作付けの種モミまで、というのを読み、
悲し、背筋が寒くなったのを覚えています。
そして日本のお百姓や、かっての民衆の厳しい貧しさも想いだしました。
現ホテルを見てですが、貧しさの余り、作付けの種モミまで、というのを読み、
悲し、背筋が寒くなったのを覚えています。
そして日本のお百姓や、かっての民衆の厳しい貧しさも想いだしました。
さて青空の下でお昼を食べ、元気回復、中心部に向かいます。

ポルティコの続く狭い道を往きながら、左右をきょろきょろ。

お昼休みのパン屋さんの店先を覗いたり、そうか、ナポリであの店が美味しいと
聞いたスフォリアテッレ・sfogliatelleというのはこれか、と納得したり、
聞いたスフォリアテッレ・sfogliatelleというのはこれか、と納得したり、

横道の、如何にも中世のポルティコを眺め、

街灯も写し・・、

広場に出る前の建物の下の、このポルティコはかなり見事。
それもその筈、どうやら由緒ある建物だったようで・・。
それもその筈、どうやら由緒ある建物だったようで・・。

こちらがラジョーネ宮・Palazzo della Ragione、
既に2度訪問しておりますが、再訪はいつも嬉しく!


手前のピアッツァ・デッレ・エルべには野菜市が立ち並びますが、
お昼を過ぎた今は片づけの真っ最中。
お昼を過ぎた今は片づけの真っ最中。

古いラジョーネ宮が描かれた図の展示もあり、外側に張り出すロッジャは
後世の建て増しと知りました。
ラジョーネ宮の1階部には各種食料品店が並びますが、
北と南の広場には、新鮮な青物果物の屋台店やバールが。
北と南の広場には、新鮮な青物果物の屋台店やバールが。
片づけのドサクサにまぎれ、志で残されたズッキーニの箱に鳩達が群がり・・。

一緒したジュリアーナは下で待つというので、1人で写真を撮りに
2階のサローネ・Saloneに。
2階のサローネ・Saloneに。

階段を上ると、こんな風にロッジャが続き、一瞬にして受ける鮮やかな印象は
最初の訪問の大昔も今も変わらず、
最初の訪問の大昔も今も変わらず、

この大きな薄暗い部屋に入ると、その広さにも、再び新鮮な驚きを。
広さも凄いですが、取り囲むフレスコ画から受ける印象も素晴らしく!
広さも凄いですが、取り囲むフレスコ画から受ける印象も素晴らしく!

普通サローネ・Il Salone・大広間と単純に呼ばれるそうで、これ程の
大きさの広間はイタリアでも有数の物。
大きさの広間はイタリアでも有数の物。
1218年から建設されたそうですが、当時は屋根部分が無く、
2階部分にこの大きさのテラスの広間というのは世界唯一だったそうで、
屋根がかけられたのは1306年。
上は東寄りにある入り口から入って見る西側の様子で、
こちらは中程から東側を。 なんとなし正確な長方形を想像してましたが、
こうして見ると、少し歪でしょ?

確かに少し歪んでいるのが衛星からの写真でも良く分かるそうで、
この細長い形になっているのは、元々両脇を運河が流れていた為の制限から
だろうとの事で、当時から両方の広場は街の中心として賑わっていた場所と。
だろうとの事で、当時から両方の広場は街の中心として賑わっていた場所と。
長さは81m、幅27、天井までの高さは約40m!
天井部はカラマツの木による船底形で、その上から鉛板で葺いていると。
天井部はカラマツの木による船底形で、その上から鉛板で葺いていると。
写真奥に入り口が見えますね、あれは現在の市役所に繋がる部分で、
ラジョーネ宮の東横を抜ける通りの上にアーチがかかりますが、
ここも後ほどご説明を。
ラジョーネ宮の東横を抜ける通りの上にアーチがかかりますが、
ここも後ほどご説明を。
周囲を取り巻くフレスコ画、様々な占星術に関する物、その影響を及ぼす物が
主題だそうで、現在のこれは1425~40年に描かれたもの。


想像上の動物達も見えますが、人物が何か治療を受けている様子も。

このサローネのフレスコ画は、最初にジョットが1306年以降に描いたと
言われますが、これは1420年の火事で失われており、残念!
現在残るのは、その後直ぐ修復された建物に同じ主題で描かれているそうで、
約500の場面と。
それらの主題の元は、当時のパドヴァ大で教えてもいた著名な医者、数学者、
哲学者、天文学者のピエトロ・ダーバノ・Pietro d'Abano(1257-1316/17)
が授けたと言われますが、
彼は異端の罪に3度問われ、2度は無罪になったものの3度目の獄中で受けた
拷問で亡くなり、その遺骸は火刑になったと。
日本版ウィキペディアには、友人達が遺骸を隠したために、
代わりに藁の人形が火刑に付されたとありましたが、さて・・。
哲学者、天文学者のピエトロ・ダーバノ・Pietro d'Abano(1257-1316/17)
が授けたと言われますが、
彼は異端の罪に3度問われ、2度は無罪になったものの3度目の獄中で受けた
拷問で亡くなり、その遺骸は火刑になったと。
日本版ウィキペディアには、友人達が遺骸を隠したために、
代わりに藁の人形が火刑に付されたとありましたが、さて・・。
幾つもの有翼のライオン、ヴェネツィア共和国のシンボルも見えますが、
1405年にパドヴァは遂にセレニッシマの元に下りましたので・・。
1405年にパドヴァは遂にセレニッシマの元に下りましたので・・。
このサローネでは時々各種展示会や催しが行われますので、以前行った時は
この様に広々とは見れませんで、
この様に広々とは見れませんで、
この巨大な木製の馬の像も今回ゆっくりと眺め、

この馬の像はよく似ている事から、サンタントーニオ聖堂前のドナテッロ作の
ガッタメラータ将軍騎馬像の馬とされるそうですが、
ガッタメラータ将軍騎馬像の馬とされるそうですが、
実際はそうでなく、パドヴァ市のサイトによると、
1466年にお祭りか騎馬戦の催しに作られたもので、そのカーポディリスタ家・
Capodilistaから、1837年に市に贈られたものだそう。
近くで見ると、如何にも大きく、立派な出来ですねぇ!
もう1度サローネの、素朴で厳格な美しさを持つ、素敵な広さをどうぞ!

最後に、入り口脇にあるという、黒い斑石ヴィトゥペーリオの石の事を。
私はこれを書く為に読んでいて知ったので、全く残念な事に見ておらず、
次への宿題となりましたが、
例により好奇心にかられ、・・かられる様な事なのでして、ははは、
あれこれ読んで回りましたので、ここに。
次への宿題となりましたが、
例により好奇心にかられ、・・かられる様な事なのでして、ははは、
あれこれ読んで回りましたので、ここに。
つまりこの黒い斑岩、丸い真ん中に穴のあいた石、かってはこれを首につけ、
川に投げ込み水死させる刑に使われた石だそうですが、
川に投げ込み水死させる刑に使われた石だそうですが、
ここでは負債支払い不能者や破産者に対する罰に使われた
ヴィトゥペーリオの石・La pietra del Vituperio.
ヴィトゥペーリオの石・La pietra del Vituperio.
ヴィトゥペーリオというのは、侮辱とか、悪口雑言、罵りの意味で、支払い不能者
や破産者への罰として、牢に長く繋ぐとか、ロープの刑、・これはまた明日、はは、
の代わりに、1231年に司祭アントニオが提案したもので、
や破産者への罰として、牢に長く繋ぐとか、ロープの刑、・これはまた明日、はは、
の代わりに、1231年に司祭アントニオが提案したもので、
下着とパンツだけになってこの石に座り、少なくとも100人もの見物人の前で、
チェード・ボーニス・財産を放棄します、と3度宣言しなければならない、
という刑に使われた石なのだそう。
座るのが3度なのか、または3日と書いてあるのもありまして・・。
でその後街を一度離れ、出直しをせねばならなかったそうで、それも負債を
受けた側の承認を受けない内に戻ると、再び石に座らされ、
おまけにバケツの水を3杯浴びせられたのだそう!
チェード・ボーニス・財産を放棄します、と3度宣言しなければならない、
という刑に使われた石なのだそう。
座るのが3度なのか、または3日と書いてあるのもありまして・・。
でその後街を一度離れ、出直しをせねばならなかったそうで、それも負債を
受けた側の承認を受けない内に戻ると、再び石に座らされ、
おまけにバケツの水を3杯浴びせられたのだそう!
何世紀間もこの石はサローネの中央にあったのだそうですが、現在は
入り口脇に置かれているそうですから、これから行かれる方、
何となくユーモラスなこの刑罰の石を、ご覧になるのをお忘れなく!
入り口脇に置かれているそうですから、これから行かれる方、
何となくユーモラスなこの刑罰の石を、ご覧になるのをお忘れなく!
そうそうもう一つ、この刑罰の石がこのサローネにあるというのは、
もともとこのサローネには裁判所が置かれていたからで、西側にあった牢獄の
建物とを繋ぐ、ヴェネツィアの溜息橋と同様の浮廊下もかってあったのだそう。
もともとこのサローネには裁判所が置かれていたからで、西側にあった牢獄の
建物とを繋ぐ、ヴェネツィアの溜息橋と同様の浮廊下もかってあったのだそう。
という所で、今日はもう満杯! 中間にある扉からの、青空の眺めを。

では明日、もう一度のお付き合いを先にお願いしておきますです、よろしく!
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