・ イタリア唯一の絶滅収容所 ・ リジエーラ・ディ・サン・サッバ

今日は、死者を想い悼むお盆にちなみ、このイタリアに唯一存在した
「ナチスの絶滅収容所」のご紹介です。
  
日本では単に「強制収容所」と表現されますが、
こちらでは明確に区別されており、「絶滅収容所」と呼ばれるものは、
その収容所が、ユダヤ人等の殺害を目的とし、死体焼却炉があった
収容所を指し、アウシュヴィッツ・ビルケナウ・ダッハウ等がそれです。

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イタリアには、強制収容所が3箇所ありましたが、
トリエステの、リジエーラ・ディ・サン・サッバ・Risiera di San Sabba 
が唯一の絶滅収容所として存在し、他はボルツァーノと、フォッソリに。

この春実際に行かれた方から、パンフレットを送って頂きましたので、
写真と、記事でご案内いたします。
      
上は、マルチェッロ・マスケリーニ作のアウシュヴィッツの記念碑で、
パンフレットの表紙。



かってのリジエーラ・ディ・サン・サッバの様子。
リジエーラというのは、お米の脱穀をする工場の事で、

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サン・サッバにあったこの大きな工場の建物がナチスによって、
強制収容所、そして絶滅収容所に変えられたのですね。




現在の博物・記念館の図面。
右下が入口(ingresso)  A・死の部屋   B・小部屋
C・十字架の部屋   D・死体焼却窯のあった場所
E・現市立博物館(記録・遺品)  G・祈念の部屋(歴史展示)

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これが現在の博物館入口。

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ナチスが退却する前に、他の収容所と同様の手順で、ダイナマイトで
破壊されたリジエーラは、戦後避難民達の収容所となり、
その後1975年に修復の後博物館としてオープンされました。

これをプロジェクトしたロマーノ・ボイコ氏は、余計に付け加えるのではなく、
余分を取り除き、記念碑として残したいと、高さ11Mのセメントの塀を入口に。  
不安な気持ちを感じさせる入口、を意図したのだそう。



最初の図面 C「十字架の部屋」からの眺め。

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図面 A の部屋、地下通路の最初の左側の大部屋は、収容者達から 
「チェッラ・デッラ・モルテ・死の部屋」と呼ばれたそうで、
ここには監獄から連れて来られた収監者たち、または警察の徹底捜査で
逮捕された人々が詰め込まれ、数時間の内に殺害され、焼却される運命に。

証言によると、しばしば焼却される死体と一緒であったといいます。



図面 B の小部屋。  
修復の際、構造上必要な物以外はすべて取り払い、但し17の部屋と
死の部屋はそのまま残したとの事。

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リジエーラは、ドイツ、またはポーランドへ送るための人々の選別、財産略奪、
そしてパルティジャーニ(パルティザン・ゲリラ兵)、政治犯、ユダヤ人の拘留、
殲滅所で、
広い部屋のユダヤ人、一般市民の収容者、兵隊達は、全年齢層の男達、
女達、そして生後何ヶ月かの赤ん坊達も、ドイツに運ばれる運命にありました。 
 
ここから、ダッハウ・Dachau、アウシュヴィッツ・Auschwits、マウハウゼン・
Mauthausenへ送られ、ほんの少数のみが逃れられた悲劇的な運命に。



これは、セレーナ家の一人が壁に書き残した物で、 
上の線で囲った中に、家族の名前と生年月日が見えます。

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「死の部屋」の隣の部屋の扉と壁は、引っ掻き絵と書き込みで埋められて
いたのが、連合軍による占領で、
リジエーラは、避難者達(イタリア人、外国人)の収容所となり、
湿気と埃、そして無関心から、最終的に、この引っ掻きや書き込みは、 
殆どが消え去ったそう。



リジエーラの統率者達。

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トリエステ、フューメ、ウーディネは、1943年9月以降ナチス統治下に置かれ、
リジエーラは1944年の4月から、死体焼却炉が稼動を始めました。  
ですから、絶滅収容所としての活動は約1年間続いたのです。

イタリアの北東部は、ナチスにとって最後の占領地であり、砦で、
ポーランドでの殲滅作戦を終えたプロフェッショナル達が送り込まれ、
その仕事に取り組みました。

約3000~5000人の人々がここで抹消され、そしてもっと多数の人々が
逮捕収容された後、リジエーラから強制収容所へ、または強制労働へと
連行されました。

リジエーラの特異性は、抹殺への選別場所、出発場所であった事で、
123本の列車がイタリア全土から、ナチの絶滅収容所へは69の列車が、
そして30の強制労働の収容所へ直接に、ここトリエステから出発したのでした。



死体焼却炉跡での式典 1945年。

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内庭の、今日金属板で示されている場所に、殲滅の為の焼却炉の施設
がありました。 
設備は、階段を下りた場所に内蔵の形であり、地下の通路(筒)が、
焼却炉と煙突を繋いでいたそうです。
焼却炉の施設と繋がった煙突は、1945年4月29日から30日にかけての夜、
逃亡するナチのダイナマイトにより破壊。
 
これは犯罪行為の隠匿の為、他の幾つかの収容所と同様、
逃亡する際の手順に従って行われたという事。



現在のリジエーラ。

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トリエステで1976年4月、30年の経過を経てサン・サッバの占領下における
犯罪行為の責任についての裁判が終了しましたが、
サン・サッバのリジエーラの被告席は空のままでした。

彼らのうち何人かは、すでにパルティジャーニによって処刑され、他は自然死を
遂げており、裁判は、リジエーラの所長であったオーベルハウザー・Oberhauser 
に終身刑を課す事で終了しました。
 
その全生涯を、ナチスの犯罪を暴き、犯罪者を探すことに捧げた
Simon Wiesenthalの言葉で締めくくります。
  単に処刑の必要さだけではなく、教育の問題でもある。
  このような犯罪が記憶の奥に落ち込み、
  消滅する事の無いように、すべての人々が知らなければならない。
  誰もが考え、ネオナチスタは知らねばならない。
  例え、正義の歯車はゆっくり回るにせよ、
  最後には正義が勝つ事を 



白い、開いた蓮の花を、朝の光の中でレンズを通して覗き込んだ時の、
そのなんともいえない静寂さ、神々しいとさえ言える美しさに
息を呑んだ瞬間が、忘れられません。  
薄いピンクの蕾を一輪、死者たちと想いを交わすお盆に捧げます。

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ハンガリーのブタペストにおいて外交官を装い、5000人ものユダヤ人を救った
ジョルジョ・ぺルラスカについては、こちらに。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461060318.html       


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