ブログを始めてちょうど1年。
一番最初のブログに「我が町 ・ コネリアーノ」と題して、私の住む町
ヴェネト州 トゥレヴィーゾ県 コネリアーノ市をご紹介致しました。
一番最初のブログに「我が町 ・ コネリアーノ」と題して、私の住む町
ヴェネト州 トゥレヴィーゾ県 コネリアーノ市をご紹介致しました。
我が町 コネリアーノ 1 と 2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460841080.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460841643.html
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http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460841643.html
未だブログの様子も調子も手探りで、写真も市の広報誌からの物が多く、
我ながら、イマイチと思っておりました。
我ながら、イマイチと思っておりました。
で、ついこの12月中旬、ほんの少しですが町の中心部の写真を撮る
チャンスがありましたので、「コネリアーノ・再発見」でご案内を。
1年前の補充として併せてご覧いただけると嬉しいです。
ではどうぞ!
チャンスがありましたので、「コネリアーノ・再発見」でご案内を。
1年前の補充として併せてご覧いただけると嬉しいです。
ではどうぞ!
正面に見えるのが、19世紀半ばにヴェネツィア間との鉄道開通を
記念して作られた駅。 当時はまだこの一帯オーストリア領でした。

写真は、駅の北5,60M程の「アルピーニの階段」上のポルティコから。
駅前のこの道は、車の実技レッスンで何度も走らされた通りです。
駅前周辺の道は、現代の息ぶきが流れていますが、
アルピーニの階段を上り、建物の下をくぐる形のこのポルティコから
雰囲気が一度に、中世からルネッサンスへと、遡ります。
この井戸の側面に刻み込まれた数字は、1467.
15世紀がここに存在します。

ポルティコの前にチーマ広場が広がり、手前に東西に「9月20日通り」が。
チーマ広場の左奥にこの「カーザ・ズバッラ・Casa Sbarra・ズバッラの家」
15世紀後半、の角の張り出したテラスが見えます。
チーマ広場の左奥にこの「カーザ・ズバッラ・Casa Sbarra・ズバッラの家」
15世紀後半、の角の張り出したテラスが見えます。

こちらは逆に、カーザ・ズバッラの家の手前からのチーマ広場の眺め。
真ん中の、建物がすこしへっこんだ位置の下がポルティコで、
上の井戸がある場所。
真ん中の、建物がすこしへっこんだ位置の下がポルティコで、
上の井戸がある場所。

チーマ広場の東側を占める市役所の建物。
日常的な事務窓口は、駅から南に行った建物内にあります。

この建物の2階に大小2つの結婚式場があり、私はここの小さい方の
式場で結婚しましたが、 コネリアーノについて読んでいて、
かの大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ が、コネリアーノでこの式場と、
教会とで結婚式を挙げた事を知り、俄然、近しい気持ちに!
教会とで結婚式を挙げた事を知り、俄然、近しい気持ちに!
何度も「チーマ広場」と出てきますが、これはわが町コネリアーノ出身の
15世紀の画家「チーマ・ダ・コネリアーノ」にちなんだ名前で、
後ほどご覧頂きますがこの広場のすぐ近くに彼の生家があります。
広場の正面、北側にはネオクラッシックの建物、現在アッカデミア映画館
となっている劇場があり、追記:現在は講演会場に
外側両脇にスフィンクス式の像があり、ウィーンのベル・ヴェデーレ庭園のと、
同様です。 オーストリア領地下にあった影響でしょうね。

ちょうど学校が済んだ子供達が出てきて遊び始めました。
この広場では毎年6月の末に、人間がコマの「ダーマ」の競技
(チェスよりも簡単)が行われます。
この広場では毎年6月の末に、人間がコマの「ダーマ」の競技
(チェスよりも簡単)が行われます。
上に遠景をご覧頂いたズバッラの家。かっては全面がフレスコ画で
覆われていた様で、その名残が今も見て取れ、かっての裕福さが偲べます。
角にある2つの窓と張り出したバルコニーはヴェネツィア様式との事。

これは家の側面、南側で、こちらにも全面フレスコ画の名残があります。
延びる2本の帯のような形は暖炉の煙突で、三角部が面白いですね。

カーザ・ズバッラの手前から西への細い通りが、ジャンバッティスタ・チーマ通り。
先回のブログでご紹介した「聖母子と聖人たち」の15世紀の画家の
生家の前に続きます。
この壁のフレスコ画の家は、通りを入って直の場所にあり、近辺一帯、
つい最近修復されたばかり。
つい最近修復されたばかり。

ここが、ジャンバッティスタ・チーマ・Gianbattista Cimaの生家。
15世紀の職人が建てた家としても興味深い物との事で、
中は博物館になっており(まだ見ておりません)、彼の作品の模写や、
この近辺の考古学発掘品も収められているそうです。
15世紀の職人が建てた家としても興味深い物との事で、
中は博物館になっており(まだ見ておりません)、彼の作品の模写や、
この近辺の考古学発掘品も収められているそうです。

町の祭日のチャンスには見学できるはずなので、なかの様子も
またご案内できると思います。
彼、チーマはヴェネツィアに出てジョヴァンニ・ベッリーニに師事、
長くヴェネツィアに留まり作品を残しました。
人物の顔も師匠譲りの優しい顔で、作品の中に何度もコネリアーノの
丘の上の城が描かれているそう。
長くヴェネツィアに留まり作品を残しました。
人物の顔も師匠譲りの優しい顔で、作品の中に何度もコネリアーノの
丘の上の城が描かれているそう。
一度絵画技法書にも彼の名を見出しましたが、チーマ・ダ・コネグリアーノ、
Coneglianoのgliは、リと発音ですが、グリと書いてあり、いやらしく(!)
同郷人として、腹を立てましたっけ!
Coneglianoのgliは、リと発音ですが、グリと書いてあり、いやらしく(!)
同郷人として、腹を立てましたっけ!
チーマの家から西に続く家々。 表面は修復され新しいですが、
この入口の感じがなんともレトロで、暖かく。

通りの西端に小さな広場があり、古い水飲み場も残り、
大変良い雰囲気で、ここもすでに修復済みとなりました。
大変良い雰囲気で、ここもすでに修復済みとなりました。
これは、カーザ・ズバッラの家の前のポルティコの軒下で、古く幅も狭く、
素朴なゴシックのアーチで、木の梁が続いているのが見えますか?
素朴なゴシックのアーチで、木の梁が続いているのが見えますか?

こちらは、下の建物のポルティコ。
コネリアーノの町の中心は丘に沿って広がるので、何処もかしこも
少しずつ傾斜しています。
コネリアーノの町の中心は丘に沿って広がるので、何処もかしこも
少しずつ傾斜しています。

チーマ広場から少しお城のほうに登り西に入ると、元フランチェスコ派の
大きな修道院の建物があり、近年大改装され、国立のワイン学校本部に。
大きな修道院の建物があり、近年大改装され、国立のワイン学校本部に。

ワイン醸造技術者育成や葡萄栽培の技術の学校で、中学から始まります。
この手の技術者養成の学校はコネリアーノには古く、19世紀の半ば過ぎに
既にあった、という歴史を持ちます。
コネリアーノが歴史に登場するのは10世紀で、ベッルーノの司教領として
ここに砦と市壁を築いた、という記録で、この市壁はその後の封建領主に
よって補強され、現在も、お城に続くのぼり道にこうして残ります。
ここに砦と市壁を築いた、という記録で、この市壁はその後の封建領主に
よって補強され、現在も、お城に続くのぼり道にこうして残ります。
以前はもっと道も荒れていましたが、近年こちらも修復され整備済。

上の市壁よりも少し下の位置からで、見えている鐘楼はドゥオモの物。
はるかに、ヴェネト平野の地平線が広がります。
はるかに、ヴェネト平野の地平線が広がります。

チーマ広場の前を東西に走る、ヴィア・ヴェンティ・セッテンブレ・9月20通り、
この一帯がかってのコネリアーノの一番の中心地だった様で、
「コントラーダ・グランデ・大きな地区」と呼ばれ、通りの両脇には中世から
ルネッサンスにかけての建物が並び、フレスコ画で飾られた壁が目立ちます。
が、その中で私のお気に入りの建物、15世紀の古めかしくも雅な、
陶板で飾られた「カーザ・ロンジェーガ・Casa Longega」のポルティコ。
陶板で飾られた「カーザ・ロンジェーガ・Casa Longega」のポルティコ。

こちらが正面、壁の古い陶板、かっての窓のアーチなど上手く残され、
修復されていますが、実際に見た目の美しさが上手く撮れず残念。

ポルティコのアーチ部分。 この陶板飾りの美しさ!手の込み具わい!
それに比して、この埴輪像にも似た人物像の稚拙さ!!

既に15世紀。フィレンツェ辺りでは既にルネッサンスの花盛りの時期が、
ここ、コネリアーノでは・・、愛おしい!
通りに並ぶ殆どの家の壁には、フレスコ画の名残が見えます。
かっては、どんなに華やかな通りだったでしょうか?!
この壁画は「アダムとイヴ」ですね。
かっては、どんなに華やかな通りだったでしょうか?!
この壁画は「アダムとイヴ」ですね。

通りは石畳舗装。 サイコロ角の石を上手く弧を描くように並べています。
この通りは余り交通量がないので、特別に磨り減ってはいませんが、
同じ様なトレヴィーゾの街の石畳は、見事にすり減り光っていますし、
時には轍のあとも残り、まさに歴史が刻み込まれる石畳。
この通りは余り交通量がないので、特別に磨り減ってはいませんが、
同じ様なトレヴィーゾの街の石畳は、見事にすり減り光っていますし、
時には轍のあとも残り、まさに歴史が刻み込まれる石畳。

通りの北側は丘の山側になり、建物郡が少し高い位置に並び、
道の中央からは脇は少し坂になり、丸石舗装です。

そして建物の下をポルティコが続きお店も続きますが、やはりどっしりとした
威圧感で、慣れないうちはお店にも入りにくい気がしたものでした。
でも、この町にも既に16年になりました!
追記:はぁ、そして現在27年目に。 2018.9.19
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