・ ラディコーファニ ・ 中世カッシア街道、要塞の町

今日は皆さんをラディコーファニ・Radicofaniにお連れしますが、
この地名、殆どの方はお聞きになった事がないと思います。

がこの町は、ローマからシエナを結ぶ中世のカッシア街道、また巡礼道、商業道の
ヴィア・フランチージェナが通る要所で、オルチャの谷を睥睨し続けた見事な要塞跡が残り、
見学出来るようになっています。 ではどうぞ!

トップの写真は、今回オルチャの谷訪問の基地として宿を取った、ピエンツァの東に
位置するモンティッキエッロ・Monticchielloから、麦畑の遥か南に望むラディコーファニ。

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距離は約34㎞ですが、真ん中左寄りに塔が1本見えますね?
これがカッシア街道を見張り続けた、有名な塔なのです。

一昨年オルチャの谷を訪ね、キアンチャーノ辺りからこのラディコーファニの姿を
教えられて眺め、初聞きの土地名ながら塔が見えたので、即、上れるのか?と尋ね!



そのラディコーファニの町はどこにあるか、
オルチャの谷のほぼ南の端、ラツィオ州に近く、
       
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昨年夏のオルチャの谷の旅行を計画した際、塔に上れなくては意味がないと
サイトを調べ、管理事務所に電話して尋ねましたら、
この次の日曜日は結婚式があるからダメだけど、その次は大丈夫、
といかにもイタリアらしいお返事で・・! 見学時間は、のちほど。



これはすでにかなり町に近寄ってからの眺めですが、
上の写真とまるで同じ形に見えますよね?!

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近づくにつれ、曲がりくねりの上り坂になりますが、シエナのクレーターと呼ばれる、
かっての海底の風景がひょいひょいと現れます。
   
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シエナのクレーターの麦秋風景は
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460855556.html   


町に着いての駐車場脇で、こんな方に。 6,7cmはあったかな、
轢かれたらどうするの、と持ち上げて移動させ・・。

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町の地図も見つけましたが必要ありません。この通りは町の中心を抜けるローマ通り。

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町は海抜780mに位置し、そのせいか空気はひんやりとし、
町全体の印象もさっぱりと地味加減。

と言うのも、建物の石の色がかなり濃い色で、こげ茶、茶色、そしてグレイの石組みが
そのまま見え、町全体がその色。

常のイタリアのように、クリーム色やピンク色の壁色もなく、アッシジのように
明るい白とピンクの石の色でもなく、まさに古い中世のまま、存在して来ている感じ。



上の写真の左手辺りに教会があり、町の並びに埋もれた感じで、中に入って大変意外に
思ったのは、祭壇に大きなデッラ・ロッビアの色鮮やかなブルーと白の作品。

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教会の名はサンタ・アーガタ、13世紀に遡り、現在の内部の形は18世紀に修復。
アンドレア・デッラ・ロッビアのこの作品は、1500年位の物と。



こちらは、前に広い広場を持つサン・ピエトロ教会。
ガイドブックによると、オルチャの谷のロマネスク‐ゴシック様式の重要なもので、
やはり内部には、デッラ・ロッビアの祭壇がと。見ておりませ~ん、何をしとった?!

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サン・ピエトロ教会前広場の、角の建物。 ご覧の通り、石の色が濃い目でさっぱり感。

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古い町にしては壁に無駄な汚れが見えないので、町全体が綺麗に洗われ、修復されたのかも。

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オルチャの谷の、ユネスコの世界遺産指定効果かな?



ふと小路の奥を見つめ目を上げると、見上げる山の上に、要塞の塔。 おお!この高さ。      
これに会いに来たのですが、何となしの中世の威圧感も。
うん、もうちょっと町を見てから行くけんね!  

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サン・ピエトロ教会の裏、南側が公園になっていて、その隅にこんな石像。
ギーノ・ディ・タッコ・Ghino di Taccoという13世紀のイタリア版ロビン・フッド
とでもいう、山賊、義賊の人物!

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豪族の家に生まれ、父親、叔父、弟と4人組の強盗で、一同捕まり、
父親と叔父は処刑されたものの、彼と弟は年少の為許され放免。 
が、3年ほどの後に父親の仕事を引き継ぎ、ラディコーファニの要塞を根城に、
街道筋を行く金持ちを襲い、貧乏人や巡礼たちは通し、殺したりはせず、
生き延びるだけの物は残したという、紳士の山賊と呼ばれたとか・・、ははは。

面白い逸話を2つ。
父親と叔父は、シエナのカンポ広場で処刑されたそうですが、その判決を下した
裁判官が出世し、教皇庁の裁判官になっているのを知り、復讐のためローマまで
行き殺害。 その首を槍の穂先につけて戻り、長い間晒したとか。

この逸話は、ダンテが神曲の煉獄編に取り上げているそうで、
ボッカッチョのデカメロンにも彼が登場するとか。

もう一つは、ローマ詣でから戻るフランスの修道院長を捕え監禁、パンとソラマメ、
そしてサン・ジミニャーノのワインのみを。 所が修道院長はローマでの
暴飲暴食がたたり、胃と肝臓が悪くなっていたのが、この食事療法で奇跡的に快復!

この修道院長のとりなしで、裁判官の殺害も教皇から許され、
騎士の称号まで得たという・・、読んでいて笑いましたぁ!



町の西の端、要塞への登り道の脇一際大きな立派な建物。
見ましたら、カラビニエーリ・警察署が使用。

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うんまぁ、そうすると修復するのも面倒なく、保存にも役立つね。
      


要塞への道を辿ります、はい、歩いて。
途中で、しまったなぁ!と思う長~~い、結構傾斜のキツイ山道。

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ここは坂道途中にあった墓地への入り口。 かってはここも要塞の一部だったようですが、
ここかと喜び勇んで入って行ったのでしたぁ、ははは。 
で、すごすごと引き返し、また山道を。
  


山の上にハァハァと辿り着くと、要塞の周囲はかなり深い林に囲まれていて、
小道を抜けて行きます。
   
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その林を抜けると一転してぱっと開け、キャンプ場を想像させる木造りのバール兼
入場券売り場があり、インディアン式の3角テントもあったりで・・!

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案内の矢印に従い、要塞の下、外側をぐるっと回り、トンネルをくぐって登り・・、
写真は上から逆に見た所。

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この壁は、入って来て最初に突き当たる、多分警備兵の詰め所部分だったようで、
ここから上の写真のトンネルをくぐります。
  
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上の広場に出ると、目の前にぐっと立ちふさがる感じで、
厳めしい塔と、城壁の屹立した線! 美しい!

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要塞の存在が記録に出るのは8世紀の末ですが、ローマから北に続く街道の要所であり、
教皇領と、シエナ、フィレンツェとの境界線、現在のラツィオ州とトスカーナ州の境界線
でもあり、戦術上の要所として、当初から実戦的に拡張設備。

ローマ期からのカッシア街道に、巡礼道、通商街道としても大きな働きを齎した
ヴィア・フランチージェナが重なる訳で、

巡礼者達を保護するオスペダーレは、この区間に3か所もあるという、
ラディコーファニは重要な町だったのですね。

ヴィア・フランチージェナについては、こちらを。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462678404.html   
    

塔、城壁跡の周囲は広々と修復され、幅の広い城壁から
町を見下ろすとこんな感じで、サン・ピエトロ教会も見えます。

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要塞は、18世紀の中頃に爆薬庫の破裂で破壊され、
どうやら守備隊長が配置転換を恨んでの事らしく、
それ以降放置されていたのを修復、
1999年より博物公園として公開されていると。

毎日10時半から、19時半まで公開、冬はこれより短いと。
案内電話番号は、la Societa Brigadoon: 331.4103303
要塞のサイトは      
http://www.fortezze.it/rocca_radicofani_it.html 



ここに行ったのは昨年7月の初旬でしたが、城壁の外には、既に秋を思わす植物も。

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今はまさに公園のイメージですが、場所を移動するにはかっての城壁の門をくぐってで、
その雄大さ厳重さからみて、当時の要塞の凄さを想像します。
     
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ここが主塔の入り口。 階段を上がったかなり高めの位置にあり、
上に見える紋章は、15世紀のメディチ家の紋。

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蛇足ながら、メディチ家がトスカーナ一帯に造った要塞の数はいくつあると?
59あるんですと!

大変な財力、そして財を守るための努力、ははは。
町から下った所にラ・ポスタ・La Postaと呼ばれる、16世紀にメディチ家の狩猟の館
として建てられた邸宅があり、後にはローマへの街道筋の宿場として、
馬車馬の取り換え、旅行者への食事提供場所として栄えたそう。

チャールズ・ディッケンズ等も宿泊したようで、
  吹きまくる風の音、荒い岩の風景、
  階段をひっきりなしに上り下りする人々、
などと書き残していると。
       


これは塔の入り口の階だったと。 いろいろな資料も展示され、修復の際に見つかった、
エトルスク、ローマ期の発掘品も。 いかにも、年代を経た壁の色!

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主塔の最上階。

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いざ上がってみると、周囲の景色以外特別な事もなく、正直、いささか気が抜け・・!

で、この最上階の広さ塔の高さとかを皆さんにお伝えしようと数字を探し回りましたが、
見つかりません!買って戻ったガイドブックにも、どのサイトにも!
       
町の海抜が780m、要塞のある山の高さが896m、その上に主塔。 ご想像を!

と、もう一つおまけの発見は、
18世紀の爆発の際に主塔も上部分が破壊されたのを、1927年に再建された模様。
となると、私の気が抜けたのも当然かも・・。



塔の上からの眺め、こちらは北のサン・クイリコ・ドルチャ、ピエンツァ、
モンタルチーノ方面を。
少し霞んでいるのが残念ですが、やはり素晴らしく雄大!

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主塔の入り口部分を見下ろして。

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街道筋を見張るための重要な塔でもあったようですが、戦争捕虜の監獄としても
利用されていたと。

そういえば、ヴェネトのソアーヴェのお城の修復でも、塔の下から何メートルにも
積った人骨が出たとか・・、 わっ、思い出してしまった!!

思い出したい方、知りたい方、こちらです。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462246865.html       



こちらは、西側の眺め。

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下側1,5cm程の部分のす~っと白い線が見えますか?
あれが北から、シエナからサン・クイリコ・ドルチャを通りここに、そして南にヴィテルボ、
さらにローマに繋がる、かってのカッシア街道、ヴィア・フランチージェナ。

写真は広大な風景を小さな中に閉じ込めるので見えにくいですが、
実際にはよく見え、戦術的位置、という言葉を大いに納得!

正面のこれまた雄大な山は、オルチャの谷の西を占めるモンテ・アミアータ・
美しいアミアータ山。

ここには10世紀頃ベネデッティーノ派の修道院があり、一時はラディコーファニをも
治めていたのだとか。 そう聞くと何となく、日本の僧兵の姿も思い出し・・。



最後にガイドブックの、要塞の全体が良く分かる写真をどうぞ。
左上の角が、要塞見学の入り口。

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これだけの土地を、きちんと修復して保つのは大変な仕事だろうと。
植物の繁殖力は凄いですから、修復前などまさにジャングルだったろうと想像。
       
夏には中世の衣装で、さまざまな武器を使っての戦いの模擬や、お祭りもある様子で、
まさに、つわものどもが夢の跡、なのでした。

*◆*◆*

行き方ですが、車でないとかなり難しいもののバス便があり、
それも鉄道のキウジ・キアンチャーノ駅前からが一番楽なようで、
乗り換えなしで64分と。

他からの行き方もこちらのサイトの上部に、出発場所を打ち込むと、
乗り換え場所などが出ます。
https://moovitapp.com/index/it/mezzi_pubblici-Radicofani-Siena-site_9447377-2680

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