昨年のクリスマスのプレゼントに、一冊の本がありました。
私が絵を描き、ヴェネツィアが好きな事を知ってのプレゼントで、
[VENEZIALTROVE]というタイトル、
「他の場所におけるヴェネツィア」とでも言いましょうか。
私が絵を描き、ヴェネツィアが好きな事を知ってのプレゼントで、
[VENEZIALTROVE]というタイトル、
「他の場所におけるヴェネツィア」とでも言いましょうか。
内容は、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ジョルジョーネなど
ヴェネツィア派画家の、作品海外流出の事、
またナポレオンによってヴェネツィア共和国が倒された後の混乱で、
パラッツォ・ドゥカーレの最上階に納められたまま、
2世紀以上も公開されていない、350点に及ぶ作品の事等など。
ヴェネツィア派画家の、作品海外流出の事、
またナポレオンによってヴェネツィア共和国が倒された後の混乱で、
パラッツォ・ドゥカーレの最上階に納められたまま、
2世紀以上も公開されていない、350点に及ぶ作品の事等など。
でその中に一つ、最初は見落としていた絵がありました。
ヴェヴァルディについての章の、最初のページの絵、これです。

ピエトゥロ・ロンギ 「小コンサート」細部・
ヴェネツィア・アッカデミア美術館
なぜ見落としていたか、ご想像できると思います。
他で見て記憶にあるヴィヴァルディと、余りにも違っていたからで、
パッと見た時、なぜか中国人を想像し、
「ヴァイオリンを抱え、プレーテ(司祭)の帽子をかぶり」
と文中にあるので、ヴィヴァルディなんだ!と。
他で見て記憶にあるヴィヴァルディと、余りにも違っていたからで、
パッと見た時、なぜか中国人を想像し、
「ヴァイオリンを抱え、プレーテ(司祭)の帽子をかぶり」
と文中にあるので、ヴィヴァルディなんだ!と。
確かに少しひしゃげてはいますが、司祭の帽子に違いなく、
でも司祭らしからぬ服装、そしてイヤリングを付け、
左右の小指に指輪が光っていて! なんと!
でも司祭らしからぬ服装、そしてイヤリングを付け、
左右の小指に指輪が光っていて! なんと!
今迄見慣れたヴィヴァルディの肖像画と比べて見ると、

この肖像画が良く見かけるもので、同じ作品から起こしたと
見られる銅版画もあります。
元気はつらつ、そして得意そうな感じが伝わって来ますが。
説明によると、
「1724年、フランス人によって水彩で描かれた戯画」とあり、
ヴィヴァルディが46歳の時、の計算に。
説明によると、
「1724年、フランス人によって水彩で描かれた戯画」とあり、
ヴィヴァルディが46歳の時、の計算に。
こちらは少し毛色の違う肖像画。
ボローニャの音楽学校にあるという作者不詳の絵で、
思慮深そうではありますが、生気が余り感じられず、
左手薬指に指輪が見えます。
ボローニャの音楽学校にあるという作者不詳の絵で、
思慮深そうではありますが、生気が余り感じられず、
左手薬指に指輪が見えます。

そしてこちらが一番良く知られている戯画。
1723年 ピエール・レオーネ・ゲッツィのペン画 ヴァティカン図書館蔵
ヴィヴァルディ 45歳。
1723年 ピエール・レオーネ・ゲッツィのペン画 ヴァティカン図書館蔵
ヴィヴァルディ 45歳。
2枚目以外は全て「戯画」で、
最初にあげた絵にも、余り好意的ではないイメージを感じます。
では、ヴィヴァルディの生涯はどうだったのでしょうか?
良くご存知でしょうから、簡単に。
1678年3月4日、ヴェネツィア生まれ。
父親は貧しい床屋で、そしてサン・マルコ聖堂で、
ヴァイオリンも弾いていました。
我らがヴィヴァルディは10歳の時には既に、
ヴァイオリンは父親の代理が出来る程、であったといい、
司祭になる為に神学校に進み、1703年に司祭に。
良くご存知でしょうから、簡単に。
1678年3月4日、ヴェネツィア生まれ。
父親は貧しい床屋で、そしてサン・マルコ聖堂で、
ヴァイオリンも弾いていました。
我らがヴィヴァルディは10歳の時には既に、
ヴァイオリンは父親の代理が出来る程、であったといい、
司祭になる為に神学校に進み、1703年に司祭に。
彼のふさふさした赤い髪の毛から、
「プレーテ・ロッソ・赤毛の司祭」と呼ばれます。
「プレーテ・ロッソ・赤毛の司祭」と呼ばれます。
彼の音楽は快活で分りやすく、低俗でなく大人気を得るものの、
匿名の投書に終生悩まされる事になります。
つまり彼の作品を歌う女性歌手の愛人もおり、
これには、色事には寛容なヴェネツィア市民も眉をひそめたと。
匿名の投書に終生悩まされる事になります。
つまり彼の作品を歌う女性歌手の愛人もおり、
これには、色事には寛容なヴェネツィア市民も眉をひそめたと。
そして1740年ヴェネツィアを後にし、ウィーンに向かい、
翌1741年7月28日に孤独の内に、赤貧状態で、
熱病で亡くなります。 享年63歳。
翌1741年7月28日に孤独の内に、赤貧状態で、
熱病で亡くなります。 享年63歳。
病院の共同墓地に葬られますが、後年病院も墓地もなくなり、
彼のお墓は残っていません。
ちょうど50年後に、モーツァルトに起こった様に。
彼のお墓は残っていません。
ちょうど50年後に、モーツァルトに起こった様に。
なぜヴェネツィアを後にしたのか、その辺りも謎で、
彼の音楽は既に飽きられ不人気となり、最後に新しい仕事を
ウィーンの宮廷に求めに行ったというのが推測されるようですが、
詳しく調べるには、私には荷が重過ぎます。
彼の音楽は既に飽きられ不人気となり、最後に新しい仕事を
ウィーンの宮廷に求めに行ったというのが推測されるようですが、
詳しく調べるには、私には荷が重過ぎます。
ピエトゥロ・ロンギ Pietro Longhi(1701~1785)
彼の名は、今回のヴィヴァルディの絵によって始めて知りました。
ヴェネツィア生まれ、成功を収めた画家と言えましょう。
アッカデミアの学長にもなり、ヴェネツィア貴族との関わりも深く、
肖像画もかなり描いている様子。
で、最初にご覧頂いた「小コンサート」の絵は、
1741年作、60x48cm、キャンバスに油絵。
1741年作、60x48cm、キャンバスに油絵。
ここで疑問が出ます。
1741年はヴィヴァルディが亡くなった年ですが、
絵の中の彼はかなり若く見えます。
遠く訃報を聞いて、彼に思いを馳せて描いたのでしょうか。
ヴェネツィア貴族と繋がりが深かったとの事、
自身もかって招かれた貴族の家で聴いた事のある、
彼の生前の小コンサートを思い出したのかもしれません。
1741年はヴィヴァルディが亡くなった年ですが、
絵の中の彼はかなり若く見えます。
遠く訃報を聞いて、彼に思いを馳せて描いたのでしょうか。
ヴェネツィア貴族と繋がりが深かったとの事、
自身もかって招かれた貴族の家で聴いた事のある、
彼の生前の小コンサートを思い出したのかもしれません。
かなり風俗画要素が濃く、余り好きなタイプではありませんが、
当時のヴェネツィアを知るのには最適かもしれません。
当時のヴェネツィアを知るのには最適かもしれません。
一番最初のイタリア旅行をした帰り道、シンガポール航空機が
油圧関係の事故で台北空港から飛ばず、パスポートを預け、
一夜田舎のホテルに留められました。
次の日の夕方、ようやくタイ航空の飛行機に搭乗出来、
その時、機内にヴィヴァルディの「四季」が流れ、
不安と疲れで吹っ飛んでいたイタリアの印象が、
大好きになったヴェネツィアの印象が、一度に蘇りました!
大好きになったヴェネツィアの印象が、一度に蘇りました!
あんなにも明るくて、快活、そして、憂愁に満ち満ちた
ヴィヴァルディの音楽は「ヴェネツィアそのもの!」と、
その時以来、ずっと以前よりも強く感じます。
ヴィヴァルディの音楽は「ヴェネツィアそのもの!」と、
その時以来、ずっと以前よりも強く感じます。
最後に「小コンサート」の絵全体をどうぞ。

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