・ 「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ

かのレオナルド・ダ・ヴィンチの手になるという幻のフレスコ画が、
フィレンツェはヴェッキオ宮、500人広間のヴァザーリの絵の下に
見つかるかもしれない、という「アンギアーリの戦い」図、
つい最近調査が始まっている様子ですが、

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戦いに名を冠されたアンギアーリの町のご案内をしつつ、
この町が戦闘の舞台になり、フィレンツェ側が勝った事は知っていても、
では相手はどこの誰? 何が原因での戦闘だった? かを
考えた事もなく、まるで知らない事に気が付きました。

ならばと、あれこれ読み始めたら、これが嵌りましたぁ!
信州信濃は長野市生まれ、ご幼少のみぎりは、もとえガキの頃は
川中島合戦の上杉謙信、武田信玄、真田幸村、真田十勇士、
木曽の義仲、巴午前、などなどをお友達に育った私、ははは。
       
「アンギアーリの戦い」そのものよりもその周辺事情、
当時のいわゆる傭兵隊長の人となり生き様に、
大いに我が祖国の戦国武者たちを思いだしたりしたのでした。

そんな訳で、「アンギアーリの戦い」について、
こだわりshinkai にちょっぴりお付き合い下さいませませ!

トップは、レオナルドがこの壁画の為に準備したという、
皆さんもよくご存知と思われる習作スケッチの一枚。
この迫力だけで、本当に壁の下にあったら?!とドキドキしますよね。

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017660.html      


「アンギアーリの戦い」があったのは1440年6月29日、
日本では室町幕府6代将軍足利義教の時代、
1467年に応仁の乱が起こる、という時代で、
       
実際の戦闘よりも彼の絵で歴史に残る、の感が無きにしも非ずの
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年生まれ、

アンギアーリの東に位置するサンセポルクロに1416年か7年に
ピエロ・デッラ・フランチェスカが生まれており、この戦い当時は
生地に住んでいなかったにせよ、1442年には戻り、
コムーネの役員にもなっているので、

すぐ隣の地で起こった2年前の戦闘について、あれこれ聞いたでしょうし、
その戦いへの想像は、アレッツォのサン・フランチェスコ教会に残る
彼の名作「聖十字架伝説」の2つの戦闘場面に反映されているだろう、
と言われます。 後ほどご覧頂きますね。


アンギアーリから見る、サンセポルクロの町。

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で、この戦争はなにが原因で起こったのかと言いますと、
2年前の1438年にフィレンツェ共和国軍に応援された教皇軍が
サンセポルクロの領土を取り戻した事に始まります。

というのも、サンセポルクロを治めていたニッコロ・フォルテブラッチョ・
Niccolò Fortebraccio da Montoneの、自分が死んだら
領土を教皇に戻す、という約束が、1435年つまり3年前に死去。
       
というのも後にミラノ大公となるフランチェスコ・スフォルツァの弟
アレッサンドロとの戦いの際に、怪我をして馬の下敷きになった所を、
クリストフォロ・ダ・トレンティーノに討ち取られたのだそうで。
クリストフォロについてもあれこれ分かったのですが、
傭兵全部については到底書ききれませんので、先を急ぎますね。

当時の法皇はエウジェニオ4世・Eugenio IV.
所領返還の約束が守られなかった理由は、その後釜にちゃっかりと
縁繋がりであるフランチェスコ・ピッチニーノ・Francesco Piccinino
が入り込んだのですね。
彼はニッコロ・ピッチニーノ・Niccolò Piccininoの息子、甥が養子に
入りで、どちらも当時はミラノ大公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ・
Filippo Maria Visconti の元で働いており、
       
サンセポルクロはトスカーナとはいえ既にウンブリアのお隣ですから、
ウンブリアに狙いを付ける恰好の基地となる訳で、
それを阻む為にも教皇側とフィレンツェが組み、1438年に取り戻し、
という前哨戦の後、
本日の主題、1440年の「アンギアーリの戦い」となります。



では戦場はどこ、となりますが、
勿論アンギアーリの町中で戦いが行われた訳ではなく、
こうしてこの急坂を下った、町の城壁のすぐ下、と記述され、
橋を巡って戦いが繰り広げられた、と。

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ならば橋はどこにあるか、地図をどうぞ。

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アンギアーリとサンセポルクロの距離は9K程で、見える河はローマまで
行くテーヴェレ河で、かってはアンギアーリの町近くを流れていたのを
1259年に渓の一番低いサンセポルクロ寄りに蛇行させたのだそう。

ですがこの流れだと、ミラノ側軍勢が集結したサンセポルクロに近すぎます。
地図上にみえる例のまっすぐな道の名前をご覧下さいね。
アンギアーリに近い部分に、Via della Battaglia・戦い通り とみえ、
途中からその名がVia del Tarlatiと名が変わりますが分からず。

ならばと衛星からの地図に替え、この辺りをじっくり観察し、
蛇行して並木のある細い道、細い流れがありそうなのを見つけ、
ぐっと接近、遂に細い細い小川の流れと道を見つけました。

それが地図に赤い点を付けた辺りで、この小川の先にある村の名、
と言っても何軒かの集落ですが、にもご注目を、
Mulinello・ムリネッロ・小さな水車、です。

ならば、かってはテーヴェレに合流していた流れがここを通っていて、
この集落には水車があったのかも!
はい、ここなら、アンギアーリの城壁の下近く、というのも納得ですね。



この眺めは、真っ直ぐの道の北方面、平野がこんな様子だと、ご覧を。

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サイトから拝借の、平野の下から眺めるアンギアーリの町。

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で、戦いが繰り広げられた様子の模型を、サイトの写真でどうぞ。
奥の高台がアンギアーリの町で、坂を下って来たすぐの平野と分かり、
今は小川でもかってはちゃんとした川で、というか運河だった様で、
ここに橋がかかっていた事がわかります。

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ですが、下に書く戦闘の次第を読んで頂きますと、この様に最初から
綺麗に布陣して戦ったのではなく、
歴史に残る記述とはいささか違う陣構えに思えますので、
それを頭において以下をお読みくださいね。
              
まずは両軍勢の指揮官とその兵力ですが、
ミラノ側 総指揮官ニッコロ・ピッチニーノ
総勢11000(そのうち騎士6000、歩兵3000、サンセポルクロで
徴募した2000が含まれる)

フィレンツェ・教皇軍側+ヴェネツィアからの援軍連合軍
指揮官ミケロット・アッテンドロ・Michelotto Attendoloと
ジャンパオロ・オルシーニ・Giampaolo Orsini
総勢9400(騎士1400、歩兵8000という数字があり、

他に4千の教皇軍指揮官シモネッタ・ダ・カステルペッチョ・
Simonetta da Castelpeccio、
4千のフィレンツェ軍、指揮官はネーリ・カッポーニ・Neri Capponiと
ベルナルデット・デ・メディチ・Bernardetto de'Medici
ヴェネツィアから300の騎士という内訳もありましたが、
あとはアンギアーリからの騎士の参加かな?)



数字については確信が持てませんが、ミラノ勢が数では優勢だった様で、
こちらがミラノ側総指揮官ニッコロ・ピッチニーノの肖像、ピサネッロ作。

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ミラノ側指揮官ピッチニーノは自軍の優勢を信じ、教皇軍がアンギアーリで
馬の整備などで駐屯した事を知るや、
6月29日の午後を合戦日と決め、急襲を掛けます。が、
なにせ一本道、立つ埃に気がついた教皇連合軍はすぐさま迎撃に。

ですが、埃が立つ事をなぜ考えなかったのか?!と、
そのうかつさに少々呆れますね。
奇襲をかけるのであれば夜か朝方、馬が嘶く事のない様に
何かを口に噛ます、なんと言いましたっけ、あれ?
馬の蹄鉄には草鞋を履かす、位な事はshinkaiでも知っとりまんがな!


戦いの図は、ピエロ・デッラ・フランチェスカ描く戦闘図。
アレッツォのサン・フランチェスコ教会の「聖十字架伝説」のフレスコ画で、

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私めの古い小さな画集からで色も悪いですが、同時代のピエロの画で
ご想像下さい。
そして戦いの図の中央に挟まれる、美しい川べりの様子もどうぞ。



こうして始まった戦闘ですが、夕暮れまでには決着がつきます。
教皇軍内のヴェネツィア勢騎士達は、ミラノ勢の先頭部隊を押しとどめ、
この一帯で唯一の橋を渡るのを防ぎ、
という事は、川もかなり幅広だったのかもですね。

他の連合軍は平野での戦闘に備えますが、橋が渡れない為に
ミラノ勢は他の増援部隊を後退させ始め、
先に進んだミラノ勢は戦闘に入ったものの、やはり後退せざるを得なく・・、

こんな様子の4時間の戦闘で、教皇側の包囲作戦が功を奏し、
橋を超えていたミラノ勢の3分の1が断ち切られ、多くが捕虜に。

風の強い日、夕方になりとりわけ強く立つ砂埃で目が開けていられない
という日だったそうで、
取り分け凄絶な闘いという訳でなくとも、マッキャべッリが皮肉をこめて
描いた様に、死者は馬から落ち踏みつけられて死んだ一人だけ、
とはいえず、

イギリスの歴史家 Michael Mallettによると、
信頼できる数は、約900人が戦死したであろう、との事で、
600頭の馬が死んだ、という記述もありました。



さて年を経て1503年、フィレンツェのヴェッキオ宮は500人広間の
向かい合った壁にレオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロがそれぞれに
フィレンツェの勝ち戦を語る壁画を描く事に。

当時のフィレンツェ政府代表が、ピエール・ソデリーニ・Pier Soderini
ミケランジェロが受けたのは、カッシーナの合戦・Càscina
レオナルドは、既にご存知アンギアーリの戦いで、この両作品ともが
未完に終わり、レオナルドの作品の上にヴァザーリが現在に残る壁画を
描いたという事なのですが、


このレオナルドの作品については、1603年にルーベンスが摸写を
したのが現在ルーヴル博物館に残っており、こちらです。

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ですが、この摸写は実物の模写ではありませんで、ルーベンス当時は
既に無く、1558年のロレンツォ・ザッキアの版画を基にしたものだそう。

間に2人の翻訳者を挟んだような物ですが、
それにしても大変な迫力で、現在の再発見調査が大いに待たれますね。



そして散逸してはいるものの、レオナルドがこの作品の為に
習作スケッチを何枚もしており、最初にご覧頂いたのもそうですが、
次をどうぞ。

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まさに様々なたくさんの戦闘が各地で繰り広げられていた訳でして、
そのままだと歴史の記録に1行残ってお終いになりそうな戦い、
だったかもしれない、アンギアーリの戦いですが、

レオナルドが描いた事、またその実験的手法の失敗から放棄され、
レオナルドを尊敬していたヴァザーリがその上に直に描く事を躊躇い、
何センチかの隙間を開けて下地を作っているらしい事から、
尚の事、この幻の名作と相まって名が残る
「アンギアーリの戦い始末記」でした。

フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮 その1
フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮 その2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461595718.html       

     
ほんの何名か上に傭兵隊長の名も出ましたが、到底ここに全部書く
スペースも無く、
最後に一人だけ、アンギアーリ出身の当時の有名な傭兵隊長、
現在の町の広場にその名を残すバルダッチョ・ブルーニ(ダンギアーリ)
Baldaccio Bruni(d'Anghiari)について、ほんの少し。

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1400年頃にアンギアーリ近郷の生まれで、乱暴な馬鹿騒ぎの
好きな若者、2度も死刑判決を受けながら、その都度逃げおおせ、
傭兵になって戦いの経験を積み、どんどん大物に育ち、
名声が上がるにつれ、それを人々は恐れもするようになります。
当時フィレンツェに於いて頭角を現し始めたコージモ・デ・メディチを
頂く党派もそうだったと。

マッキャべッリの描く所によると、
当時、彼ほどの肉体と魂を超える者はいない、という男。

それが1441年9月6日フィレンツェはヴェッキオ宮に於いて殺害されます。
ゴンファロニエーレ・ディ・ジュスティーツィア・Gonfaloniere di giustizia
という、いわば政府の長であるバルトロメーオ・オルランディーニ・
Baltolomeo Orlandiniから呼び出され、

裏切り者という名の元に殺し屋の手にかかったのですね。
このオルランディーニをバルダッチョは以前に敵前逃亡で訴えた事があり、
それを恨んでの、現在の立場を利用しての殺害。
   
切りつけて、窓から中庭に放り出し、殆ど死んでいたのを斬首、
遺体は広場に何時間か放棄された、という凄惨なもので、
この逸話はフィレンツェの人々の心にも深く触れ、
話を聞いた法皇も哀惜の念を禁じ得なかったと。

1439年2月16日にアンナレーナ・マラテスタ・Annalena Malatesta
と結婚していたのですが、彼の殺害後に幼い息子ガレオット・
Galeottoも死ぬと、彼女は持ち物一切を売り払い、アルノ河向こうの
修道院に引き籠ったと。 はい、マラテスタ家の女ですねぇ!

傭兵という仕事は、報酬次第でどちらにでも付いて働きますが、
それでも中には気に染まない仕事を断る、一国の主程の封土を持つ
等など、様々な人間模様が窺われ、
このバルダッチョの様に、判官贔屓の涙をそそる逸話もあります。
そうそう、彼の幽霊がヴェッキオ宮の物陰に潜み、復讐の機会を
狙っているとか・・。  訪問の際には、どうぞお気を付けて!



最後は町のパンフレットから、時代衣装の行列を。
     
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なんとか上手く纏まり、お楽しみ頂けるように願います!!


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