◆ ジョルジョ・ペルラスカ Giorgio Perlasca (1910~1992)

この古いセピア色になった写真の男性は、ジョルジョ・ペルラスカ。
ハンガリアにおいて、ナチの強制収容所に連れ去られる運命にあった、
5218名に及ぶ、ユダヤ人を救いました。
その事は彼が亡くなる2年前の1990年まで、奥さんも、彼の息子も、
誰も知りませんでした。 彼が何も言わなかったからです。
たまたま、彼に助けられたユダヤ人女性が彼を探し回っていて、
この事実が明るみに出ました。
誰も知りませんでした。 彼が何も言わなかったからです。
たまたま、彼に助けられたユダヤ人女性が彼を探し回っていて、
この事実が明るみに出ました。
彼は元々ファシスト党員で、スペインでフランコ将軍の下で働き、
ついでハンガリアに行きました。
そこで見たナチの残虐さに、彼は何かをせずに居られなくなったのでしょう。
ハンガリアは、共産党の勢力が台頭して来ていた事もあり、
ナチは大変酷い事をしたと言います。
ついでハンガリアに行きました。
そこで見たナチの残虐さに、彼は何かをせずに居られなくなったのでしょう。
ハンガリアは、共産党の勢力が台頭して来ていた事もあり、
ナチは大変酷い事をしたと言います。
彼はスペイン語が堪能でした。 自身の名前をスペイン人名にし、
スペイン人だと名乗っていました。
そのスペイン語を生かし、スペイン外交官のふりをして、
外交特権まで利用し、ユダヤ人救出に奔走しました。
スペイン人だと名乗っていました。
そのスペイン語を生かし、スペイン外交官のふりをして、
外交特権まで利用し、ユダヤ人救出に奔走しました。
戦後長い間彼を探し回っていた人々は、
スペイン人だと思い込んでいたので、見つかりませんでした。
スペイン人だと思い込んでいたので、見つかりませんでした。
そしてやっと彼が見つかり、TVにも出ましたが、
まだ映画「シンドラーのリスト」の前で、余り注目を集めなかったと。
まだ映画「シンドラーのリスト」の前で、余り注目を集めなかったと。
改めて彼のインタヴューも、部分ながら見る事が出来ました。
質問の「なぜ、黙っていたか?」に
彼は不思議そうに「なぜ?(なぜ話さなければいけなかったのか?」と。
質問の「なぜ、黙っていたか?」に
彼は不思議そうに「なぜ?(なぜ話さなければいけなかったのか?」と。
彼にとっては、自慢するほどの話ではない、という事なのか、
他の理由があるのか、それは分りませんが、
戦後の長い時間を、黙って過ごせる所に、
彼の並々でない、意思の強さを見た思いでした。
他の理由があるのか、それは分りませんが、
戦後の長い時間を、黙って過ごせる所に、
彼の並々でない、意思の強さを見た思いでした。
ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅から、左手リスタ・ディ・スパーニャと
呼ばれる通りを行き、最初に出会う橋ポンテ・グーリエを渡り、
左に折れ少し進むと、右手に「カンポ・ゲットー・ヌオヴォ」への
標識が見つかります。
少路の入り口左手には、ユダヤ料理のレストランがあります。

中程の暗い狭い広場の壁に、この碑文が刻まれています。
1939 ~ 1945
200人のヴェネツィアのユダヤ人
8000人のイタリアのユダヤ人
600万人のヨーロッパのユダヤ人
盲目な 残忍な 憎しみから
遠い地に 追放され 拷問され 抹殺された
人間的文明に対する 残忍な 冒涜の記憶に
神聖なる神の法にかけて
全ての人類の 兄弟愛の感情に呼びかける
全ての民衆の中で 最初にイスラエルが愛を込めて 明言する
200人のヴェネツィアのユダヤ人
8000人のイタリアのユダヤ人
600万人のヨーロッパのユダヤ人
盲目な 残忍な 憎しみから
遠い地に 追放され 拷問され 抹殺された
人間的文明に対する 残忍な 冒涜の記憶に
神聖なる神の法にかけて
全ての人類の 兄弟愛の感情に呼びかける
全ての民衆の中で 最初にイスラエルが愛を込めて 明言する
道の一番奥にゲットー・ヌオヴォ広場があり、南側にこの建物があり、
広場の左側から奥にかけて、ホロコーストを表現した浮き彫りが並び、
建物の中には美術館があります。

寄贈されたたくさんの繊細なユダヤの美術品があり、
学生達のグループや次々と外国からの観光客が訪れます。
この広場に至るすぐ近くの角に、シナゴーグもあり、
そちらも見学できます。
ヴェネツィアのゲットーは周囲を運河に取り囲まれ、島のような造りに
なっていて、広場の建物の下を潜るとこの橋があります。

見回してみて、周囲の建物と同じ様でどこか違う、と。
建物の高さは同じ様ですが、隣は4階で、このゲットーは5階です。
つまり、部屋の高さが低いのです。
狭いゲットーに、たくさんの人が住まねばならずからでしょう。
少し胸が痛くなりました。
1月27日の追悼の日は、1945年の
「アウシュヴィッツの絶滅収容所解放の日」の記念からだそう。
「アウシュヴィッツの絶滅収容所解放の日」の記念からだそう。
日本では単に「強制収容所」と呼びますが、
こちらでは「絶滅収容所」と呼び、区別しています。
イタリアにもいくつか「強制収容所」があり、
トリエステにはイタリアで唯一の「絶滅収容所」もありました。

こちらに来てから知ったたくさんの事柄。
私の想いを込めて、マニョーリアの花を捧げます。
私の想いを込めて、マニョーリアの花を捧げます。
トリエステの絶滅収容所については
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