・ ニンファの庭園 ・ 中世のポンペイ + イギリス式庭園

今回のご案内は、ニンファの庭園・Giardino di Nonfaと呼ばれる、
イタリアの自然記念物指定も受けている、世界的に有名な庭園のご案内を。

中世に町が放棄され埋もれていたのを、19世紀末から持ち主が情熱を込め
イギリス式庭園に蘇らせたもので、現在は年間5万人もの人々が訪れるという、
人気のある庭園で
写真がいつもよりもずっと多くなりましたが、庭園内を散策されるおつもりで、
ごゆっくりどうぞ!

写真は、ニンファの庭園に向って上る道から見えた、宿にした海辺の町
テッラチーナの西に延びる岬の形、顔を上に向け日に当る姿の様だとも。

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地図をどうぞ。 ニンファの庭園・Giardino di Ninfaは中央上に。
右下に見えるセルモネータ・Sermonetaの町の城塞と共に、かってのカエターノ家の
ものが、現在はカエターノ財団のものに。
ニンファの庭園から九十九折りの道の上にノルマ・Normaという町、後ほどご覧に。

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中ほど下に真っ直ぐ伸びるSS7の道、右下にStrada Statale 7 Via Appia
と見えますが、これがテッラチーナからローマに続くアッピア街道が現存している道。



バスが庭園に近づき、チラッと見えた湖。

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入り口脇のショップにある鉢植えの花々。 黄色や濃いピンクのカラーの花が鮮やか!

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公園の専門ガイドに連れられ庭園内に入り込むと、うっそうとした緑の小道が奥に続き、

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上でお話したノルマの町がこんな風に!
岩山の上に細く繋がり、この部分が多分旧い町部分と。

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まず教会の入り口扉から入り脇に抜け、ここで一通り庭園に付いての説明を
受けますが、勝手にあちこち入り込まないようかなり厳しく注意され!
 
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元教会、確か、サン・ピエトロ教会で、建物の屋根の右上にもう一つ高く
教会入り口部分の壁が見えるのが分りますか? この建物はそれを改装してあり、



こちら背後にあるのが、後陣部の半円の名残と。

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その左手には、うっそうとした糸杉の並木が続きますが、こちらは入れず。

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横にある、鐘楼の残り、足元部分。

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「ニンファの庭園」、ニンファはニンフ・妖精の意味ですが、元々この廃墟になった町の
名がニンファといい、ローマ期に近くにあった湧き水の神を称える礼拝堂に因むと。

元々の町は住人も少なかったのが、中世当時アッピア街道は湿地帯に埋もれており、
近くを通る道が唯一ローマへの接続道で、商業交易の繁栄もあり、町は次第に豊かに。
所が教皇選出に関しての争いから、1171年フェデリコ・バルバロッサに略奪焼き討ちに
されたり、領主も次々替わり、

1294年カエターノ家のボニファーチョ8世が教皇となり、
1298年に甥のピエトロ2世カエターノが20万フィオリーニ金貨でニンファとこの近隣一帯を
買うのを援け、カエターノ家がこの一帯に以後7世紀に渡って勢力を持つ始まりに。

ピエトロ2世カエターノは元からあった城を拡張し、城壁に囲まれた内庭、
以前からの塔も高くし、城に城館も付け加えます。
が1382年東西教会分裂の抗争の際、ニンファの町は再び略奪され、
これ以降再建される事はなく、平地でのマラリア汚染にも影響され、
生き残った町の人々も町を捨て、カエターノ家もローマや他の地に。
       
こうしてニンファの町は廃墟となったのですね。

       
       
流れの脇、 水は本当に澄みきっていて、

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奥に日を浴び鮮やかな、日本の楓。

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果樹もあり、

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緩やかに曲がりながら奥に続く道。 遺跡の石が転がり、バラが花咲き・・。

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そしてまた先ほどの流れ、堰があり、

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少し低い部分には、あやめ科の花。

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木々に高低のアクセントをつける糸杉、 葉の色の違う植物の取り合わせ。

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かっての住宅だったと思われる遺跡に絡まる植物、咲く花。

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「庭園」と聞いてのみやって来て、花の咲き乱れる姿もなく、刈り込まれた
幾何学模様の生垣もなく、最初はいささか?だったのですが、

この辺りになって段々飲み込め、なるほどなぁ、遺跡を利用してロマンチックな
庭園にね、ぺんぺん草がはびこるのではなく、そういうのは一切排除し、
遺跡に絡まるのは薔薇の花という風情なんだ、と。

イギリス式庭園なる物を他では見た事がなく、このイタリアの強い太陽光線の下でも、
全体にうっそうとした暗さで戸惑いましたし、かなりブレて写ったのも何枚もあり、
花も咲き終って萎んだのもたくさんそのまま、という手入れの仕方も、
ちょっと他では見た覚えがなく、

廃墟の美を如何にも自然風に、それも美しくロマンチックに見せる、
という庭園のつくりなんだ、と納得した次第です。
     
コモ湖で見た花盛りの庭園  ヴィッラ・カルロッタ ・ コモ湖の別荘、庭園を
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/469194290.html



この辺りはぐるっと廃墟を回りこんでみる道取りになっていて、

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この教会サンタ・マリーア・マッジョーレがかっての一番大きな教会だったそうで、
フレスコ画が残っているのも見えますが、

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幾つかの作品は剥がされ、セルモネータの城のほうに移されていると。
?!見たっけ?!



こちらは鐘楼跡。

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小さな遺跡の壁跡を覆う薔薇の茂み。

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清楚な薔薇の花、ぽわぽわの塊、大きな紫のテッセンの花。

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遺跡の壁と大振りな葉を持つ植物の取り合わせ。

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この中世の町の廃墟を、16世紀にカエターノ家出身の枢機卿、植物学を愛する
ニコロ3世がお気に入りの庭園とすべく、小範囲で取り掛かった様ですが、
枢機卿の死と共に計画は消え、が、鱒の養殖や貴重な果樹もあったそう、
       
次の挑戦は17世紀のフランチェスコ4世公爵カエターノで、情熱を注いだ物の、
彼もまたマラリアに退散せざるを得ずで、ただし彼の取り掛かった水脈と泉は残ったと。

こうして19世紀にはこの庭園の魅力を伝え聞き、「中世のポンペイ」として
訪れる人々がたくさんいたのだそうで、
19世紀末に遂に、オノラーロ・カエターノ・Onoraro Caetaniの妻イギリス人の
アーダ・ボットゥル・ウィルブラハム・Ada Bootle Wilbrahamが、彼らの6人の
子供のうち2人の息子ジェラージオ・Gelasioとロッフレード・Roffredoと共に、
       
遺跡にはびこる大部分の沼地の植物を根絶し、最初の一連の糸杉、トキワガシ、
樅、多種の薔薇などを植え、幾つかの遺跡も修復し、
ロマンチックなイギリス式庭園に変えるべく、奮闘したのだそう!

現在財団の名となっている「ロッフレード・カエターノ財団」は、この時の
一人の息子の仕事を記念している訳ですね。

庭作りの仕事は、ロッフレードの妻マルゲリーテ・シャピン?・Marguerite Chapinに
引き継がれ、潅木やバラが植えられ、1930年代には著名人や芸術家達に
門が開かれますが、第2次大戦となり一族はセルモネータの城塞に避難し、
1944年になってニンファに戻ります。

最後のカエターノ家の当主は、1977年に亡くなったレーリア・Leliaでロッフレードの娘。
大変敏感、繊細な女性で、汚染物質を一切使わず、大きな絵を描くように
色の配置を考えつつ、たくさんの泰山木、イバラやツル性の薔薇を植えたのだそう。

彼女は子孫を残さず、ここに7世紀に及ぶカエターノ家は絶えましたが、
亡くなる前に庭園とセルモネータの城塞を護る為に前述した財団を設立。
庭園のサイト https://www.giardinodininfa.eu/

庭園訪問は、予約、日と午前午後の時間指定が必要で、このサイトから予約でき、
月に何日間かしか開かずですが、それも調べられます。
チャンスがありましたら、是非一度ご訪問を!

セルモネータの城も大変な威容で驚きましたので、またご案内いたしますね。
上のサイトで、カエターノの城の開城日と予約もできます。

n.1 ポンペイ遺跡 ・ 劇場二つ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465222138.html

n.2 ポンペイ遺跡 ・ 野外闘技場と、店あれこれ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465222417.html

n.3 ポンペイ遺跡  ・ パン屋、ルパナーレ、フォーロ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465222646.html

n.4 ポンペイ遺跡  ・ アポロ神殿、テルメ、牧神の家
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465223066.html

n.5 ポンペイ遺跡  ・ 秘儀荘 その1
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465223446.html

n.6 ポンペイ遺跡 最終回 ・ 秘儀荘 その2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465223960.html



1ヶ所、様々な色の花が咲き乱れる箇所があり、

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手入れ中の男性の姿。 

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ラヴェンダーはまだ蕾が固く、

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遺跡をすっぽり覆う花のある植物。

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如何にも、英国絵画に出てきそうな廃墟の姿、でしょう?!  

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艶やかな百合の花。

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ニンファ川の流れが広い場所。 陽が射していたのに、この後突然にぱらぱらと・・。    

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川を渡る3つの橋の1つ、マチェッロ・Macello橋。

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橋の名マチェッロというのは、屠殺場とか殺戮を指しますが、名の由来は2つあり、
1つはこの橋での戦闘で大激戦があった事、も1つは、すぐ近くに畜殺場があったからと!



一番小さなローマ期の橋。 本当に大人が渡れた?! 

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木製の橋。  どの橋も渡れず!

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川の向こう側。

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竹林。 筍の煮物を思い出し、つばが溜まるshinkai!

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8ヘクタールに渡る広さの庭園に、世界様々から集めたであろう植物が根付き、

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やっと普通に美しく咲いていた、はは、ピンクの薔薇。 

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かっての城跡、塔の高さ32m.      

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建て増しの城館跡と思われる壁の窓。

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塔の壁。

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右側には修復され、一時は住まいともされていた屋敷があり、
現在は財団の事務所もあるという部分。

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振り返ってみる、奥に誘う小路のローマの松。

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帰り道には、湖の風景を見逃さぬよう用心し、はは、
       
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こんな感じで、ニンファの庭園に別れを告げたのでした。
長いお付き合い、有難うございました!!


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